10 屋根裏の散歩者 下
屋根裏は少しのほこりの匂いと、湿った木の匂いがする。
ひんやりと冷たい天井を音を立てないよう慎重に張って進む。
「凛太郎、三号室はここだろう。」
前を行く修二に囁かれ、おれは天井の板の繋ぎ目から下の部屋を覗き見る。
若林女医の住む三号室は間取りは同じでも飛来刑事の部屋とはまったく違って見えた。
紅や香水が並ぶちいさな鏡台。
備え付けの収納に入りきらなくなった着物をいれるため彼女があとから買ったと思われる衣装箪笥。
部屋にはそうした女性の生活を感じさせる家具と、研究のための資料が混在していた。
部屋の主人が好むものが所狭しと並ぶその部屋の中で、鴨居にかけられたままの首吊りの紐が異質さを放っていた。
台所の方から女の声がした。
「いまお茶をお入れするから、かけて待っていてちょうだい。」
若林女医だ。
彼女は客を招いていたようで、茶の準備をしているところらしい。
よく通る声は快活で、想像していた自殺した精神科医の声とは違っていた。
天井板の節目に目を押し当てて覗き込むと、茶を運ぶ若林女医の姿がみえた。
開襟のワンピースを着て、ショートカットの髪にパーマを当てたハイカラな女性であった。
「わざわざきてもらってごめんなさいね。
疲れたでしょう。」
若林女医に来客の声が応える。
「構わぬ。
用があったのは私のほうじゃ。」
その声におれは驚いた。
それは、椿さんの声だった。
若林女医の来客は椿さんだったのだ。
「吸血鬼について何やら妙な研究をしとるというのは本当かえ?」
椿さんは修二に似た無愛想な声で問う。
椿さんはきっと吸血鬼退治の依頼を受けて、留守にしていたおれたちの代わりにここへやってきたのだろう。
「ええ、そうよ。
あたしはね、吸血鬼を人間にする研究をしてるのよ。」
椿さんに微笑む若林女医に、おれはえもしれぬ不安に襲われるのだった。
動き出そうとするおれを肩を掴んで修二が諌めた。
修二は食い入るように2人の会話をのぞいていた。
「私はその研究には賛同できぬ。」
「あらどうして?」
「吸血鬼はみな退治せねばならぬのじゃ。」
「吸血鬼がいない世界があなたの望みかしら。
それならあたしの研究はあなたの望みと対立しないと思うわ。
いいえ、むしろあなたにも喜んでもらえるはず。
人間にもどったなら吸血鬼はいなくなるでしょう。」
若林女医は自身ありげに胸をはる。
吸血鬼を人間にもどす、そんなことが本当にできるのだろうか。
「椿さん、あなたを人間にすることだってできるわ。」
椿さんはかぶりをふるう。
「それはできぬ。
私はもともと人間ではない。
私は吸血鬼と人間の子。
いわば死体の子なのじゃ。」
「何ですって。
ぜひあたしの研究に協力してちょうだいな。
あなたの力があれば、きっと研究を成功させることができるわよ。」
若林女医は、椿さんが成功の鍵に違いないと浮き足立つ。
「必ずあなたを人間にしてあげる。
あたしを信じて。」
椿さんは硬い声で「ならぬ。」と拒絶する。
「私は人間として生きてはいけない。
私は生まれてきてはならなかった。」
悲しげに目を伏せる椿さんの手を若林女医がつつむ。
「でも、あなたは生まれてきた。
生きる者はみな、生まれてきた理由を見つける権利があるとあたしは思うけど。」
「生まれてきた理由を見つける権利。」
「ええ、そうよ。
与えられるんじゃなく見つけるのよ。
ただ死ぬのを待つなんてつまらないじゃない。」
若林女医の声は明るくて、優しい。
なんだかおれはこの人は安心だ、信用できると、そんな気になってしまった。
この言葉を向けられた椿さんは、どう思ったんだろうか。
「気が向いたらいつでも来てちょうだい。
あたしは病院で待ってるから。」
若林女医は椿さんに名刺を握らせた。
「凛太郎。」
隣でのぞいていた修二がポツリとつぶやく。
「帰るぞ。」
「えっ。」
呼び止めるまもなく、修二は屋根裏をするすると素早く移動し引き返していった。
修二が目の前に吸血鬼がいるのに退治をしないのは初めてだった。
押し入れから飛来刑事の部屋へ戻れば、カツさんが
「おかえり。」と手をあげた。
「何か見つかったかい。」
修二はただ無愛想に「今日はもう帰る。」とだけ言って足早に部屋を出た。
おれは慌てて彼を追った。
「修二!」
後ろから声をかけても、先を歩く背中は止まらない。
おれは必死で追いかける。
「おい修二、どうしたんだよ。」
やっと追いついて肩に手をかける。
振り向いた顔は初めて見る顔だった。
「凛太郎、俺はどうすべきだ。」
修二は小さな声でそう言った。
無愛想で、足癖が悪く、せっかちで、そして冷徹。
吸血鬼を退治するという信念に忠実でぶれることがない。
おれの知る修二とはそういう男だ。
しかしそれは修二という人間のほんの表層にすぎなかったのだ。
修二はいま、迷っている。
「もし、本当に人間になれるのなら。
俺と姉さんは、生きていてもいいんだろうか。
それでもやはり、吸血鬼は残らず退治せねばならんのだろうか。」
おれは何も返せなかった。
修二もそれきりなにも言わなかった。
そのままおれたちは言葉を交わすことなく帰路についた。
信念が揺らいでしまった修二。
おれもやはり、揺れていた。
その夜、椿さんは家に戻ってこなかった。




