口紅と零戦乗り
僕の祖父は酔った勢いでよく自分の青春時代を語ってくれた。僕がまだ一人で寝るのが恐い年の頃、祖父がしらふの時に何度訊いても、アブを払う牛の尻尾のごとく、僕を相手にしなかった。でも、祖父が酩酊し語り始めると、真面目な聞き手は僕ぐらいしかいなかった。そういうときの祖父は家族から、唯の虚言癖の老人としかみなされていなかったからだ。確かに、祖父の話は聞く度に登場人物は一変し、結末はいつも異なっていた。死んだはずの人間が生き返り、栃木の話が鹿児島に変わったりするのはしょっちゅうだった。しかし、子供の僕には栃木と鹿児島の区別は難しく、興味は祖父が生きた昔の世界であり、それは車が空を飛ぶ未来に対する好奇心となんら変わりはなかった。
祖父の話の中で僕が一番好きだったのは、祖父が特攻へいく話である。この話はいわば、僕と祖父の共同創作といってもよいもので、僕が小学校へあがる前に祖父はガンで亡くなり、その後僕の頭の中で様々に脚色、改変され、すでに原型は思い出すことは不可能な程になってしまっている。
祖父、宮前幸太郎はゼロ戦乗りだった。整備士だったという話も聞いたことがある。祖父は居間で左手を自機に右手を敵機にみたて、ぐるぐる手を回し空戦を演じて見せた。口をすぼめ、前に突き出しながらガガガガと機銃掃射をし、見事敵機を撃墜してみせる。時々力が入ると、勢い余ってテーブルのお酒をこぼすこともあった。祖父は倒れたコップを両手に握り操縦桿とし、ふらふらの自機を左右に体を揺らしながら懸命に基地に戻ろうとあくせくするのだけど、祖父は酔っているものだから、本当にそのまま倒れてしまうのではないかとハラハラドキドキしたものだった。祖父の零戦が無事着陸すると僕と祖父は一緒にふぅーとため息をつく。
ある日のことである。祖父は訓練を終えて、基地内をブラブラしていると通信施設で働く女学生の集団を見る。祖父はその中の一人に一目ぼれしてしまい、呆然と立ちつくしていた。それからというもの、祖父は女学生を見かけるたび彼女を探すようになる。そのおかげで祖父は皆にスケ幸とあだ名されることになった。
「うわっ、はっ、はっ、はっー。なあ浩一(僕の名前である)ケッサクだろ?スケベの幸太郎でスケ幸ときたもんだ!はっ、はっ、はっ、はっ」
祖父がやっとのことで初めて彼女に話しかけるのに成功した時、「あら、スケ幸さんね?」といわれ、祖父は顔を真っ赤にしてうつむき、子供のようにダンマリしてしまった。僕は祖父の顔を見る。お酒のせいで真っ赤である。祖父は「へっ、へ、へ」と恥ずかしそうに笑う。二人の関係は遅々と進まなかったが、お互いに好意を抱いていることは知っていた。その娘の名前は美千代という。祖父は美千代が時々モンペの右ポケットの辺りを触れる癖があるのに気付く。祖父は尋ねる。彼女はおもむろに中のものを取り出す。祖父は最初それが何なのか分からなかった。
「口紅よ」美千代は教えた。「母さんに銀座で買ってもらった思い出の口紅」。「へぇ、きれいなもんだ。つける機会が無いのは残念だな」。「つらいときにモンペ越しにこれに触れると勇気が湧いてくるの」と美千代はいつくしむ様に手の中で口紅を転がした。
「戦局は悪化していた」。祖父はこう言う時、急に真面目くさった表情になる。「美千代に会う機会もほとんどなくなってしまった。そんな時に特攻の作戦が告げられたんだよ。自分は躊躇なく志願した。そもそも自分はこの戦争で生き残るなんて考えてもいなかったからな」と自分の運命を計るかのように左手の酒の入ったコップを傾けながら祖父は語った。
祖父は美千代に何とか連絡を取ろうと人づてに手紙を頼むが反応が帰ってくることはなく、祖父は特攻の日まで自分の死よりもそのことで頭を悩ますことになった。出撃の日、250キロ爆弾を抱えた零戦は太陽の光をその翼に浴びて、男たちの人生を乗せて飛び立とうとしている。見送る大勢の女たちの中から祖父が美千代を見つけるのは容易だった。一人だけ顔が異なっていたからだ。美千代の唇には薄く紅がさしてあって、祖父にはそれが一際華やかで目立っていて、彼女の悲しみを湛えた瞳とその場にふさわしくない化粧は祖父に二度目の一目ぼれを体験させたに違いない。祖父はその時、自分が死人だということに気付いた。「天国から下界を見下ろしている感じだったよ。あれこそ夢の世界だった。そして自分がどれ程死を恐れていたかを悟ったんだ」。「夢から覚めたときには2時間以上太平洋を飛んでいた。・・・まぁ驚いたね」
祖父の特攻は失敗に終わった。機器の故障で洋上に不時着し、そこで三日間漂流した後、米軍に保護され捕虜の身で終戦を迎えた。終戦後、祖父は焼け野原となった東京に戻り、生きていくのに精一杯で美千代のことは次第に忘れていったという。祖父は十年くらい経って、生活が安定しだすと美千代の故郷に行くが、戦後まもなく引っ越していて、その後も追ってみたものの美千代の一家は各地を転々とし、ついには祖父は行方を失い、美千代探しの旅を諦めた。祖父は語り終えるとすぐ別の話題にうつった。祖父が起こし、失敗した会社のことや、祖母との出会いなどで、僕にとってそれらは退屈なものだった。結局、祖父は二度とその美千代さんという人と再会することはなかった。
だがこれには僕だけの後日談がある。夏休み、僕が中学の部活から家に帰ると、玄関入ってすぐ線香の臭いがした。「誰かお客さん来たの?」と訊くと、母親が「そう、おじいちゃんの知り合いの方がね。戦後、おじいちゃんが生きていると聞いて、探していたらしいわよ。そんで、最近偶然知ってうちに来たの」。僕は靴を脱ぎ、カバンを放り出して、うちに上がり仏壇を見ると線香は半分くらい燃え残っていた。
「ねえ、どういう人だった?名前は?」
「笹木だったかしら?笹木美千代さんよ。若々しくチャーミングなおばあちゃんだったわよ」
僕は帰り道そういう人とすれ違わなかったか考えながら訊く。
「どっち行ったのかわからない?」
「どうしたのよいったい?」
「いいからっ、答えて!」
「お墓の事聞いてから、多分―」
それを聞くと僕は家を飛び出して電車に乗った。線香の燃え残りからするとすぐに追いつけるだろう。しかし、宮前家の墓には真新しい花が生けてあった。すでにそこには誰もいなかった。日が落ち始め、頬に涼やかな風が触るのを感じながら僕はそこにたたずんだ。笹木美千代はあの美千代なのだろうか?祖父が語ったことは何所までが本当で嘘なのか?祖父はワッハッハッハッと笑っている。顔を真っ赤にし、酒臭い息を僕に吐きかけ、遠い目をして、空のコップを手の中で転がしながら笑っている。