11 ドグラ・マグラ 其ノ壱
曇天の下の海辺というのは、げに陰鬱なものである。
生臭い磯の香りをはらんだ海風は重たく、べたべたと肌へ纏わり付く。
濁った波が岩場に激しく打ち付けられる。
荒れ狂う海に向かい合う崖は木々が鬱蒼としており視界が悪い。
俗世から隔たれたその場所に、若林女医の病院があった。
椿さんは朝になっても戻らなかった。
修二はおれを引っ張って飛来刑事の部屋に行った。
修二が扉を開けようとするのでおれは慌てて「ごめんください。」と叫んだ。
煙草をふかしたカツさんが開けてくれた。
「修二くんに凛太郎くん、昨日ぶりだね。
朝早くからどうしたんだい。」
「若林女医の病院に行かねばならぬ。」
修二の返事は無愛想で答えになっているのかわからなかったが、カツさんは「あぁ、やっぱり。」と頷く。
「若林女医が亡くなってからあの病院は廃墟になったんだよ。
だけどもあの病院に人が運び込まれるのが度々目撃されてる。
若林さんが何かしてるとしたらあそこで間違いないよ。」
「カツさんあんたいつの間に調べてたんだよ。」
目を丸くする飛来刑事に、カツさんは「聞き込みはこれがあればすぐでしょ。」と手帳をひらひらふってみせる。
「病院までは飛来に案内させよう。」
「勝手に決めるなよ。」
カツさんは文句を言う飛来刑事の手に地図を握らせる。
「飛来、お前もついていっておやり。
事件が起こっているならお前の仕事になるだろう。」
かくしておれと修二、飛来刑事は吸血鬼の待つこの廃病院へ来たのだった。
「おい、凛太郎。
聞いてるのか。」
今朝のことを思い出していると、おれの足を修二がかるく蹴った。
「入るぞ。」
修二が病院のガラス戸を開け、おれと飛来刑事が続いて中へと入った。
…ぶうううん、ぶうううん。
足を踏み入れたそのとき、この蜜蜂の唸るような音が鼓膜の中をゆらした。
病院のどこかでボンボン時計がなっているに違いない。
病院の中は恐ろしげな外観とは裏腹に清潔に保たれていた。
壁も床も、生命がいることを感じさせないほどの真っ白だ。
おれにはそれが窮屈に感じた。
「面会の方?」
やや場違いに感じる、明るい声が聞こえた。
振り返ればワンピースに白衣を羽織った若林女医が立っていた。
修二は大股で若林女医に近づき問い詰める。
「俺の姉は、椿は何処にいる。」
「あらやだ、あの子ったらご家族に何も言わないで来ちゃったのね。」
修二の険悪な顔にも若林女医は怯まない。
「椿ちゃんなら今は寝ているわ。
起こさないであげてね。」
若林女医は飛来刑事の顔を見ると、「刑事さんまで来ちゃったの。これじゃあたしが誘拐したみたいじゃない。」とけらけら笑った。
「心配しないで。
椿ちゃんは自分の意思であたしの研究に協力することを同意してくれたのよ。」
若林女医は「どこだったかしら。」と書類棚を漁った。
束の中から一枚の紙を引き抜いておれたちに渡した。
「これが同意書よ。」
椿さんの署名のあるその書類は、椿さんが若林女医の研究に協力するため入院することに同意したことを示していた。
おれは咄嗟に修二を見た。
修二の横顔は凍りついていた。
「やだぁ、そんな顔しないでよ。」
若林女医は笑って修二の肩を叩く。
「有意義な研究なのよ。
ちょっと見ていって、案内してあげるから。」
若林女医はおれたちを病院の中庭へと案内した。
中庭は広く、草が生い茂り、紫陽花の花が青い花を咲かせようとしていた。
それをぼんやりと見つめる、若い男。
その向かいで一心不乱に雑草をむしる老人。
子どもをあやす女。
花に水をやる老女。
穏やかだ。
それでいて、なぜだかおれには不気味に思えた。
「この病院はあたしが研究している『吸血鬼の解放治療』の実験場になっているの。
あの親子をみてちょうだい。」
若林女医は抱いた子どもをあやしている女を示した。
「あの小さな子供は、吸血鬼なの。
一週間前にお母さんと一緒にうちの病院へ来て、あたしの研究に協力してもらうことになったの。
お母さんは人間よ。
でもああして親子一緒に過ごすことが出来ている。
『吸血鬼の解放治療』はあんなふうに吸血鬼とその家族が共に生きることを目指しているの。」
微笑みかける母親に抱かれた子供。
それはまさしく親子の姿であり、被食者と化け物ではなかった。
「どうかしら。
お姉さんがあたしの研究に協力すること、納得していただけるかしら。」
若林女医は修二に笑いかける。
修二の顔には表情がなく、ただ瞳は湖のようであった。
「確認したいんだがよ。」
口を開いたのは飛来刑事だった。
「ここにいる奴らはみんなその同意書にサインしてんだな。」
「ええ、もちろん。」
「ならあんたは誘拐もしてねえし、無理やり治療をしてるってわけでもねえんだな。
それなら問題ねえ。」
飛来刑事は立ち尽くしていたおれと修二の肩を掴んだ。
「なら俺たちは引き上げるよ。
邪魔したな。」
飛来刑事はおれたちを引っ張って病院を後にした。
「飛来刑事、よいのですか。」
来た道を引き返しながらおれは飛来刑事の背に声を投げかけた。
「いいもなにも、同意の上なら出る幕はねえだろうが。」
「しかし…。」
「しかし、なんだよ。
それとも貴様は吸血鬼が人間と共にいるのは許せねえってか。」
いつもなら間髪入れずに否定するはずの修二は、黙りこくっていた。
そんな修二を飛来刑事も「いつもの威勢はどうした坊主。」と訝しむ。
修二は飛来刑事の手を払った。
「修二?」
覗き込むおれの視線を修二は逸らした。
「しばし一人にしてくれ。」
修二は何処かへと走り出してしまった。
「修二。」
追いかけようとしたおれを飛来刑事が引き止める。
「やめとけよ。
あいつだって考えたいんだろ。」
おれはあの中庭をみたとき考えた。
治療法がほんものならば、おれは椿さんや修二と共に過ごして居られるのだろうか。
彼らを退治しなくてもすむだろうか。
淡い期待を抱いた。
修二もいま、同じことを考えているのだろうか。




