仮面令嬢3
足が重い。鉛のようだ。
これから家へ戻り、婚約を破棄したと伝えなければいけないのか。どのタイミングで、どのように話せばいいのだろう。嘲られるのも、見下されるのも慣れた。けれど、――見放されるのだけは、いまだに恐ろしい。
「せめてこれ以上ダミアンが苦しまないよう、わたくしから破棄を申し付けたことにしておきましょう。口裏を合わせるよう言っておいた方が良かったかしら。いいえ、ダミアンは頭の悪い人ではないわ。きっと、わたくしの意図も理解してくださるでしょう。それから……――まったく、ふふっ」
自重めいた笑いが漏れる。
心臓の鼓動はいつも通り。頭もしっかり動いている。思いのほかショックを受けていない己自身にため息が出そうだ。
結局のところマリアベルもダミアンを愛してはいなかった。だからこんなに落ち着いて身の振り方を考えていられるのだ。
「わたくしも薄情な女ね。心を病むほどに愛そうと努力してくださっていた彼を、わたくし自身が愛せなかったのだから。全部、全部、わたくしが悪いの。だから、ダミアンは何も悪くないわ」
涙一つ零せない女に彼を責める資格はない。悪いのはすべて自分。
橋の欄干に手を置き、ぼんやりと見下ろす。
川は闇であった。
まるで漠然とした不安が、振り返る事の出来ない悔しさが、長く先の見えない道になっているのかのようだ。写り込む光すら見えない。輝いていた満天の星空も、柔らかな月も、知らぬ間に暗い夜の雲が隠してしまっていた。このまま闇に溶けてしまえたら、どれだけ楽になれるだろう。
欄干を握る手に力が籠る。
「早まるなよ、お嬢さん」
「――え」
凛とした声が響いた。こんな夜更けに誰が。
慌てて振り返る。
闇に溶け込んでしまいそうな漆黒の髪。深い青色をした涼やかな瞳。金の装飾が施された燕尾服を優雅に着こなす様は、まるで芍薬のように気品が溢れている。マリベルは驚いて目をぱちぱちと瞬かせた。
これほど美しい男性を見たのは初めてだ。
「あなたは……?」
「ああ、怖がらないでくれ。怪しい者ではない。ただ、君があまりにも思いつめた様子だったからつい声をかけてしまったんだ。驚かせてすまないね」
青年は軽やかな足取りでマリアベルに近づくと、彼女の手に自分の手を重ねた。驚いて跳ね除けようとするも、今度は腕を掴まれて動けなくなってしまう。
「あの」
「まさかと思うが、飛び降りる気じゃないだろうね? やめておけやめておけ。水死なんて良いものじゃない。寒いわ苦しいわ、最後はブクブクに太って土左衛門だ。君みたいな美しい女性には似合わない」
「なんのご冗談でしょう。わたくしが美しいだなんて」
つい語尾がきつくなってしまう。
馬鹿馬鹿しい。仮面で顔を隠した女が美しいなどあるものか。世辞でももう少しましな嘘をつく。
しかし、青年は気にしたそぶりも見せずに飄々と笑って見せた。
「冗談? 君の立ち姿はしなやかな柳のようで実に美しい。人の美醜なんて結局は中身だ。魂の在り方は振る舞いに出る。君は美しい。胸を張っていいぞ」
「……お優しいお言葉、感謝いたします。ですが、瞳がある以上その目に映るものこそが絶対。美しい花だって汚泥を与え続ければいつかは枯れますわ。この仮面の下はそれほどまでに醜いのです。あなたのようなお美しい方には分からないでしょうけれど」
「……僕が?」
今まで一切表情を崩さなかった男の眉が驚いたように跳ね上がった。
この美しさで自覚がないなどあり得るのか。
まさか別世界の住人。物の怪の類だろうか。ならば納得がいく。――そんな、現実味のない思考すら湧いてくる。この美貌をもってすれば人間を惑わすことくらい容易いだろう。
もっとも、マリアベルには惑わされる気力も残っていなかったが。
「失礼。お嬢さん。お名前を伺っても?」
「おかしな方。この辺りで仮面令嬢といえば知らない者などいないはずですのに。もしや、ご旅行者様でしょうか?」
「ああ。似たようなものかな。周囲がうるさくてね。ちょっと妻を探しに。ちなみにお嬢さん、一人身かな?」
あまりにも自然に、流れるような仕草で手を取って尋ねてくる青年。その瞳には侮蔑も嘲りも、恐怖すら映ってなかった。一人の女として扱われたのは何年振りだろう。
マリアベルはくすくすと愉快そうに笑い、その手を振りほどいた。
「マリアベル・ルードリヒ。今しがた婚約を解消されたばかりですの」
「おや、それはタイミングが良い。僕が立候補しても?」
「ふふ、本当に面白い方。ありがとうございます、ご冗談でも嬉しいですわ。おかげで足が動くようになりました。そろそろお暇いたします。治安が悪いわけではございませんが、月明かりの下は魔が潜むもの。お気をつけてお帰りくださいませ」
「冗談ではないのだが――まぁいい。今日はもう遅いからね。君も気を付けてお帰り」
「あら。重ね重ねお礼申し上げますわ」
スカートの端をつまみ粛々と頭を下げる。
嘘のように足が軽かった。ただの人として扱ってもらえることに、どれほど飢えていたのだろう。彼との会話で胸に巣食っていた靄が少しだけ晴れた気がした。
――もう、どうなったって構わないわ。
家にしがみついたところで惨めに生を長らえるだけ。それに何の意味があるのか。邪魔だというのなら捨てられたって構わない。これからは一人で生きて行こう。どうせ誰しも最期は独りで朽ちるのだ。もう、怖いものなど何もない。
くるりとスカートを翻し、青年に背を向ける。
「では、失礼いたします」
「ああ。また明日」
「え?」
――また明日?
どういうことだろう。
慌てて振り返るも既に青年の姿はそこになく、風に乗って流れてきた葉っぱがはらりと地面に落ちただけだった。
まさか本当に物の怪の類だったのだろうか。
マリアベルはしばらく青年の居た場所を眺めていたが、ふるふると首を振って軽やかに帰路へついた。