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虐げられた仮面令嬢は、天才魔道伯の仮初め妻となる  作者: 朝霧あさき
仮面令嬢、仮初め婚約者となる
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プロローグ



 木製のバケツを床に置くと、振動で水面が波打った。


 ぐるぐると浮かんでは壁にあたり、また浮かんでは壁に当たって消えていく波紋。それをしばらく見つめた後、マリアベルは覚悟を決めて手を差し入れた。


 マリアベル・ルードリヒの朝は早い。


 空がまだ濃紺色の絨毯を敷きつめ、しかし裾をじりじりと太陽の光で焼かれている時間帯。はぁと息を吐けば、白いもやが窓に張りついて景色を曇らせる。


 いくら爵位を譲り、のどかな田舎で隠遁生活を送っている人物の屋敷とはいえ、腐っても元貴族。それなりの敷地面積を誇っていた。掃除をしようものなら一日がかりだ。


 バケツの中から雑巾を取出し、流木のような白く華奢な腕でぎゅうと水を絞る。指先は凍えて感覚も薄ぼんやりとしていた。おかげで痛みはない。


 目の前には、マリアベルの身長よりもずうっと高い窓がある。

 日が高くなる頃、その画面に映る自然はため息が出るほど美しい。青く澄み渡った空。眼下に広がる草原。そして遠くに見える瑞々しい山々。ちっぽけな悩みなど軽く吹き飛んでしまうほどだ。

 だからこそ、彼女は初めに窓を拭く。

 この屋敷の主には、穢れ一つない美しい世界を見てもらいたかった。

 せめてもの慰めとして――。



「君。今日もこんな事をしているのか。僕は美醜に興味がないといったはずだが」



 凛と張りのある声が真後ろから聞こえた。自信に満ち溢れていて、けれど少しだけ甘さを含んだこの声を聴くだけで、マリアベルの心臓は大きく跳ねる。

 彼女はくるりと振り返り頭を下げた。


 鴉の濡れ羽のように艶のある黒髪。インディゴ色をした切れ長の瞳。真一文字に結んだ唇は、芯の強さを伺わせる。身体を動かすことは好きではないと公言しておきながらも、適度に筋肉のついた体躯は美しいの一言だ。

 館の主――オズワルド。


 マリアベルは彼以上に美しい男性を見た事がなかった。それが惚れた弱みゆえのものなのか、はたまた世間一般の認識と同じなのか。彼女にはもう判別がつかなかった。今後つく事もないだろう。

 くだらぬ歓談をする相手など存在しないし、なによりオズワルド以外の男に心動かされる事は生涯ないと断言出来るからだ。


 それほどまでに、恩義と愛情が心の一番奥深いところまで浸潤している。



「手を貸しなさい。ほら、はやく」



 オズワルドは少し不機嫌な態度でマリアベルの手を掴み、そのままぎゅうと握りしめた。温かい。彼の体温が指先を伝い、全身にまで広がっていくような錯覚を覚える。

 熱に浮かされて溶けてしまいそうだ。

 マリアベルは恥ずかしそうに目を伏せ、オズワルド様、と抗議の声を漏らした。



「やはり冷たい」


「誰が尋ねてくるお屋敷ではありませんが、それでもあなた様がお過ごしになる場所。なればこそ、出来うる限り美しく保っていたいのです。目に映るものが清浄であれば、心清らかに過ごせましょう」


「僕にとって、君の存在は清浄そのものだ。大体君は」



 オズワルドの手がマリアベルの頬に伸びる。しかし、その手は肌に触れる事なく無機質な壁に阻まれてしまった。カツ、と乾いた音が耳に届く。


 マリアベルの顔半分を覆っている、能面のような仮面。それは両親から貰った最後のプレゼント。お前の顔を見ているだけで気分が悪くなる、と地面に投げ捨てられた時から共に在る、生きるための武装だった。



「こんなもの。さっさと外してしまえばよいものを」


「こればかりはご容赦くださいませ。いくらあなた様が良いとおっしゃっても、この先にあるものは醜い異形でございます」


「まったく、見かけによらず頑固だな君は。分かったよ。今は何も言うまい。今はね。でも、あまり無茶はしないこと。君は使用人ではなく僕の妻なのだから」



 僕の妻。マリアベルはその言葉を幾度も幾度も頭の中で反芻させた。頬が熱い。はしたないほどに全身が熱を帯びている気がする。


 美しく、高潔で、類稀なる頭脳を有するオズワルド。彼に懸想する女性など、ごまんと存在するだろう。しかし、彼の隣を許されたのは自分。その事実だけで世界一の幸福者だと自負できる。

 たとえ彼の心は別にあるとしても、だ。



「ほ、本音を申しますと」


「ん?」


「少しでもあなた様に恩返しが出来れば、などというわたくしの我が儘でございます。出過ぎた真似、申し訳ございません」


「マリアベル」



 優しげな指先がマリアベルの前髪をかき分け、露わになった額にそっと温かいものが落し当てられた。驚きのあまり思わず顔を上げる。



「オ、オズワルド様!」


「おや。妻におはようの口づけをしてはいけないというルールでもあっただろうか?」



 穏やかな声とは裏腹に悪戯っぽく細められた瞳。


 ――この人はどうして、わたくしのような醜い化け物にすらお優しいのだろう。


 マリアベルは顔を伏せ、オズワルドの胸に身体を預けた。

 日が昇りはじめたのか。足元からじわじわとぬくもりが広がっていく。



「あの、オズワルド様」


「なんだ?」


「……おはよう、ございます」


「うん。おはよう」



 暖かな陽光が降り注ぐ。

 ああ、今日も愛おしい一日が巡ってきたのだ。




 ルードリヒとは旧姓。

 現在の名はマリアベル・エルズワース。世界に革新を与えた新域魔導具の生みの親、オズワルド・エルズワースの契約上の妻である。

 そして――夫に恋をした瞬間、失恋が確定した、哀れな女の名でもある。


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