プロローグ
室温の管理された病室は暑くも寒くもない。いつもと変わらない一定の温度、それが無性に俺をイラつかせる。『ロストタイズZ』と題された文庫本を机に放るように置き、俺はベッドに寝転がる。暇な入院生活で何度も読み返したそれが、最近だんだん重くなっている気がするのは気持ちの問題なのか。それとも悪化している病状のせいなのか。あと半年で四十代になるというところで人間ドックで引っかかり、あとはあっという間だった。健康だった頃がひどく遠い昔のようだ。
陰鬱な気持ちを紛らわせるために先ほどまで読んでいた本の内容を思い出す。元はコンシューマーゲームであり後にソーシャルゲームになった物のサイドストーリーとして出版された本である。コンシューマーゲーム時代はファンタジー物のアクションロールプレイングゲーム、ソシャゲでは戦略シミュレーションになり、マンガやライトノベルにもなったのだが媒体が変わるたびに内容が絶望に満ちていく心折設計になっている。
俺はその絶望的な物語の世界で活躍する妄想を入院以来頻繁にしている。何の意味もない現実逃避だが、俺に残された時間では何か意味のあることなど出来るとは思えないから別に良いだろう。何も出来ないからこそ鬱になりそうなゲームの中で無双して、英雄として持て囃される想像は甘く離れがたい。
コンシューマーで発売された時にはタイトルにZの一文字は無かった。『ロストタイズ』のタイズは英語でTies。意味は絆、タイトルからして絆が失われているわけだ。物語の冒頭でこの世界は大量のモンスターによる侵攻を受ける。いくつもの国が滅び人々の心は荒んでいった。そこで人々の絆を取り戻し、仲間や重要キャラとの絆を深めるたび主人公が強くなっていく仕様だ。
このゲームは強くなった主人公がモンスターの侵攻を魔法国家マヤトガから押し返し普通にハッピーエンドになる。ただし侵攻は世界規模なのに他の国に侵攻した魔物の群がその後どうなるのか語られていないし、侵攻そのものの原因についても言及されていないなど、まあ若干怪しいところもあるがハッピーエンドである。誰が何と言おうとハッピーエンドだ。
問題はソシャゲに移りタイトルにZが付いてからである。各ユーザーが各々の国を治め、他のユーザー達の国と連携してモンスターの大侵攻に対応する戦略シミュレーションなのだがモンスターの数が多すぎて攻略不可能ではと噂されていた。クリアではなく何日耐えたかを競うゲームと言われ、討伐数ランキング報酬欲しさに足の引っ張り合いや裏切りが横行し協力プレイなど夢のまた夢。『ロストタイズZ』のZは「絶望のZ、いや地獄のZだ」などと罵倒された。絶望に満ちた地獄をゲーム内で表現したかった制作陣の悪意の結晶だと揶揄された。
そして俺が読んでいた本はゲームに出てきたモブキャラ達の日常とそれが壊れていく様子を書いたものだ。何気ない日常、大切な誰か、来るはずだった普通の明日、それらが無惨にも蹂躙されていくのだ。
医者が知れば「いや何でよりにもよってそんなものを選んだ」と言われそうだが、普通のコメディやラブコメだと今はのめり込めないのだ。自分と同じかそれ以上に悲惨な者達を、しかも創作物のそれら救うことを妄想して喜ぶなど自分の矮小さに自嘲したこともあった。だが今はそんな思いすら無駄だと切り捨ててしまった。そうなると話が悲惨であるほど自然に自分に入ってくる気がするし、救い甲斐もあるというものだ。
今日もいつもの現実逃避でこのまま一日を終えるだろう。そして明日も。