薮蛇
「……なんだって?」
帰宅したオズワルドのマリアベルタイム――精霊内でこっそりそう呼んでいる――を邪魔しないよう、彼女が席を外してから「坊ちゃん、ちょっと面倒な事になりましたよ」と耳打ちする。
現状を軽く説明すれば、先程マリアベルに向けていた穏やかな表情はどこへやら、冷徹なオズワルド・エルズワースの顔がむき出しになる。
「報告感謝だ、ヴィント。後は僕が対処しよう」
「あはは、顔怖っ。一応俺も後ろについときますよ」
オズワルドは怪訝そうな顔を向けたが、ここで引き下がるわけにはいかない。昔より落ち着いてはいるが、ことスイッチが入った彼は何をしでかすか分からない。マリアベルに報告できないような惨事にならぬよう、ブレーキ役は必要だろう。
エレマンは現在、マリアベルの方についている。自分が行くしかない。
「……はぁ、分かったよ」
「え、いいんです?」
「そう言っているだろう」
必要ない、と粘られたらどう説得しよう――なんて思っていたが、すんなりと許可が下りて逆に拍子抜けする。マリアベルが屋敷に来てからというもの、彼は以前とは比べ物にならないほど寛大になっている気がする。
どんな自分でもすべて肯定し、受け入れてくれる存在が傍にあるというのは、それだけで心に余裕ができるもの。理の外にある精霊ではなく、彼と同じ人間であるマリアベルが、というのも大きいだろう。
ヴィントは嬉しそうに「ほな、こちらですぅ」とダミアンの下へ案内した。
「こんにちは。お加減はどうでしょう、旅の方」
扉をノックし、微笑みを張り付けて部屋の中へ入るオズワルド。凪いだ風のように穏やかな表情であるのに、背後に威嚇中の虎の姿が見えるのだから恐ろしい。
心なしか、体感温度が急激に下がった気がする。
「あ、あなたがこの屋敷の――」
「ああ、動かなくていい。話は彼と僕の妻から聞いていますので」
ベッドから立ち上がろうとするダミアンを制止し、手近にあった椅子へ腰掛ける。ヴィントはそんなオズワルドの後ろに立って、乾いた笑みを漏らした。
――僕の妻を少し強調して言うたな。
ダミアンもそれに気づいたらしく「奥方様だったのですね」と居心地が悪そうに頬をかいた。使用人と名乗ったヴィントが「マリアちゃん」と気安く呼んでいたせいで、勘違いさせてしまったのかもしれない。今後は気を付けなければ。
ヴィントは心の中で「坊ちゃんごめーん」と手を合わせた。
「さて、あなたが言う呪いの話ですが」
「かけた相手に心当たりはあるのです」
「ほう?」
オズワルドは顎に手を置いた。とりあえず相手の話を聞いてみるらしい。
「主殿は魔法に詳しいと奥方様からお聞きいたしました。ですのでご存知かもしれませんが、この呪いをかけたのはきっと、あの悪魔とも噂されるオズワルド・エルズワースです」
「――んぐっ、ふ、ふふ」
思わず吹き出しかけた口を秒で塞ぎ後ろを向く。
なんと。オズワルド・エルズワースが呪いをかけた。奇遇ですね。それ目の前に仏頂面で座ってますよ、と言いたくて肩がプルプルと震える。困った。笑ってはいけないお悩み相談室がスタートしてしまった。
「ええ、彼の事はよく存じております」
――そら本人やからな。
心の中でツッコむ。
「きっと、僕は彼に恨まれている。ああ、でも、直接お会いしたわけではないのです。少々縁があって、一方的に知られている、と思うんです……」
「そんな、気にし過ぎですよ」
オズワルドはからからと笑った。
――坊ちゃんは俺の腹筋を試そうとしてるんか?
何重もオブラートに包んでいるが、すべてを引っぺがすと「被害妄想甚だしい」になる。ヴィントは腹筋に力を込めて必死で笑いを堪えた。そろそろ顔に出そうだ。はやく種明かしをして追い出してしまえばいいのに。
「ぼ、僕だけではないのです! あのルードリヒ家も!」
「ルードリヒ家というと、最近無理心中があったと噂される」
「……いいえ、あれはそんな生易しいものではありませんでした。お互いがお互いを罵り合い、ついには――というのが真相です。そして、それは前述した呪いが深くかかわってくるのです」
「視線、でしたか」
ダミアンはゆっくりと頷いた。
「ずっと、視線を感じていたのです。監視されているような、追い立てられるような、責められるような、そんな視線を。僕はそれから逃れたくて、こんな山奥まで――」
「ですが、私に懺悔しようが頭を下げようが、何の意味もありませんよ」
「……え?」
ぱっと顔を上げるダミアン。
オズワルドは何の感情もこもっていない声色で、淡々と事実を述べる。
「あれは魔法などではなく、いわば事象。神の視線だ。いくら僕でも神に進言はできない。解決方法はないよ。諦めてくれ」
「え? あの、それは、どういう……?」
「なんだ。まだ分からないのか? この辺りに建っている屋敷はここだけだ。つまり、君の探していたのはこの場所なのさ。無駄足だったけれどね。ご愁傷様」
立ち上がり、ダミアンの顎を掴んで上を向かせる。その夕闇を写し取った瞳は吸い込まれそうなほど美しく、彼はのけ反るように肩を強張らせた。これでようやく気付いただろう。目の前にいる男こそが、彼の探していたオズワルド・エルズワース本人だと。
「そんな馬鹿な。オズワルド・エルズワースは、あのマリアベルを娶ったとお聞きしました。しかしあなたはあの美しい方を奥方と言った。まさか、彼女を捨――」
「それ以上言葉を吐けば口を縫うぞ」
地の底を這うような低い声。ダミアンの顎を掴む手に力が籠る。
ヴィントは軽くオズワルドの肩を叩いた。それ以上はいけませんよ、と。これで落ち着いてくれなければ実力行使だ。部屋の一つや二つは犠牲にしなければならない。まったく、損な役回りを引き受けてしまったものだ。
――許されるんやったら、坊ちゃんに加勢したいところやし。
はぁ、とため息を吐く。
「僕がマリアベルを手放すなど生涯あり得ない。放してくれと言われても放すものか」
「……――ッ! ま、さか」
「そうさ。先程君を介抱していたのがそのマリアベルだよ。いやぁ、元婚約者に気付かないほど愚か者だったとは。安心したよ。これでは未練すら抱けないだろうしね。彼女の心が揺れる心配などしなくともよいわけだ。さて、今すぐ極寒のゲニシュット領へ放り出してやりたい気分だが、君を助けた彼女の意を汲もう」
それで良いんだろう、と視線も寄越さずヴィントへ問いかける。実に冷静な判断だ。子の成長を見守る親――もといエレマンの気持ちが少しわかった気がした。行動規範がすべてマリアベルになっている点は気になるが、まぁ、些細なことだろう。
オズワルドはダミアンから手を放すと、つかつかと扉を開けて外へ出ていった。
「悪いけど、屋敷に留まるのは無理やから。……って俺が言わんでもわかってるやろけど」
「……はい」
うなだれるダミアンを視界の端に捉えるが、そのままオズワルドを追ってヴィントも部屋を後にする。空気が重い。こういうのはあまり好きではない。カラッと軽快な風が通り抜けるような、そんな爽やかな空気の方が好きだ。
ヴィントは「なぁ、坊ちゃん」と声をかける。
「なんだ?」
「いやぁ、マリアちゃんにベタ惚れやなぁって思て。放すつもりはないって独占欲まるだしやったでぇ! 聞いてるこっちが恥ずかしかったもん!」
「当たり前だろうが。例え彼女が泣いて縋って僕から離れたいと言っても放してやらない。僕はマリアベルが大好きだ。最後には必ず僕の傍にいて良かったって笑わせる。だから――」
彼はヴィントの襟首を掴み、ぐいと顔を近づける。
「最近、随分と仲がいいらしいじゃないか。近づきすぎるのは気を付けてくれ。例えお前でも、嫉妬する」
「……ひゃい」
分かればいい、と手を放してずんずん前を歩いて行くオズワルド。ヴィントはよろよろと壁にしな垂れかかり手で顔を覆った。藪蛇だった。完全なる藪蛇だった。人の恋路をからかったツケは想像以上だった。
「……聞いてる俺の方が恥ずかしかったんやけど」
耳まで真っ赤にしたヴィントは、「恋する男って怖い」と己の主に聞こえぬよう小さく呟いた。




