仮面令嬢2
火傷により溜まった水をすべて取り除いても、顔が元に戻ることはなく、後には焼け爛れひきつったような皮膚が残るばかりだった。
持ち上がっていた王太子との婚約話は白紙に戻されたらしい。使用人たちの会話からそれを知った時、マリアベルは「ああ、やはり」と思った。おぞましい顔の女が王妃に選ばれるはずもない。
唯一の武器である美しさを失ったマリアベルに、両親はビロードの仮面を投げて寄越した。せめてその気持ちの悪い顔を隠せ。吐き気がする。そう言ったのはどちらだったか。
マリアベルは静かに頷き仮面を手に取った。
なんの利用価値もない自分を捨てずに家においてくれる。それがたとえ体裁からだったとしても、娘に対する一つまみの温情だと受け取った。いいや、受け取らざるを得なかったのだ。
そうしなければ心が壊れてしまっていた。
愛されてはいなくとも、いらないわけじゃない。そう思い込むことで、なんとか繋ぎ止めていた。しかし砂漠におちた一滴の水程度では到底潤すことはできない。いつかは枯れ果てひび割れる。
オアシスなんて、しょせんは蜃気楼が見せた幻だ。
五年が経った今、顔の爛れはまるで呪いのように硬度を増し、内側からじわじわと浸食していった。
顔から首を伝って心臓へ。心は既に蝕まれて真っ黒だ。立ち上がろうともがいても、結局は頭を掴まれ地面に擦り付けられる。
今のマリアベルには何もなかった。唯一の武器すらも奪われ、ただ生きているだけの厄介者。ああ、何を支えに立ち上がればいいのだろう。もう顔上げる力すら残っていない。言われるまま、流されるままに、言いなりになるしかなかった。
マリアベルは服の袖で涙をぬぐい、よろよろと立ちあがった。
傷だらけの小さなドレッサー。
唯一鍵のかかる一番上の引き出しから封書を取り出し、そっと手のひらに乗せた。折れないよう大切に、自分が持っている一番綺麗な布でくるんだ手紙。それはマリアベルがこの世で最も敬愛する新域魔導具の生みの親、オズワルド・エルズワースから貰ったものだった。
魔導具とは、魔力のある者が使用することで様々な恩恵を授かるための道具である。これが登場したことで生活の利便性は格段に跳ね上がった。
例えば遠く離れた人との会話を可能にする電話や、馬や御者無しで走る車といった具合に、上流社会の者たちにとって欠かせない存在となっている。
もちろん、それは魔力を持つ者だけの特権。持つ者と持たざる者との間には埋まりようのない深い溝が広がっていた。
しかし、それを埋めたのが彼だった。
魔力を持たない者でも使用できる魔導具――通称、新域魔導具――の開発。彼の発明は世界を震撼させた。
ただ魔力がないというだけで一族から爪はじきにされていた優秀な者たちを、要職につける事が可能になったのだ。
それが、どれだけ国の発展に繋がったか。
幼い頃のマリアベルは、彼の素晴らしい功績にいたく感動し、感謝と親愛、そしてとびきりの尊敬をこめて手紙を書いた。それを小さな蝶が箔押しされた封筒に入れ、ぽんと蝋で封をする。
問題はどうやって渡すかであった。
堂々と渡してしまえば両親や妹からちくちく皮肉を言われるだろうことは想像がついた。なので差出人を『М』とし、とあるお茶会でこっそりとエルズワース家の執事に渡したのだ。
もっとも直接手渡すのは不可能に近かったのだが。
オズワルドは自らの情報を意図的に隠匿しているきらいがあった。年齢はおろか容姿や声すらも不明。分かっているのはエルズワース家の男性ということのみ。そのため必ず届けましょう、と約束していただいた時は心底ほっとしたものだ。
ただ感謝を伝えたかった。
魔導の名門に生まれながら一切魔力を持たなかったマリアベル。この顔を武器に生き残ろうと決意しても、やはり奥底に巣食った劣等感は消えるはずもなかった。誰かが魔導具を使用するたび、ちくちくと心が痛み出す。
それを彼が取り除いてくれたのだ。
お忙しい方だというのは理解している。だから返事など期待はしていなかった。
しかしある日、この手紙がふわりと風に乗って窓から迷い込んできたのだ。慌てて封を切り中身を確認すると、武骨な字で『ありがとう。君の言葉が何よりの励みになった』と簡素な言葉が綴られていた。
泣きたくなるほど嬉しかった。
――わたくしなどの言葉が、オズワルド様の励みになっただなんて。
懐かしい記憶。あれから何年が経っただろう。
あの頃と違って見るに堪えない顔になってしまったけれど、オズワルドに対する敬愛はほんの少しも色褪せてはいない。
マリアベルは手紙をぎゅっと胸に抱いた。
壊れそうになるたび縋ってしまう、唯一の宝物。心の安寧。彼の言葉だけで今まで生きてこられた。
「オズワルド様」
仮面の奥で小さく微笑み、もう一度引き出しに戻す。大切に扱っているが、さすがに少し毛羽立ってきていた。封筒の表面を指先でなぞり丁寧に布を被せる。
ちょうどその時、部屋の扉が無遠慮に叩かれた。ビクリと肩が震える。
「マリアベル様、ダミアン様からご連絡です」
「は、はい!」
ダミアンの名前に慌てて扉を開ける。すると、不機嫌そうな使用人に電話を手渡された。ありがとう、という暇もなく遠ざかっていく彼女に小さく頭を下げ、マリアベルは受話器に耳を当てる。
何かあったのだろうか。
「ダミアン? このような時間にどうかいたしましたか?」
『……マリアベル。話が、あるんだ。今から出てこられるだろうか』
「はい。構いません。どちらまで?」
『ミュートン川のほとり。ラムレスク公園』
マリアベルは時計を確認した。
もう一九時を回っている。今から出るとなれば三十分はかかるだろう。ダミアンにその事を伝え急ぎ支度をする。
せめて少しでも不快感を与えないよう、身だしなみだけでも綺麗に。
髪とドレスを整え、家を出た。
夜の風がぴりぴりと肌を刺激する。
昼間であれば瑞々しい木々のざわめきも、月明かりの下では不気味さを演出する要素にしかならない。カエルだろうか。とぷん、とぷん、と水面の揺れる音がする。
「マリアベル」
扉の隙間から囁くような、薄ぼんやりとした声が耳に届く。
振り返ると、青白い顔のダミアンが立っていた。
生気がまるで感じられない。瞳は虚ろ。唇は渇いてひび割れている。いつもはきっちりと上げている髪も、掻きむしったのかボサボサだ。事前に連絡をもらっていなければ、幽世に足を踏み入れてしまったのではと錯覚していたかもしれない。
マリアベルは両手を胸におき、おずおずと彼に近づいた。
「ダミアン?」
「マリアベル、頼みがある」
ダミアンは崩れるように膝を付き、地面に頭を擦り付けた。
「頼む。婚約を解消させてくれ!」
「え?」
今、ダミアンは何と言った。婚約解消?
ガン、と頭を金槌で殴られたような衝撃が走る。ぐらぐらと地面が揺れた。
何も考えられない。頭が真っ白になる。ほんの少し。風にでも煽られたら倒れてしまいそうだ。マリアベルは足の裏にぐっと力を込めてなんとか踏みとどまる。
「頼む、頼む。僕はきっと、どれほどの年月が経とうとも君を愛することは出来ないし、君の顔を正面から見つめることも出来ない。口づけなんて、以ての外だ。だからどうか、どうか、婚約を解消させてくれ! でないと僕は、気が狂ってしまいそうなんだ……ッ!」
ダミアンは何度も何度も地面に頭を叩きつけ、ぐりぐりと額を泥で汚した。
痛いだろう。苦しいだろう。血が出ているだろう。それでも彼は、何かに取りつかれたかのように地面を叩き続けた。
どうすればいい。何か言わなければ。
しかし言葉を発することはできなかった。恐ろしかった。婚約解消を認めてしまうからではない。彼をここまで追い詰めておきながら一切気付けなかった自分が、あまりに愚かで、恐ろしかった。
――今、わたくしが何を言ったところできっと彼には響かない。
「もう……もう、おやめください! ダミアン!」
「すまない。すまない。でも、夢にまで見る。君のその焼け爛れた顔から蛆が這い出てきて僕を襲うんだ。僕は埋もれて皮膚を食いちぎられて――ああ、ああ! もう耐えられないッ!」
ダミアンは毛を振り乱して叫んだ。
無理をしていたのは知っていた。自分に好意を抱いていないことも知っていた。隣を歩いていても一切視線をくれなかった。彼にとってこの顔は化け物以外の何物でもなかったのだろう。それでもいつかはきっと、一緒の未来を歩んでいけると思っていた。
なんて愚かだったのだろう。
「ダミアン」
静かに、落ち着いた声で彼を呼ぶ。
ダミアンは顔を上げなかった。ただ、怯えたように頭を下げ続けている。
可哀想な人。こんなになるまで受入れようとしてくれて。
「ダミアン。ごめんなさい。今までありがとう。お好きになさって結構よ。どうかこれからは健やかに」
少ししゃがんで手を伸ばす。
せめて最後に一目だけでも――指先が彼の髪に触れる手前ではたりと止める。駄目。自らが触れる事はきっと毒にしかならない。ぎゅっと拳を握って無言で立ち上がる。
――一切関わりを断つことが、唯一わたくしに出来ることなのでしょう。
マリアベルはすべてを理解し、彼の前から静かに姿を消した。




