【閑話】その頃、エヴァン伯爵家では……(セピア視点)
セピアにとって、ラウルスは憧れであり初恋の人でもあった。
十歳の時、街で悪漢に絡まれ誘拐されそうになったのを助けてくれたのがラウルスだった。
当時十六歳だったラウルスは、王国魔術師団に所属していた。非番だった彼は街で買い物を済ませた後、拐われようとしているセピアを偶然目撃し助けた。
無数の赤い火の蝶を召喚して華麗に操り、悪漢を次々と倒していくラウルスはまさに英雄のようだった。
(かっこいい……)
同じ火魔法の使い手であるからこそ、ラウルスのその繊細に火魔法を操る技術力がどれだけ優れているかセピアにはよく分かった。
『怪我はありませんか?』
ラウルスにそう問いかけられ、助かったのだと自覚したら、堪えていた涙があふれてくる。
ポロポロと頬に滴を伝わせるセピアに、『もう大丈夫だよ』とラウルスは優しく声をかけ、ハンカチで涙を拭ってくれた。
駆けつけてきた従者に引き渡すと、ラウルスは名乗らずに『当たり前の事をしただけですから』とその場を去った。
尊敬や憧れが淡い恋心に変わるのにそう月日はかからなくて、ラウルスとの婚約が決まった時は天にも昇るほど嬉しかった。
ヴィスタリア王国には火、水、風、土属性の四大元素を扱う貴族ごとに派閥がある。大抵は派閥の力を強めるために、同属性同士で結婚するのが一般的だ。
エヴァン伯爵家には、後を継げるのがセピアしか居ないため、同属性の派閥から婿を取る必要があった。
多少年は離れているものの、強い魔力を持つ格式高いフレアガーデン侯爵家の三男であるラウルスはまさに適任。エヴァン伯爵が何度もフレアガーデン侯爵にお伺いをたて、やっと成り立った婚約だった。
それがまさか、こんな形で婚約を解消される事になるなんて……あまりのショックにどうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。
フレアガーデン侯爵子息としての地位を捨てる程嫌われたんだと、嫌でも自覚させられたのは数日後、「セピア! セピアはどこだ!」と血相を変えて帰ってきた父の慌てた声を聞いてからだった。
父であるエヴァン伯爵の執務室に呼ばれたセピアは、鬼の形相をした父に問い詰められていた。
「婚約を白紙に戻すと、先程フレアガーデン侯爵から通達を受けた。セピア、お前は一体何をしたのだ!?」
「先日、ラウルス様とお出かけした時に、ムーンライト広場でお姉様とクロノス公爵様にお会いしまして、その……」
「呪われた仮面公爵がリフィアと一緒に出歩いていただと!? かなり衰弱していると聞いていたが、そんな馬鹿な……」
「お姉様に聖女の力が宿っていたそうで、呪いを解いてしまったそうです」
「リフィアに聖女の力が宿っていただと!? それは誠か!?」
「はい。クロノス公爵様が仮面を外して、見せてくださいました。美しいご尊顔には、硬鱗化の痕は全くございませんでした」
「くそ! そんな力があると分かっていれば、嫁になど出さなかったものを……!」
エヴァン伯爵は悔しそうにバンと机に拳を打ち付ける。
「セルジオス様。私と貴方の子供だもの、やはり特別な力を持った子でしたのね!」
エヴァン伯爵夫人は嬉しそうに頬を緩めている。恍惚とした眼差しを父に向ける母の様子を見て、セピアは内心大きなため息をついた。
何をするにも父が優先。気を引くためなら何でもする。父にベタ惚れの母に対して、逆は傍目に見ても分かるくらい興味がなさそうだった。
「セピア。それがどうして、フレアガーデン侯爵子息との婚約破棄に繋がるのだ?」
伯爵夫人に一目もくれず、エヴァン伯爵はセピアに詰めよって問いかける。
「ラウルス様の前でクロノス公爵様にお礼を言われたのですが、その発言でお姉様を冷遇していたのが露見してしまいまして。ラウルス様はその事に対し、とても怒っておられました」
「つまり我々はリフィアを冷遇などしていない。それが分かってもらえれば、婚約は継続できるという事だな?」
「だと良いのですが……」
「セバスチャン、クロノス公爵家にお礼状とリフィアの好きなものを贈る手配を」
指示を出された執事のセバスチャンは、困惑した顔で尋ね返す。
「あの、旦那様。リフィア様の好きなものとは何をご準備すれば……?」
「そんな事も把握しておらんのか! アマリア、お前は知っているか?」
尋ねられた伯爵夫人も、「ええと……私も存じ上げておりません」と気まずそうに視線を逸らした。
「セピア、お前はどうだ?」
「申し訳ありません。私も存じておりません。ですがあの時、クロノス公爵様がお姉様へのプレゼントとして、オルゴールを全て買い占めておられました」
「そんな贅沢品を、リフィアのために買い占めただと!?」
「は、はい……世界中のオルゴールを集めて専用の部屋を作ろうかと。お姉様は必要ありませんと否定しておられましたが……」
魔力を使わずネジを回すだけで音楽の鳴るオルゴールは、見た目にも音質にもこだわり、職人が手間と時間をかけて一つずつ丁寧に作り上げたものだ。
さらに有名音楽家の曲を使用しているともなれば、その価値は格段に上がる。そのため調度品の中でもかなり高価な部類に入る贅沢品だった。
そんなものをまとめ買いするほどの財力などこちらにあるはずもなく、エヴァン伯爵は悔しそうに拳を握りしめるしかなかった。
「セピア、優秀な血筋を残すのは跡取りとしてお前の絶対的な使命だ。何をしてでも、必ず成し遂げねばならぬ」
「勿論、心得ております」
父は机の引き出しから赤い液体の入った小瓶を取り出した。
「既成事実さえ作れば、あちらは断れないはずだ。何をすべきか、分かっているな?」
「…………はい。最善を尽くします」
自室に戻ったセピアは、ベッドに崩れ落ちた。これを使って、無理矢理にでもラウルスと関係を持てと父は言ったのだ。そこに愛情はない。ただ優秀な遺伝子を持つ子孫が欲しいだけの言葉だった。
「ははは、ほんと笑えるわ……バチが当たったのかしらね……」
跡取りを生む道具としてしか見られていない事は、最初から分かっていたのに。冷遇されている姉よりはマシだと、いつも優越感に浸っていた。
そんなちっぽけな自分はどうしたって、ラウルスには相応しくないと思い知らされた気分だった。
(もしあの手紙の内容が真実だとしたら、お父様はどうするのかしらね……)
チェストの奥深くに隠しておいた手紙を取り出す。子供の頃に届いた不審な手紙。そこにはこう書かれていた。
『お前はセルジオス・エヴァンの娘ではない』
父にベタ惚れの母がそんな不義を働くわけがない。それに見た目だって両親にそっくりだ。父譲りの赤い髪に、母譲りの赤い瞳を持つ自分が、そうであるわけない。
(私はエヴァン伯爵家の跡取りなんだから!)
姉と送り先を間違えた、使用人の悪戯だろう。そう思いつつも、もしそれが事実だったとしたら……そんな一抹の不安を拭えなかったのは、父が自身の血を継ぐ子孫を残す事に何よりも固執しているせいだった。
「もしこれを使えば、ラウルス様は一生私の事を軽蔑されるでしょうね」
それだけじゃない。彼の魔法騎士としての誇りや名誉まで汚してしまう事になる。
「ラウルス様……」
小瓶をぎゅっと握りしめ、セピアは静かに涙を頬につたわせた。