彼の大切な人
「そんなわけで、君が特別な存在であることは理解してくれたかと思う」
「……特別な、存在」
「マリアベル? どうかしたか?」
「あ……い、いえ! なんでもございません」
特別な存在。改めて言葉にすると不思議な気分になる。温かいような、落ち着くような、けれど少しだけ泣きたくなるような、そんな気持ちだ。
誰かの特別になれる未来なんて想像したこともなかった。それがまさか主神アルマニアから特別な愛情を注がれていたなんて――マリアベルは自らの胸に手を当ててほっと一息ついた。
「ありがとうございます、オズワルド様。どうしてあなた様の目に留まったのか、理解できましたわ」
「そうか? 何もないならいいが。では次に僕の事情、なのだが……困ったな」
珍しく困惑気味の表情を見せるオズワルド。彼は伝える順番を間違えた気がすると零し、頭を抱えてうずくまった。しかしそれも一瞬のこと。勢いよく顔を上げると、覚悟の決まった顔つきでマリアベルを見据えた。
「嘘はつきたくないので事実を告げる。きっかけはかねがね伝えた通りだ。僕もいい歳だから、周囲が結婚しろだのなんだのうるさくてな。毎週のように届けられる見合い写真に嫌気がさして相手は自ら探し出すと啖呵を切ってしまった。ゆえに引き返せなくなってしまったんだ」
「確かに、はじめてお会いした橋の上でもお聞きいたしましたわ。妻を探していると。お戯れの一つかと思っておりましたが」
「まさか。そんなつまらない嘘はつかないさ。情けない理由で申し訳ない。しかも妻を探そうと決心してようやく『神の寵愛』が発動していることに気付いた体たらくだ。愛し子はアルマニア固有の事象なので世界の循環には関わってこない。言い訳になってしまうが、世界の流れに異常があればすぐに分かるが、そうでない場合は意識しない限りは難しいんだ。すまない。もっと早くに気付くべきだった」
膝の上に置いていたマリアベルの手の上に、握り込むようにして自らの手を重ねる。マリアベルはとんでもないと首を振った。
すべての元凶は魔力を持ちえなかったマリアベル自身――ひいてはそれを蔑んだ両親と妹クローディアにある。オズワルドが謝る筋合いは万に一つも存在しない。
しかしオズワルドは苦々しげに眉をひそめた。
「それだけじゃない。君を妻に迎えようと思ったのはただの興味だ」
「興味?」
「愛し子は数多存在するが『神の寵愛』が発動した事例は極めて少ない。今の時代に生まれるなど、思ってもいなかった。どれだけ魔導に精通しようが手に入らないものが存在する。ならば君ごと手に入れればよいと思ったんだ。『神の寵愛』がどのような作用をもたらすのか。研究を重ねれば何かの発見につながる可能性も――……幻滅したか?」
オズワルドは申し訳なさそうに目を伏せる。
マリアベルはくすりと微笑んで、いいえと穏やかな声で答えた。
そのような心配は杞憂だ。
何か理由があることくらい最初から分かっていた。天才の名をほしいままにしているオズワルド・エルズワースが、わざわざ魔力を持たない仮面令嬢を欲しがるなど酔狂にもほどがある。
絶対に裏がある。けれど、それすらすべて受け入れようと決めて彼についてきたのだ。今更幻滅などするはずもない。逆に想像の何十倍も優しい内容に拍子抜けしてしまったくらいだ。
「ふふ、素直な方。わたくしとの婚約は周囲からの圧力をなくすため。わたくしを選んだのは研究のため、ということですのね」
一切動じないマリアベルに、オズワルドは面食らいながらも頷いた。
「君は不思議だな、マリアベル。僕は生来人間嫌いでね。好ましいと感じる者は稀なんだ。妻には別館でも作ってお互い不干渉を貫こうと思っていたが……どうやらその必要はないらしい。僕は実に幸運だ。まさか、彼女以外でこうも心穏やかに過ごせる女性と出会えるなんてね」
「……かの、じょ?」
ぞわり、と背筋を悪寒が走った。何だろうこの気持ちは。思わず服の上から胸の辺りを握り込む。
ただの興味から目を付けたと言われても、道具のように研究したいと言われても問題はなかったのに、どうしてだろう。今まで投げかけられたどの言葉より胸がざわついた。
マリアベルは俯いて、落ち着くために深く息を吸った。
「とりわけ語るようなことでもないのだが、気になるか?」
「オズワルド様が、お嫌でなければ……お聞きしたいですわ」
ほんの少し迷いがあった。
聞いたところで詮無きこと。マリアベルには関係のない話だ。――でも、知りたかった。それが動揺として声に出てしまったらしい。語尾が震える。
オズワルドは分かったと頷いて、過去に思いを馳せるように視線を宙に飛ばした。
「ずっと、ずっと昔の話。子供の頃の色あせた思い出だ。けれど、その中で彼女だけが色彩を放っている。それくらい忘れられない人がいるんだ。ああ、心配しなくていい。彼女と結ばれることは生涯ないと断言できる。僕の妻は君だけだよ、マリアベル」
「そんな……気を遣っていただかなくとも。わたくしは、大丈夫ですわ」
喉が痛い。水が欲しい。
マリアベルは乾いた雑巾から水滴を絞り出すように、ギリギリと捻じって言葉を吐きだした。
おかしい。ダミアンに婚約破棄を請われた時ですらここまで苦しくはなかったのに。今は溺れた魚よろしく息をするのも苦しかった。
「オズワルド様にそこまで思われているだなんて、きっと素敵な方なのでしょうね」
「……そうだな。うん、素敵な人だと思う」
窓から流れ込んできた風がオズワルドの前髪をさらさらと揺らす。その横顔はとても綺麗で。見惚れるほど柔らかい笑みが浮かんでいた。
胸が、痛かった。
「僕は強い志があって魔導具の道に進んだわけじゃない。最初はただの暇つぶしだった。それが想像していたよりも評価を貰えてね。このまま魔導師として生きるか、格差是正のため魔導具の開発に心血を注ぐか。どうするべきかと悩んでいた僕の背を、この道に進むべきだと後押ししてくれたのがその人だった」
「その方、とは。その後……」
「実はまともに顔を合わせたことはないんだ。彼女は既に王子の婚約者になることが決まっていてね。エルズワース家は代々国土防衛を主とする辺境伯だ。王家にはまぁ、それなりの忠誠を誓っている。周囲の者たちから高嶺の花だと諭された僕は、忘れるように魔導具の研究に打ち込んだんだ」
マリアベルに持ち上がっていた王太子との婚約が白紙撤回された後、彼の婚約者として名が挙がったのはランズリン公爵家の長女マーガレットだったはず。
彼女は絹のような金の髪に藍色の瞳が印象的な美しい女性だと聞き及んでいる。
魔法の才のみならず知略にも長け、凡夫ならば片手で捻り倒してしまえるほどの豪胆さを持つ素晴らしい人だ。彼女に決まった時は皆、声を揃えて未来の王妃に最もふさわしいお方だと誉めそやした。
オズワルドが言っているのはきっと、マーガレットのことだろう。
マリアベルがまだ仮面令嬢と呼ばれていなかった頃、彼女とは親しくしていた。
あまり積極的に他者と関わろうとしないマリアベルを見かねて、何度も何度も根気強く人の輪の中に引っ張っていってくれた優しいマーガレット。
とても魅力的な人だった。
もうずっと会っていないが、きっと美しく成長していることだろう。彼女ならば惹かれて当然だ。
「叶わないと分かっていても、忘れられない方なのですね」
「ああ。今の僕を形作った人だからな。魔力のある者とない者の差を出来る限り小さくする。人々の生活を豊かにする。それが彼女への恩返しだと僕は思っている」
真っ直ぐにマリアベルを見つめる瞳。
その瞳は爛々と輝いており、彼の中でマーガレットがいかに大きな存在であるか、嫌でも分かってしまった。
新域魔導具の生みの親、オズワルド・エルズワースという存在を語るのに、マーガレットは欠かせない歯車のような女性なのだろう。
マリアベルにとってオズワルドが心の支えであったように。オズワルドにとってはマーガレットがすべてだったのだ。
一人でもそのような人がいると、どれだけ強い力になるか。分かりすぎるほどに分かってしまうから、それ以上は何も言えなかった。