まさかの痴漢、まさかの言葉
まずいなぁ……。晴香の入学式じゃなくて僕の入学式なんだから、わざわざ来なくてもいいのに……。しかもあの二人、こっち見て手振ってる。いい年して恥ずかしくないのかなぁ……。
僕たちは父兄の前の方の長椅子に座るみたいだ。着席すると、入学式だというのに皆口々に喋りだした。どこそこのアイドルがかっこいいだの、だれだれの歌が上手いだの。やっぱり、ここはアホ校だ。
聞き取りにくい司会者の声が流れ、禿げ頭の校長が前に出てきた。こんなに騒々しいのにも関わらず、挨拶をさっさと済ませて無駄話を始める。……あまりの騒がしさに、鼓膜が破れそうだ。
――やっとのことで入学式が終わり、下校時間となった。
「もう帰るんだ……」
そんなことを呟いていると、なんだか首がむず痒い。それが後ろから息を当てられていたからだと気づくのにそう時間はかからなかった。
「あの……。何か用ですか?」
「……」
女の子はそっぽを向いている。『私はあなたの首に息なんてかけてませんよ』と言っているようにも見える。
「あの……。すみません……」
「あっ、はい!」
「何か用でしょうか……?」
今のはなかなかお嬢様ぽかったと自分でも思う。
「な、なんでもありません……。いや、ただ……」
いったいこの子は何なんだろう……。
「あの、自己紹介だけ……。させてもらっても宜しいですか?」
「は、はい、いいですけど……」
「あの、あの、私、津川美希っていいます……。しゅ、趣味は音楽鑑賞です……。よ、宜しくね?」
「あ、はい、宜しく……」
笑顔が引きつっている。相当緊張しているのだろう。僕になんか、緊張する必要ないのに。
「あ、あなたは、なんていうんですか……」
「私は、月野ゆう……あっ、いや、月野晴香っていいます」
「は、晴香さんですか、い、いいお名前ですね」
僕は頬を赤らめた。
「――ありがとうございます……」
僕の名前を言いそうになって焦った……。でもこの子、育ちが良さそうでいい感じだ。話しかけずに、いきなり息を首に吹きかけてくるのもお茶目でかわいい。
「あ、あ、あの、今日は……その……。私と一緒に、下校しませんか?」
「えっ、あ、良いですけど……」
「わあ、ありがとうございます!」
女の子は手を大きく叩いて喜んだ。何もそんなに大袈裟にしなくても……。
「失礼ですが……。呼び捨てしてもいいですか?」
「ま、まあ、全然構いませんが……」
くっ、これが男のときの僕なら、有也って呼んでもらえるのに……。晴香って呼ばれても、嬉しくないなぁ……。
「あの、タメ口でもいいですか?」
「い、良いですよ」
「わあ、ありがとう! 晴香、今日は一緒に帰りながらいっぱいお喋りしようね!」
……いきなり友好的な喋り方になって驚いた。女の子ってそんなものなのか……。
女の子、いや、美希との楽しい会話を交わしている内に、いつのまにか教室には誰も居なくなっていた。なんというか、厳しいのか、いい加減なのか、よくわからない学校だなぁ……。
「じゃあ、美希、帰ろう」
あまりに軽い会話は僕には出来そうにもない。
「うん! 帰ろう!」
「えっと……。ねえ美希、どうして皆、いきなり居なくなっちゃったのかなぁ?」
「あら、私が晴香に話しかけていた頃くらいには、もう皆帰っちゃってたよ」
そうか……。美希との会話に夢中で、僕は全く気づいていなかった……。
「――ねえ晴香、私がなんで晴香と友達になりたがったのかわかる?」
「えっ……わからない……わ……」
「晴香がかわいかったからだよ!」
そんな……僕は男だぞ。いくら格好が女だからといって、かわいいわけがない。
「えっ……嘘でしょ?」
半笑いになりながら僕は答える。
「嘘じゃないよ、本当。だって、クラスの皆も、晴香の方ずっと見てたし」
「そ、そうなの? 私、全然気づかなかった……」
僕はそんなにかわいく見られていたのか……。嬉しいような、悔しいような、悲しいような……。
交差点で僕が足を止めると、美希が申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、私の家こっちの道なの。また明日ね!」
「あ、さようなら……」
美希と別れるのは非常に名残惜しかった。
――信号が青になったので、渡る。この信号、待つ時間は五分くらいあるのに、渡る時間は十秒もない。急がないと。
交差点から先は、薄暗い裏道になっている。遠回りすれば国道にでるから、本当はそっちの方が安全なのだが、裏道を通るのに比べると国道経由はひどく時間がかかるし、車通りが多いわりに歩道がなくとても危険なので、この辺りを通るとき、僕はいつも裏道を使っている。
道を歩いていると、後ろから気配がする。不審者だろうか? と、一瞬思ったが、このご時世、不審者なんてそう現れるものではないだろう。
その考えが甘かった。
いつのまにか気持ち悪いおっさんが僕に馬乗りになり、涎を垂らしながら僕の顔を見ていた。まさか、男の僕が男に襲われるなんて……。
「へへっ、姉ちゃん、かわいいじゃねえか。ちょっといただくぜ」
おっさんは僕の胸を触った。この変態め。
「へんっ、お前、胸、全然無いじゃん。くそっ、下しか使えねえな……」
「胸、あるわけないじゃん」
「へっ?」
「私に胸が、あるわけないじゃん」
そういえば、態度を大きくすると不審者は怯むと姉に教えられたことがある。華奢な体の僕は馬乗りになっているおっさんに抵抗できるはずもないので、実践してみるしか……。
「なんで胸がないんだよぉ、おおっ?」
「知らないよ。お天道様にきいてみな」
僕は精一杯言葉を返す。
「まあいい。下があるもんな」
おっさんは僕のスカートと下着を下ろした。僕はバレるのが恥ずかしくて目を瞑っていた。
「……?」
おっさんは絶句していた。女にあるはずのないものが、ついていたのだから。
「ははっ、はははは……」
僕はとんでもない表情を作りだしていた。
「へ、へ、変態だぁ!」
おっさんは逃げていった。どっちが変態なんだか。
――とりあえず、この格好のままでいるわけにはいかない。急いで服を着る。よっぽど緊張したのか、汗でびしょびしょだ……。僕はまた歩き出した。しかし、足がガクガク震えて、うまく歩けない。さっきのことを思い出すと、恐怖で足が震えてくる。寒気がしてくる。心では怖くないつもりでも、体は本当に怖がっていたようだ……。
僕はいつのまにか、うずくまって大声で泣き出していた。
――僕の泣き声に気づいた人たちが、周囲に集まり始める。恥ずかしいが、僕の涙はとめられなかった。い、いけない……。このままだと目立ちすぎる……。僕は覚束ない足取りで再び歩き出した。うまく歩けない……。うぅ、女装学生生活一日目から、こんな想いをしちゃうなんて……。やっぱり女装して女子高に通うなんて無理なんだ。
あれだけ不安定な足取りだったのに、何故か僕は家に戻ってこれていた。玄関のインターホンを押すと、ガチャリと扉が開き、晴香が顔を出す。
「あんた、どうしたの?」
晴香が大声で叫ぶ。
「ち、痴漢に遭ったの……」
「痴漢?」
晴香は驚き、思わず車椅子からひっくり返ってしまいそうになる。
「あんた、痴漢に遭ったの?」
「うん……」
痴漢よりもっと酷いことだったのかもしれないが、それ以外の言葉は思いつかなかった。
「男なのに、痴漢に遭うなんて……あんた、そんなに女の子になりきれいるんだねえ」
えっ……? 晴香の言葉に僕は唖然とした。
「よかったね! 痴漢に遭うほどなら、もう男ってバレることはないでしょう」
……小学生や中学生のとき、服も体もボロボロになって、泣きながら帰ってきた僕を慰めてくれていた姉は、いったいどこへ行ってしまったのか……。
「お姉ちゃん……それはないよ……」
「えっ?」
「なんで、痴漢に遭った僕のことを心配してくれないの?」
「心配はしてるわよ」
本当か? 僕は疑念を抱く。
「そんな言い方しないでよ……。僕、痴漢に男ってバレたときも、お姉ちゃんに痴漢されたって言ったときも、凄く恥ずかしかったんだよ……?」
「ご、ごめんね……有也……。本当にごめん……」
晴香の目から涙が零れる。……これなら、もしかして、もしかして、……女装生活をやめさせてくれそうな気がする。痴漢の怖さと、姉に対する怒りもあったが、そんな希望が湧いてきた。よし、このくだらない生活からとっとと脱出して、たくさん勉強して、来年こそは高校に受かるぞ……! 僕の心はぱぁっと明るくなった。だがそんな深読みはむなしく……。
「有也……明日からは、裏道を通らないようにね……。私、有也に恥ずかしい想いさせたくないから」
「えっ?」
思わず変な声が出た。
「……恥ずかしい想いって、今あんたがさせてるだろうがぁ!」
僕は自分の着ている服を指し、晴香に向かって怒鳴った。
そのとき、僕の口からも、晴香の口からも、少しだけ笑みが零れたような気がした。