序
宜しくお願いします。
月が、染まっていく。
いつにも増して橙色の月が、血を浴びたように赤く染まる。
この世界は、月に支配されている。
世界は様々な力で満ちており、その力は月の影響を受けて変質する。満ち欠けに因るものもあれば、明るさに因るものもあり、光色に因るものもある。
今宵は、暗紅色の月。柘榴月。
柘榴月の浮かぶ刻は、魔の力が濃くなる。魔の刻が訪れる。
そして屡々それは、魔の宴とも呼ばれる。
魔の力の恩恵を享ける者――俗に“魔術士”“魔族”と呼ばれる者と“魔物”と呼ばれる物――は、魔の刻になると活発になるものが多い。魔の刻以外はあまり活動的にはなれないものが多いのだ。それこそ、中には魔の刻しか活動しないという強者もいる。そうでなくとも、魔の刻にしか開かない店も多く、魔の刻以外で労働などしない者が大半だ。勿論、魔の刻でなくとも働く者もいるが――、そういった勤勉な者であっても、魔の刻は心身共に最良であることは間違いなかった。
魔の宴、などと称される所以は、浮かれた魔術士や魔族が文字通り宴を開いているからだった。
「今夜の柘榴は綺麗ねえ」
「それにいつもより濃い魔力」
「お蔭様でいつもより身体が軽いです」
「でも逆に白族とか全っ然つかいものにならなくって。今日の現場は散々だった」
「ああ、きみの職場は白族もいるんだっけ?」
「白族だけじゃなくて天族だって妖族だってなんだっているよ」
深紅に輝く果実酒の入ったグラスを手の中でくるくると回し、その果実酒に負けないくらい頬を染めた女が、正面に座る男に視線を遣る。
「梨花月の刻は何の問題もないのにね。白族は、柘榴の刻は魔力酔いで動けないってのが多くて。その辺で柘榴以外は働く気がしないって言ってる放蕩魔族とは違ってホントに動けないの」
溜息を吐いて、その吐いた息の代わりとばかりに果実酒を呷る。
白族とは、世界に満ちる力の恩恵を殆ど直接享けない者の総称である。その代わりに手先がとても器用で、生産系の職を生業にしている。
世界に満ちる力の恩恵を享けないということがどういうことなのか、この世界の物は誰しも、身を以て知っている。梨花月――真っ白な望月が浮かぶ刻だけは、世界に満ちる力は総て無に帰す。正しくは、天空の望月が総ての力を奪い尽くすので、ただ新鮮な空気があるだけの世界になってしまうのだ。
月が奪い尽くすとは言っても、そもそもが月から発せられる力だと考えられているので、発生元に戻るだけだとも言われている。だから、無に帰す。最初からなかったかのようになる。
つまり、梨花月の浮かぶ刻だけは、総てのものが等しく白族のような状態であり、ゆえに、その不便さを知っている者は、その状態で繊細な宝飾や衣類や意匠を作り出す白族を尊敬するのだ。
手先の器用さにかけては右に出るもののいない白族だが、世界の力の恩恵は享けなくとも、影響は受ける。世界の力への耐性がなく、だから恩恵も享けられないのだろうというのが、古来からの学説だ。特に魔力への耐性が無い物は、魔力酔いを起こし、酷いものは動けなくなる。
魔力酔いを起こすのは白族に限ったことでもないので、耐性の無いものには当然の症状であるという認識だ。
しかし、魔力の恩恵を享けるものたちは、他の力に酔うことはない。
このことから、魔の力は、世界に満ちる力の中で最も強い力であるとの認識が広い。したがって、魔の力で何か問題が起きたときは、魔族や魔術士で対応することが不文律となっていた。
そう、たとえば、――
「魔物が山を下ってきたぞ! しかも魔力を暴走させてる!」
――人里へ魔物が魔力を暴走させた状態で現れた場合の対応は、彼らの仕事と決まっていた。たとえそれが、柘榴月に浮かれた晩の宴の真っ最中であったとしても。
飲みかけの果実酒を卓に置いて、魔術士の女は立ち上がった。
「……しかたないから一仕事してくるわ」
「手伝うよ」
正面の男も、椅子をひいて立ち上がる。
「私はお役に立てないかと思いますのでよろしくお願いします」
「二人がいくなら、わたしはいいかな。手が足りなそうなら呼んで」
他の面子は席についたまま、二人は魔物の対応に向かった。
宴の催されている居酒屋から正面に出ると、そこは野次馬と、そもそも外で宴の酒を飲んでいた者でごった返していた。山を下ってきた魔物が遠目でも見えれば、と思ったのだが、この人混みでは見えるものも見えない。
「……邪魔ね」
「琉瑠、裏から回った方が早そうだ」
魔術士の女――琉瑠は、同行の男に手招きされて、居酒屋の壁伝いに裏道へ出て、隣家を迂回して表へと出た。人混みが酷いのは変わりないが、視界を塞ぐ人壁の前に出たことで、山から続く道を見晴らすことができる。――昼間であれば、の話だが。
「アスト、見える?」
「ああ。あれは――、猪系の魔物だな。…オスかな」
アストと呼ばれた男は、暗闇しか見えない道を見据えて断じた。
「相変わらず化け物じみた視力ね。蝙蝠でも宿してるのかしら」
「そういう琉瑠は鳥目だよね。見える分は凡そ十体」
「魔力を転換すれば夜目が効くようにもできるけれど、ね!」
琉瑠はそう言いながら、光弾を放った。だがそれは暴走した魔物に向けたものではなく、二人の頭上に留まって、周囲を明るく照らす。
「……的にするつもりか?」
「ええ、その方が楽でしょう?」
散らばられるよりも、一所に纏めたほうが、対処し易い。光弾は、光を放つだけでなく、琉瑠の魔力をもばら撒いている。
猪魔物を誘き寄せる為の餌だ。
琉瑠の思惑通り、魔物は二人のいる方向へ向かって突進してくる。
暴走魔物の進路を自身たちのいる方向へ誘導されたと理解した、琉瑠の背後の野次馬達は――
即時、身を翻らせた。
「巻き込まれるぞ! 早々と避難しろ!!!!」
「畜生っ、見物してようと思ったのが悪かったのか?!」
「あの二人に目の前で暴れられたら見物どころじゃねえよ!」
蜘蛛の子を散らすように、当初琉瑠たちの視界を塞いていた野次馬の群れが散開していく。アストがちらと振り返った時には、自分の店が目と鼻の先にある店主と、野次馬根性逞しい数名の魔族が距離をおいて見ているだけだった。他は、アストの視界に入らない位置――つまり、家二〇軒よりも向こうまで逃げていた。
やはり殆どのヒトが、命は惜しいらしい、とアストが苦笑している間も、琉瑠は魔物が下ってくる山道から視線を逸らさない。
鳥目の琉瑠だが、本人が言ったように魔力を変換すれば夜目は効く。何より、暴走した魔物の魔力は独特で、位置を把握するだけなら、姿を目で捉えるよりも魔力を感知した方が容易かった。
「アスト、来るわよ。あと二十歩の距離で光源内」
「了解」
言われるまでもなく距離は把握していたアストだが、琉瑠へ応答すると同時に身体を沈める。
三……、二……,一……、
光源のある場所に魔物が踏み入った。成程その姿はアストの言ったように猪に酷似している。だが、通常の猪よりも牙が長く、上下の牙の隙間からは濁った煙がしゅうしゅうと音を立てて噴き出している。おそらく、体内からあぶれた魔力が身の内を焦がしているのだろう。
その上、体毛は猪に有るまじき色をしていた。朱に紅、紫、と禍々しい色合いが斑に並んでいる。
背後で見物していた誰かが、うげえ、と声を漏らしたのが聞こえたが、琉瑠はそれを意識の外へ追いやり、短く詠唱した。
「――とまれ」
突進していた魔物が、次々と何かにぶつかったかのように撥ね飛ばされて止まった。後続の数体が辛うじてぶつかる前に足を止めた。どうやら、暴走していても多少の思考能力は残っているらしい。
「――面倒ね」
「俺は滾るけどね」
相反した感想を口にして、二人は嗤った。
「討ち漏らしだけ頼んだわ」
「勿論」
自身の魔力で焼かれて暴走しているというならば、それを使い切らせてしまえばいい、枯渇するまで抵抗させればいい。体内に留めておける限界よりも魔力を溜め込んでしまったゆえの暴走であるなら、それで片がつく。
しかし、魔力切れまでどの程度かかるのかは、個体差があり過ぎる。
だが、琉瑠は余裕を以て魔物たちを見据えた。。
「さあ、体力勝負といきましょうか?」
そう言って右の掌を天に向けた。そこに、焔が宿る。
「――灼き尽くせ」
足を止めた魔物が、青白い炎に包まれる。先程撥ね飛ばされた個体は倒れたままで、のたうち回るしか出来ずにいる。だが、ぶつかることなく足を止めた数体は、焔から逃れたい一心で暴れまわり、琉瑠のいる方向で突っ込んできた。
高温の炎の塊が、目前へと迫る。
この一体へ、琉瑠は左の掌をかざす。
「――凍れ」
罅の入ったような歪な音と共に、燃え上がっていた炎が凍る。それでも、魔物の足は止まらない。
「アスト、」
「まかせろ」
琉瑠の隣で姿勢を低く保っていたアストが、瞬く間に飛び出す。文字通り、瞬きをする間もなく魔物の懐に飛び込んだアストは、前足を掴んで魔物をひっくり返すと、その勢いのままに未だ炎燃え盛る魔物の同胞の元へ投げ飛ばした。
今度こそのたうち回るしかなくなった魔物だが、それでも肉の焼ける異臭は未だしない。暴走するだけの魔力にまかせて、焼けようとする片端から保護再生が行われているのだ。再生に回す魔力がなくなれば、異臭が漂い始めるだろう。それが合図。
延々四半刻近くも青白い炎に耐えた魔物は、焼け落ちる前に炎を消されて、満身創痍のまま投げ出された。体毛が所々焦げているが、あの禍々しい色がなくなり、見た目はただの牙が長い猪になっていた。
「魔物の直接被害なし、延焼もなし」
「上出来でしょ」
その一部始終を観ていた数名が、わっと歓声を上げる。燃え盛る炎こそ激しかったが、それの他は静かなものだった事で、避難した筈の野次馬もそこそこ戻ってきていた。
「相変わらずえげつねえ魔力だな! あの数の魔物を無傷で抑えるなんざ」
「しかもあれだけ派手に魔術をつかいながらけろっとしてんだもんな」
口々に琉瑠を褒め称えては、肩を叩いたり頭を撫でたりしていく。
「おめえも躊躇なく魔物の巨体を投げ飛ばすたあ、知っちゃいたがバケモノだな!」
「そりゃどうも」
アストも軽口で褒められ、背中を加減なく叩かれる。扱いの差は、単に性差だ。
だが、その扱いにも異議を唱えるものが一人。
琉瑠は、背後から伸びた腕に腰を抱き寄せられた。
「琉瑠が優秀なのは当然。――俺のものに触らないでくれる?」
「……ウェル」
背後の男へ、琉瑠は呆れた目を向けた。そして、油断なく周囲を牽制するその眼を隠すように、手を伸ばす。
「妬いてくれるのはいいけど、その剥き出しの敵意はどうにかして」
「無理だな」
ウェルと呼ばれた男は、目元を覆う琉瑠の手を取ると、掌に口づける。
「琉瑠に触れていいのは俺だけだからな」
「はいはい、いちゃつくのは後にしてくれな、ウェル。何してたんだ遅かったね」
「姉貴と手合わせで地下にいたんだよ。悪かったな間に合わなくて」
「領主さまと手合わせね、柘榴月の度に大変だねえ」
「あの人の戦闘狂は今に始まったことじゃないからな」
背後のウェルと正面のアストが会話している間に挟まれて、琉瑠は溜息を吐いた。
「……なんでもいいからともかく、避難令解除してきなさいよ弟御サマ」
柘榴月が見守る中、琉瑠に瀕死にされた魔物は正気を取り戻し、一体、また一体と山へと帰っていく。生来の気性は穏やかだったようだ。しかもおそらく、暴走していた間の認識もあるようで、琉瑠に気付くと一目散に逃げていく。弱肉強食が染みついているようで何より。
「まあいいわ、飲み直しましょう」
琉瑠の一声で、男二人はそれに従った。