仮面令嬢1
呪詛で満たせば滅ぶと言うのなら、何度世界を滅ぼしただろう。
「ねぇ、お姉さま。お姉さまはいつ家をお出になるの?」
コロコロと鈴が転がるような可憐な声で、悪意を凝縮させた言葉を投げつけてくる妹クローディア。少し傷んだストロベリーブロンドをくるくると人差し指で弄び、彼女は笑った。
誰のせいでこうなったと思っているのだろうか。
マリアベルは悔しさに拳を握りしめた。爪が皮膚を抉る。
仮面令嬢。嘲笑が含まれた彼女のあだ名だ。
その名が示す通り、彼女は常に顔すべてを覆う真っ白な仮面をつけていた。
ビロードを張った表面に、目と口の部分にだけ穴をあけた簡素なつくり。初めて彼女を見た者は皆、怪物か悪魔だと騒ぎ立てた。
「家は私が継ぐと決まっています。ですが、そうなるとお姉さまは居づらくなると思うの。あの田舎貴族の……何と言いましたっけ? 唯一の貰い手なのですから、ちゃんと愛想よくしておいてくださいね?」
そうして早く出て行ってください。言葉に出さなくとも態度が告げていた。しかし言い返すことは出来ない。してはならないのだ。
本棚で囲まれたシックな装いの書斎。
栗皮色のソファに深く腰掛けたクローディアに対し、姉であるマリアベルはまるで使用人のように彼女の傍に控えている。――いや、彼女の立場を考えると、クローディアの姉ではなく使用人という言葉の方が的を射ていた。
華美なドレスを纏った妹に対し、粗末な服装の姉。
当主代行を務める妹に対し、清掃や洗い物といった雑務を押し付けられている姉。
愛らしいと称させる妹に対し、仮面で顔を隠す醜い姉。
立場の違いなど明白で、マリアベルは主に逆らえぬ使用人のように妹クローディアに盾突く事は許されていなかった。
「まぁ、ずぅっと使用人の真似事をしたいのでしたら、姉妹の好としてお父様やお母様にお願いしてさしあげてもよろしいですが。私としては出て行った方が姉さまの為になると思うの。ですから、ちゃんと身の振り方を考えておいてくださいね。……分かったのなら、もう下がって結構よ」
「かしこまりました」
マリアベルは小さく頭を下げると逃げるように自室へと引っ込んだ。地下にある、まるで監獄のような小さい部屋。ああ、でも。しょせんは物置を改造した、要らないものを閉じ込めておくためだけの部屋。
もうどこにも彼女の居場所は無かった。
――知っている。婚約者であるダミアンは、我が伯爵家に逆らえず、嫌々ながら了承したに過ぎない。可哀想なダミアン。彼は優しいから何も言わないが、心の中ではお荷物を押し付けられたと思っているに違いない。
彼女はベッドに倒れ込み、右目から大粒の涙をこぼして静かに泣いた。
マリアベル・ルードリヒ。
魔導の名門ルードリヒ伯爵家の長女でありながら、一切魔力を持たずに生まれた彼女の生き方は、幼い頃から既に決定していた。
ゆるくウェーブしたプラチナヘア。まるで海底を映したかのような深いコバルトブルーの瞳。伏せられた睫毛は、白磁色の肌に艶やかな影を落とす。
マリアベルの美しさは遠く離れた王都でも話題に上るほどで、きっと政治の道具にされるだろう――と、彼女自身も理解はしていた。
なにせ、ルードリヒ家はじまって以来の天才と称される実の妹、クローディア・ルードリヒがいたのだ。家を継ぐだけの力を持たぬ彼女が、家族の為に出来る事など限られていた。
貴族にとって愛のない結婚など当たり前。
妹ほどに愛される事は無くとも、この顔と身体がある限り要らない子の烙印を押され、後ろ指を指されながら惨めに生きていく事はない。まだ自分には利用価値がある。妬みも嫉みもすべてのみ込み、沈殿していく黒い感情に蓋をして、それだけを心の拠り所にして前を向いていた。
あの日までは。
「アァァアアッ! 熱い熱い熱いぃぃっ!」
ちりちりと肉の焼ける臭いがする。燃えるような激痛が顔の左半分を襲った。いいや、違う。本当に燃えているのだ。マリアベルは痛みと熱さに耐え切れず地面を転がった。炎は真っ赤な絨毯に燃え移り、焦げた臭いと共に周囲のものを焼いてゆく。
熱い! 痛い! 苦しい!
泣き叫んでのた打ち回っても苦痛は消えず、ただ芋虫のように身体をくねらすしかなかった。ようやく炎が消え、涙に濡れた無様な顔を持ち上げると、まるで化け物を見るような目で自身を見下ろす妹の姿が映った。
ヒッ、と恐怖に引きつった声が耳に届く。
慌てて鏡を覗き込んだマリアベルだが、そこに映った自らの姿に呆然とした。
美しかった銀髪は焦げて縮れ、白磁色の肌は半分以上が溶けている。皮膚の中を、巨大な虫が這いまわったかのような忌まわしい膨らみがあちらこちらに出来、まるでお伽噺に出てくる怪物そのものだとマリアベルは思った。
どうしてこんな事に。
彼女は元凶であるクローディアを睨みつけた。
室内で火の魔術の練習をしていた配慮の無い妹。危険だから外に出なさいと注意するために近づいたら、まさか暴発するだなんて。
「今の声は何! 何があったと言うのですか! ――ヒッ」
「お、かあ、さま……」
ぽろぽろと涙が頬を伝って流れ落ちる。
熱いのです。痛いのです。怖いのです。助けてください。伸ばした手は、しかし、嫌悪の眼差しと共にふり払われた。
化け物。母の口が動いた。彼女はマリアベルを突き飛ばすと、必死でクローディアを掻き抱き、逃げなさいと囁いた。何を見せられているのだろう。
ふわふわとした浮遊感。まるで他人事のように目の前の光景が過ぎ去っていく。
どうして妹を心配するの。どうしてわたくしではないの。ねぇ、お母様。こちらを向いて。わたくしを見て。だが、マリアベルの想いは通じず、母はクローディアの手を引いて部屋を出て行ってしまった。
一度も、振り返らずに。
終わったのだ。今この瞬間、彼女の価値は無に帰した。もう誰もマリアベルを必要としない。もう誰もマリアベルを愛してはくれない。
涙に濡れた瞳で遠くなっていく二人をぼんやりと眺める。母の後姿から覗くクローディアの顔は、悪戯が成功した子供のように楽しげだった。
ああ、わざとだったのだ。
立っている事もままならず、膝から崩れ落ちる。
なぜ、なぜ、なぜ。
恵まれた才能を持ち、両親からの愛情を一心に注がれてなお満たされないというのか。
クローディアは確かに可愛らしい顔立ちをしていたが、美しさという一点において姉マリアベルの足元にも及ばなかった。ただ、それだけ。マリアベルにとってはたった一つのか弱い武器であった容姿。それすらも彼女は気にくわなかったというのだろうか。
それが真実ならば、なんて、なんて――むごい。
もしも魔法が使えたならば、今ここで妹に襲いかかっていたかもしれない。しかし彼女には魔法を操れるほどの魔力など無く、ただ、拳を握りしめる事しか出来なかった。
マリアベルの人生は、この日を境に降下の一途をたどる事となる。




