少し進んだ二つの関係
つまみを持ってくるからと台所へ向かったヴィントと別れ、一足先にバルコニーに到着する。とりあえずは第一関門。マリアベルの顔を直視できるか、だが。
オズワルドを視界に捕らえるや否や駆け寄ってきた彼女と対面しても、普段通りのオズワルド・エルズワースを演じられているように見えた。
これならば問題ない。
「少しお顔の色が優れませんが、お体に違和感は?」
「あ、ああ。大丈夫だ。今日は色々あったので少し疲れたのかもしれないな」
いや、前言撤回だ。マリアベルの観察眼を侮っていた。
ヴィント程度ならやすやすと騙せていただろう。幼少期から彼の世話役として傍にいたエレマンですら所詮は精霊。細やかな感情の機微を捕らえるのは難しい。違和感など覚えなかったに違いない。それほどまでにオズワルドの演技は非の打ちどころがなかった――というのに、彼女は一瞬で気付いたというのか。
「ご無理をされてはいけません。今日は早めに切り上げましょう」
「それは困る。僕はもう少し、今日を楽しんでいたい」
「……失礼いたしました。せっかくアーロン様がいらっしゃっているのに不躾なことを」
「い、いや、僕を心配してのことだろう。ちゃんとわかっている。ありがとう、マリアベル。君はやはり優しく美しい」
「オズワルド様……」
少々好意が抑えきれなくなっているが許容範囲だろう。まだ大丈夫だ。
オズワルドの様子を確認しつつ、机といすをセッティングしていく。エレマンが「本日はお客人ですので」と止めに入ったが、やりたいからやっているのだと突っぱねた。あの二人の傍にいたら熱に当てられて赤面してしまう。
兄のことは自分が一番よく分かっていると自負していたが、改めなければならないかもしれないな――と、アーロンは苦笑した。
「さあ、おふた方。どうぞ座ってくれ。ヴィンちゃんももうすぐ戻ってくるだろう」
「も、申し訳ございません、アーロン様にこのような雑務を! わたくしがすべきことですのに」
「ははは! 見ての通り力仕事は大得意だ。気持ちだけ頂いておこう。感謝する」
さあこちらへ、とイスを引くとマリアベルは礼を述べて素直に座ってくれた。
辺境伯と言っても淑女と一切出会わぬ生活をしていたわけではない。兄オズワルドの比ではないが、それこそ見合いの話も舞い込んでくる。だが、動きの洗練さに目を奪われたのは初めてだ。
指の先から髪の一本に至るまで美しい。そんな彼女が自分の意志通りに動いてくれることへの優越感はなかなかのものだ。
男を誑かす術を覚えたら、稀代の悪女にもなりえる。アーロンはハッとして今浮かんだ考えを振り払った。兄の妻に限ってそのようなことあるはずもない。
「さて、兄様も座って……ん?」
オズワルドはなぜかマリアベルの隣に立ち、その手を握っていた。
「マリアベル、君は本当に美しいな。掻き消えてしまいそうなほど儚げであるのにしなやかで芯の通った立ち姿は君の性格をよく表している。絶対に譲れないところは譲らない。そういう頑固なところもキミの魅力だ。いつも僕のサポートをありがとう。すべて伝えずとも言いたいことを察してくれるので本当に助かっている。さすがの聡明さだ。君はいつも僕の欲しい言葉を、行動をくれる。君を知るたび君を愛しいと思う気持ちが溢れていく。もう君以外目に入らない。どうか――」
「に、い、さ、ま!」
後ろから襟袖を掴んで後ろへ下がってもらう。
前のめりになり過ぎだ。完全に抑えが利かなくなっているぞ。緊張を押し込めたら愛情が突っ走るタイプなのか。良い勉強になった。
「落ち着け。落ち着けないのなら向こうで俺が好きなだけ聞いてやるから」
「原稿用紙何枚分まで?」
「……じゅ、十枚までには収めてほしい」
オズワルドの返答に、さすがのアーロンも頭を抱えざるを得なかった。十分十五分は拘束される覚悟を持っていた方がいいのかもしれない。
するとどこからか鈴の転がるような、からからとした笑い声が聞こえてきた。
「いやですわ。お帰りが遅いと心配しておりましたのに。お二人で漫談のご練習でもされていたのでしょうか。まさかそれでお疲れに? ふふふ」
「漫談? いや、僕は」
「そういうことにしておこう」
オズワルドの耳元で囁く。マリアベルは頭が良く勘も鋭い女性だ。下手な嘘をつけばそこから瓦解することもあるだろう。上手い勘違いをしてくれているのなら、それにのっかかった方が得策である。
オズワルドは不承不承といった風だったが、マリアベルの表情を見るなり考え方を改めたらしい。
「楽しんでいるか、マリアベル」
「――? ええ、もちろんでございます」
ふわりと花咲く笑みを向けられて、オズワルドは満足そうに頷いた。そしてアーロンの腕を掴んで端の方へ連れて行く。
「おいおいどうしたんだ、兄様」
「王への顔見せまでには間に合わんかもしれないが……今日から開錠に全力を尽くす。だからアーロン、これを」
すっと何かを手渡される。
「なんだ? 紙とペン?」
「お前に直通する電話番号を教えろ。今日のことはとても感謝している。だからその……今後も相談に、乗ってほしい」
これは驚いた。つまり私用の連絡先を教えろと言っているのか。
アーロンは仕事柄オズワルド宅の連絡先を控えているが、オズワルドはアーロンの私用連絡先を知らなかった。いや、知らなかったではなく知ろうともしなかったが正しい。
個人的に連絡するようなことは一切ない、何かあったら仕事先に連絡するので問題ない、といって受け取ってくれなかったのだ。アーロンとしては取り留めのない話題でも話せるだけ嬉しかったが、そういうことは一切しない人だというのも理解していた。
だからこれは、天地がひっくり返るほどの衝撃だった。うっかり頬が緩みそうになるのを必死で堪える。
気分が変わらぬうちにと慌てて紙とペンを引ったくり、連絡先を書いて彼に握らせた。
「任せてくれ! 兄様のためならいくらでも力になろう!」
「あと、これもやる」
「これは?」
オズワルドは懐から小石を出し、アーロンに差し出した。
「魔計発光石。そういえばお前でも分かるだろう」
「まけい……何!? あのバカ高い石か!?」
魔力を感知すると青白く光るという、魔導師界隈では有名な石だ。
オズワルドのことなので質の良い物しか手元に置いておくはずがない――と思うのだが、だとすればこの小さな石一つでゲシュニット領約半年分の財源を賄えるほどの価値があるはずだ。少しばかり手が震える。なんてものを気軽に渡してくるのだ。恐ろしい。
「これがあればお前でも魔法をかけられているかどうか、すぐ判別できるだろう」
「は?」
「今後は追跡されぬよう気を付けろと言っているんだ。仮にも領主だろう。自覚を持て」
「あ、ああ、そうだな。その通りだ。今日のことはすまなかった。これからは出来る限り兄様には迷惑をかけないように――」
「違う。そうじゃない。……これがあれば問題はないはずだ」
「んん?」
何が問題ないと言うのだろう。アーロンは首をかしげた。
「察しの悪い奴だな。……もっと頻繁に訪ねてきてもいいと言っているんだ。遠慮はいらん。……お前には世話になるからな。もっとちゃんと、もてなす」
照れくさそうに頬を掻きながら視線を逸らす。
一体どうしたというのだ。兄のデレがとどまることを知らない。
「俺、今日死ぬのか?」
「なぜだ! 気合で生き延びろ! 僕が困る!」
「ぐう。今なら世界が滅びても良いぞ……ッ!」
「何を言っているんだ馬鹿者が! 僕は絶対に嫌だからな! ……マリアベルを本当の意味で幸せにするまでは、死んでも死にきれない。お前はそれを手伝ってくれるのだろう?」
オズワルドは「よろしく、頼む」とぶっきらぼうに手を差し出した。
ああ良かった。兄もやはり人の子だったのだ。どれだけ走っても走っても追いつけなかった兄との距離が、今日だけでぐんと縮まったような気がする。アーロンは魔計発光石を大事に懐へ仕舞い、嬉しそうに笑った。
ならばオズワルドの弟として、彼らが幸せな夫婦になるまで、全力で手助けしよう。彼は胸のうちでそう誓い、兄の手を取った。
こうしてアーロンの尽力もあり、オズワルドとマリアベルの関係はこれまで通り――いや、オズワルドがMの君の正体に気付いたことにより、少し前に進んだ。
彼女が今後、オズワルドからの重すぎる愛を知る日が来るのか、王への謁見はどうなるのか。問題は山積みだが――きっと最後はハッピーエンドであろう。




