3 人間失格 中
「ほら、あれがタッちゃんだよ。」
エツ子はおさげを揺らしながら通りの向こうにある公園を指差す。
タッちゃんという幼い少年は、公園の噴水の淵に腰掛けて足をぶらぶらさせていた。
見たところ五つぐらいだろうか。
俯きがちな顔は青白く、目が落ち窪んでいる。
「顔色が悪いのはやはり吸血鬼だからか。」
おれがつぶやくと、そばにいた修二が「そう早急に決めつけるでない。」とたしなめる。
「昨日までのお前だって同じぐらい酷い顔だったぞ。」
思わず顔に手をやればエツ子にくすくす笑われた。
「吸血鬼かどうか確かめたい。しばしあの子どもの様子を見よう。」
修二がそう言うので、少し離れたところからタッちゃんの様子を伺うことにした。
買い出しに行かねばならぬというエツ子を帰してからもおれたちは公園で見張りをしていた。
その間タッちゃんは誰と話すでもなくずっと一人でふらふらしていた。
公園には他の子も遊びに来たが、タッちゃんと接触する様子はなかった。
そうこうしているうちに、日が暮れてきてしまった。
「おい、ずっとあの子一人でいるぞ。人を襲うようには見えないぞ。」
小声で修二に話しかけると、修二は眉根を寄せ考え込む。
「噂が広がって避けられているのやも知れぬ。
しかし、吸血鬼ならば飢えには耐えらぬはずだ。
半日ももつとは少し可笑しい。」
空の朱色が彩度を強くし、太陽が真っ赤に燃える。
日暮れを知らせるチャイムがあたりに響く。
チャイムの音にタッちゃんはパッと顔をあげて立ち上がると、勢いよく駆け出した。
「おい、あの子いっちまうぞ。」
振り返れば後ろにいたはずの修二がいない。
「お前は先に帰れ。」
声がしたかと思えば、修二はもうタッちゃんの後を追いかけて駆け出していた。
「おうい、修二!」
追いかけようと呼びかけるも、修二はいってしまった。
修二に置いて行かれたおれは、仕方なく1人で帰った。
母家の戸を開け、「椿さん、ただいま帰りました。」と声をかけたが返事はなかった。
外出しているのだろうか。
しかし玄関には椿さんの履き物があった。
「椿さん。」
おれは呼びかけながら家にあがった。
廊下を歩くと、手前の茶室から物音がする。
「椿さん、今もどりました。」
おれは声をかけて茶室の襖をあけた。
そしてそのまま腰を抜かしてしまった。
そこには、鶏の首に食らいつき生きたまま血を啜る椿さんの姿があった。
ものも言えないおれに気づくこともなく、目の前の女は一心不乱に獲物に喰らいつく。
女の血を啜る音だけが部屋に響いた。
やがて血を吸い尽くしてしまうと女ははっと顔をあげた。
「凛太郎…!」
絶望したような表情を浮かべたのは椿さんの方だった。
おれは何か言わなければいけない気がして口を開いた。
「あの…襖を開けてしまってすみません…。
声はかけたのですが…。」
掠れた声の不格好な言葉しかでなかった。
椿さんは白いハンケチで上品に口元をぬぐった。
「凛太郎、少し話をしよう。」
縁側からは庭がよくみえる。
手入れがゆきどどいていないが故に生い茂った緑の中で、桔梗の花が美しく咲いている。
「荒れ果てた庭でも咲く花のけなげなことよ。」
いとしげに花を見つめる椿さんの横顔は可憐で、とても血を啜る化け物だなんて思えなかった。
「見苦しいものを見せたな。
すまなかった。」
椿さんは頭を下げた。
「日に何度もああしなければ、耐え難い飢えに襲われるのじゃ。
そうなれば人を襲ってしまうやも知れぬ。」
椿さんは悲しそうに目を伏せた。
あれは吸血鬼の本能に対する椿さんの必死の抵抗なのだ。
「椿さん、吸血鬼とは何なのでしょう。」
「吸血鬼とは、死んだ人間じゃ。
姿形は生きていたころそのもの。
吸血鬼になったとて生前の記憶を失うでもなく、人格が変わるでもない。」
お嬢さんのことを思い出す。
お嬢さんは優しくて可愛らしくて、生きているの変わらなかった。
ただひとつ、おれの血を欲しがったことを除いて。
「それでも、吸血鬼は人間とはいえぬよ。」
「それはなぜですか。」
「人間が腹が空けば気が短くなるのと同じように、
吸血鬼も飢えればそのときは抑えが効かなくなる。
だから無我夢中で獲物を喰らう。
たとえそれが愛した人であってもじゃ。
そんなのは獣だ。
生き血を啜らねばいきてゆけぬ私たちを人間とは言えのうて。」
吸血鬼になっても自我を失うわけではないのだから、腹が満ちれば正気に戻るのだろう。
己が人の生き血を啜ったと気づいたときのお嬢さんはどんな気持ちだったのだろうか。
「生まれて、生きて、やがて死ぬ。
それが人間の理。
いかなる者もそれに逆らってはいかぬのよ。
だから吸血鬼は残らず退治せねばならんのじゃ。」
椿さんはおれに向き直る。
「凛太郎、お前に頼みがある。」
「おれにできることでしたら。」
「修二と私を退治しておくれ。」
おれは頷くことができなかった。
椿さんは、「頼んだえ。」と微笑んだ。