人生でもっとも長い家路
「おい、てめえ男のくせに何泣いてんだ? ギャハハ!」
「きゃっ!」
ヤンキーが僕の股間を思いっきり蹴る。何の抵抗もできない自分が哀れだ。
「女みたいな声だしやがって! なんで女装してた? 変態さんよ!」
ヤンキーの暴力は続く。
「力もないし、心も身体も声も何もかも、みーんな女なんだな! お前は!」
この言葉を受けて、僕の中の何かが働いた。ヤンキーが宙に浮かぶ。
「お、おわっ!」
鈍い音がした。……ヤンキーをやっつけたようだ。気絶しているヤンキーに気をとられているもう一人にタックルし、手枷と足枷の鍵を奪って拘束を解き、荷物を持って急いでカラオケボックスを出る。
よかった、無事に逃げ出せた。
とにかく早く家に帰ろう。それだけ考えながら歩みを進める。
外はもう真っ暗だ。カラオケ店の辺りは比較的繁華街なので人通りはあるものの、この辺は今まで来たことが無い。家までどこを通ればいいのかわからない。左上の高架の上には鉄道路線が走っているから、これに沿っていけばなんとかなるだろうけれど、高架下は外灯も人通りもほとんど無い……。
仕方なく高架に沿って走っていると、駅が見えてきた。「萩屋駅」……。萩屋駅といえば、母さんが「あそこは絶対に行くな。治安があまりにも悪い」と言っていたところではないか! とりあえず、怖いので駅の中に入ってみる。
改札外の狭いスペースにはミスタードーナツやキオスクがあるが、閑散としていて人はいない。僕は家に帰りたい一心で駅員に尋ねる。
「あの、王寺駅に行きたいんですが!」
王寺駅は、僕の家の最寄駅だ。
「王寺駅に行くなら、ここから各停で新宮田駅まで行って、そこからJR線に乗り換えるといいですよ」
「あの……。お金を持っていないので、歩いて帰りたいのですが……。どう行けばいいんですか?」
人に敬語で尋ねるのは僕が一番苦手とすることだ。体は緊張で(夜だったので寒さもあるかもしれないが)震えている。
「あの……ここから歩いて王寺駅まで行くのはかなり危険ですよ。……私が無料で切符を発行するので、少々お待ちを」
「えっ……そんなの、いいんですか?」
「当社は、お客様を安全に目的地までお送りすることをモットーとしていますから」
お客様って……。お金を払っていないんだから、お客様ではないだろう……。しかし僕は、そんなことを言って切符を作ってくれる駅員さんに感謝した。もしこの駅員さんが、こんなに優しい人じゃなくて、強面のヤンキーみたいな人だったら今頃僕はこの近くで大変なことになっていたかもしれない。
「切符を発行致しました。どうぞ中へ」
駅員さんは手を振って僕を送ってくれた。なんて優しい人なんだろう。僕は心底感謝した。
駅のホームは木造(地面はコンクリートと思われるが)で、ボロボロで照明もほとんどなく、とんでもなく不気味であった。ベンチに座り、路線図を見てみると、新宮田駅はそれほど遠くないみたいだ……。けれど、僕の家からそう遠くないところにこんな路線があったなんて、知らなかった。多分僕がこの路線を使うのは、今回が最初で最後だろう。あの駅員さんには申し訳ないと思うが。
『電車が参ります。ご注意下さい』
それほど待たずに電車は来た。ホームの端に立ち、乗る準備をする。しかし、やってきた電車は目の前を悠々と通過していった。
「は?」
スカートが翻る。思わず声を出してしまった。電車が参ると言ったから、まさか通過されるとは思わなかった。
仕方なく僕は再びベンチに座る。
……考えてみれば、あのヤンキーよくこんな遠いところまで僕を運んだなあ。電車だとすぐのようだけれど、歩いてここまで来るのはかなり大変だと思うのだが……。
程なくして、再びアナウンスがかかる。
『電車が参ります。ご注意下さい』
どうせ通過だろうと座ったままでいると、やっぱり通過列車だった。
その次も、そのまた次も、通過列車だった。通り過ぎて行くのは皆急行、急行、急行、急行……。各停なんてやつ、本当に来るのか?
もしかして、目的の列車が来るのとは違うホームに来てしまっているのかもしれない、と思って反対側を見てみると線路が三セット。そのうち一つを『普通列車が』通過していった。ん? 普通列車って、全部の駅に止まるものじゃないのか? なんで通過したんだろう……。いや、よく見てみればはなっからホームが『無い』。……ひどい、ひどすぎるぞ、萩屋駅。
次のアナウンスで、やっと各停がやってきた。易波行きと書いてある。易波といえば、当市有数の大繁華街じゃないか。そんなところに、こんな路線が走ってるんだなあ……。
電車には誰も乗っていなかった。車内は適温に保たれていて、心地よい。
今日は色んなことがありすぎて、疲れた……。でも、これに乗って新宮田からJRに乗り換え、王寺から徒歩十分で家に帰れる……。ようし、家に帰ったらすぐさま眠ってやる! あ、でも、その前に、今日あったことは報告しておかないと……。
『次は、天屋、天屋』
天屋……? 天屋といえば王寺駅の中にある、天ぷら専門店の名前じゃないか。不思議な駅もあるもんだな……。ふと地図を見てみる。萩屋駅の左隣に天屋駅と書かれている。しかし、新宮田駅は萩屋駅の右にある。あれ……?
――電車を乗り間違えた……。
くそっ、僕はいつも失敗してばかりだ。とにかく、次の天屋駅で反対方向の電車に乗り換えるしかない。
天屋駅にはすぐ到着し、僕はホームに降り立つ。萩屋駅とはうってかわって綺麗で、大きくて、人が多かった。ホームの反対側には多数の人が並んでいる。新宮田方面行きの電車はおそらくこっちに来るのだろう。この人数だと、車内は大混雑になりそうだが、仕方あるまい。
やってきた電車には『特急』とだけ書かれていた。特急って確か速いやつだったから、これに乗ればすぐ……のはずだ……。
電車は満員だ。背が小さい僕は他人の背中しか見えない。足は少し浮いている……。こんな状態で、ちゃんと新宮田駅に降りられるのかなぁ……。
車内は熱気でムンムンしている。気分が悪くなってきた……。それに、なんとなくお尻に違和感がある。
お尻に手を伸ばしてみると、他人の手に当たってしまった。
「あ、すみません」
しかしその手は何の反応もせず、僕のお尻を触っている。違和感はこれか。昨日に引き続き、今日も痴漢に遭っている……。怖くて僕は何の抵抗もできない。その手に触られっぱなしだった。
やがて、手はスカートの中にも伸びてくる。前を触られると確実に男とバレてしまう。昨日は人通りがほとんど無い場所だったからよかったが、こんな満員電車の中で「こいつ男だ!」とでも叫ばれたらたまったもんじゃない。恐怖を乗り越え、僕は叫んだ。
「お前何してるんだよ!」
周囲の視線がこっちに集まるが、僕は無視した。痴漢の手を掴み、ぐいと引っ張る。しかし、全く動かない。僕が貧弱であることがここでも祟った。
「出て来いよ! 変態!」
すると、逆にこっちが痴漢に引っ張られた。人の間を通り抜け、痴漢した本人が現れる。
「お前がぼ、……いや、私を痴漢したのか!」
「君、電車の中で大声で叫んじゃいけないよ。マナー違反だよ」
痴漢野郎は僕に小さな声で囁く。
「俺が痴漢したってバラしたら、どうなるかわかっているだろうな」
「うっ……」
僕は恐怖を感じ、人ごみをかきわけて逃げた。
人ごみの先に、ガラガラで全然人が居ない車両があった。女性専用車両だ。普段の(?)僕なら入れないところだが、女になった今なら乗り込むことが出来る。
椅子に座ってほっとし、電車の案内を見た瞬間、僕は凍りついた。
――また電車を間違えた……。
しかもこれは特急列車だから、到着までだいぶ時間がある。帰る時間がとっても遅くなって、お姉ちゃんや母さん、いや、父さんにも、こっぴどく叱られるだろう。帰り道も心配だし……。
ああ、早く着けじれったい! 次に停まる駅はあと三十五個も先だ。そこまで往復したら、いったいどれくらいの時間がかかってしまうのだろうか……。JR線の終電が無くならなければいいが……。
やっと特急が駅に着いたとき、ホームの時計は十時半ちょっと前を差していた。新宮田! 新宮田に行くのはどいつだ!
どうやら、線路を挟んだ反対側のホームに特急が来るらしい。新宮田には一応特急が停まるらしいので、セーラー服に不似合いな走り方で急いだ。
家に戻ったのは次の日だった。こんな夜中に制服姿で歩いて、よく無事だったもんだ。
「た、ただいま……」
鬼のような形相で睨む二人の女。僕は間が悪そうに笑った。
「……どういうこと?」
「教えて?」
「い、いや、あの、その……」
今までの経緯を説明する。昨日の不審者の話よりずっと恥ずかしいが、仕方がない。
「じ、実は、変なヤンキーに絡まれて、連れて行かれて、男だってバレて、拘束されて、おもいっきり暴力を振るわれて、萩屋で彷徨って、電車を乗り間違えて……」
「はぁ? 何言ってるのか全然わかんないわ。もっとちゃんと説明して」
「はい……」
僕は半泣きになりながら、なるべく詳しく、なるべくわかりやすくなるよう工夫して説明した。なんか、女装生活が始まってから喋るのが下手糞になってきている気がするなあ……。
全てを話し終えると、姉は優しい声でこう言ってくれた。
「そんなことがあったの? 早く警察に伝えなきゃ。電話電話……」
お姉ちゃんが電話をかけている間、僕はずっと突っ立ったままだった。
「もしもし……」