第一章 20 『炎狐』
周囲に咆哮が響き渡る。眼前には、黑蜘蛛の鋭い鎌爪が振り下ろされる。ヘレンは振り下ろされる寸前に濃密な炎を吐き出し辛うじて鎌爪の軌道をずらした。これもそう何度も通じる手ではない。四肢はもうすでに八割方、触手糸に絡めとられ感覚すらも感じない。
「おいおい、冗談じゃねーよ……これじゃ、喰われる前に繭にされてじっくりとしゃぶり尽されちまうじゃねーか……」
言い伝えによれば、黑蜘蛛の捕食方法は2つそのまま齧り付く直接捕食と、糸を介した間接捕食。とされている。間接捕食には何かしらのトリックがありそうだが、今はそんなことを考えている余裕はない。
黑蜘蛛の本体は30mほど手前から第一歩足のみを伸ばして、ヘレンを休みなく攻撃して、その動きをじっと8つの目で観察していた。実際は第一歩足で完全に絡めとるために作業しているようだが、思わぬ抵抗を受けて多少イラついているようで、攻撃は単純な力任せになりつつあった。それだけに、ヘレンのブレス攻撃の影響も少しづつ受けずに鎌の振り落とされる地点が徐々にヘレンに近づいている。
そんな攻防をしている間にも、触手糸はヘレンの体の6割を飲み込んだ。
「_____??」
不意に、黑蜘蛛の鎌爪が2本とも本体に戻っていく。
諦めたのか?そんな考えが頭をよぎったが、黑蜘蛛の行動を見て全身に悪寒が走った。黑蜘蛛は鎌爪を自分の毒牙でしゃぶり始めた。毒牙からは紫がかった透明な液体が溢れ出し、雫が地面に落ちると、中華鍋に水滴を落としたようなジュゥゥゥゥウという音と共にもうもうと湯気が上がる。決して、水滴が異常に熱いわけではない。
「‼⁉_______溶解液は卑怯じゃね⁉」
あんなもん少しでも触れたら体に穴が開く。もう一刻の猶予もない。必死こいてやりあうなら_______
ヘレンは全身全霊の力で炎を展開する。炎がそこら中に散らばっている木くずに燃え移って、燃焼範囲を爆発的に拡大させていく。あっという間に荒野が一面の火の海に代わり黑蜘蛛も巻き込まれるが、鎌爪を溶解液でコーティングしていて、我関せずと言いたげに全く動じた様子を見せない。
「余裕見せてられんのも今のうちだ‼‼この、クソ野郎‼‼‼」
ヘレンが吠えると同時に荒野で燃え盛る炎がヘレンに集約される。その一帯が一瞬、太陽のような輝きを放ち、徐々に光が消えるとそこには、先程まで触手糸に絡めとられていた狐の姿は消えていた。
代わりに空中に姿を現したのは、有に10mはある炎の塊が、徐々に狐の形を取り戻す。犬のように突き出た鼻、鋭い牙を生やし、裂けた口の端から青い炎が漏れる。鋭い眼は獲物だけを見据える。理性のかけらもない本能むき出しの目が黑蜘蛛を見据える。とがった耳の先に青い炎を灯し、黄金の毛並みがキラキラと太陽に照らし出される。前足は細くしなやかで、後ろ脚は見てわかるほどに筋肉をつけている。その狐の周りを守るように赤と青の2つの炎の玉が漂う。正真正銘の炎弧が姿を現した。
それがストンと地面に着地する。それを絡めとろうと大量の触手糸が纏わりつくが、炎狐の毛並みに触れた瞬間青い炎に包まれた。もはや、蜘蛛の糸に引っかかることはなく糸の大地が燃えていく。そして、燃えてなくなった先から糸は修復された。
そんな炎狐の姿を見て黑蜘蛛の動きは止まって、眼だけがせわしなく動いていた。ギチギチと自らの毒牙を鳴らしたかと思うとようやく本体が動き始めた。見た目と大きさの割に俊敏な動きで炎弧との距離を詰め、溶解液でコーティングした右第一歩足の先の鎌爪を渾身の力で振り抜いた。しかし、それは空を切り、慌てて炎弧の姿をとらえようと反転しようとした左第一歩足は、根元からなくなっていた。
「_______________!?!?!?」
それにようやく気が付いた黑蜘蛛が断末魔をあげた。それも一瞬のことですぐに左第一歩足は根元から修復が始まり、10秒と経たずに元通りに戻っていた。
反転するとすぐに炎弧の姿をとらえたようで黑蜘蛛は身構えた。じりじりとまわいを取りつつ隙を窺う。先に動いたのは、炎弧だった。炎弧の周りを漂っていた2つの炎の玉が低空飛行で左右に飛び出した。通ったところから忽ち発火し火の手が上がる。上がった火の手は、重力に吸い寄せられるように炎弧に集まって吸収された。その間にも黑蜘蛛に炎の玉が迫り、それをよける黑蜘蛛を必要に追い回した。逃げきれないと悟るや否や黑蜘蛛は炎弧に向かって跳躍すると鎌爪を2本同時に振り下ろした。炎弧もそれを難なくかわすと右側の第3・第4歩足を食いちぎりながら飛びのくと着地に耐え切れなかった黑蜘蛛がバランスを崩す。それを逃さずに炎弧は黑蜘蛛に飛びかかった。
これ以上にないほどの絶好のタイミングだった。しかし、飛びついたときそこには、黑蜘蛛はいなくなっていた。荒野のど真ん中。隠れる場所なんてどこにもない。ましてや歩足が2本欠損した状態で跳躍できるはずもない。
「____________????」
炎弧は何があったか理解できないように、あたりをゆっくりと見回す。
その時、地面が大きく波打った。炎弧のいる場所を中心に窪み、外周部分が反り上がり、一瞬で空を覆いつくすと波のように炎弧を飲み込んで、荒野だった場所にはただ1つの巨大な繭が出現した。そして、自由落下を始める寸前で、瞬時に巣が再び組み上げられ落下を防ぐ。
「________。______________」
降り注ぐ蜘蛛の糸に一瞬のうちに自らの体が絡めとられ、ギリギリと締め付けられる。呼吸すらもままならない。意識が保てない。少しずつ視界が掠れ白から黒に切り替わる。意識はそこで途切れた。
炎弧の断末魔が微かに響き渡ったが、それがなくなるまで、時間はかからなかった。
そして、繭の上に黒いフードのついたローブを着た白髪のひょろ長い男が降り立った。
「ずいぶんてこずっちゃったな……ちょっとなめてかかりすぎちゃったわ。でも、これでおしまい。」
独り言のように呟くと繭から飛び降りて、30mはあろうかという巨大な繭を振り返ると
「僕から死をプレゼントするよ……ふふふふふふ」
男は薄ら笑いを浮かべると、黑蜘蛛の巣を陽の上るほうへと平然と歩き始めた。
あれからどれだけの時間が経ったかわからない。ヘレンは繭の中で目を覚ました。幸いにも炎弧の状態が解け、獣人のヘレンに戻っていた。その分の空間が出来上がっていた。力が入らないのは恐らく眉を生成している黑蜘蛛の糸を介した間接捕食が始まっているのだろう。何とかして脱出しなければ全て吸い取られて、消える____
ここまで密閉されているとなると空気も薄い。一撃で決めないと取り返しがつかない。一先ず、炎を灯すため意識を集中させる。微かに種火ができたもののすぐに消えてしまう。それを何回も繰り返して、諦め次の手立てを考え始めた。
そうしている間にも空気が確実になくなり始めているのを感じる。咄嗟に息を止めて火を抑えると最後の手段を思いついた。しかし、そこで立っていられなくなった。ヘレンは自分の体重を支えられずに横倒しにり、灯っていた炎がスーッと消え、徐々に意識が遠のく
まだ、終われない……まだ、守るべきものはきっと残ってる……まだ……嫌だ……あいつが目覚めるのを待っていたい……
そこで、意識は体から切り離された____
『__レン……ヘレン?ヘレン!!』 懐かしい声が鼓膜を揺らした。
(んん???)
その声に思わず反応を示した。
ついに幻聴まで聞こえるようになったか……それでも……もう聞く事なんて出来ないと思ってた……それだけで……涙が、出そうだ……
実際にそこには居ないとわかりきってる。その声の主は、アーガイルの計らいで、病院の一室に今も眠り続け、もう二度とは目醒めないだろうと八年も前に医者に告げられた。
あの日の別れ以来のその声が今は聞こえる。
『……もしかして、聞こえていないの?ちょっとショックかも……もしかしたら聞こえるかと……思った……のに……』
はっきりと聞こえるその声が、少しずつ落ち込んでいく様な声音に変わっていく。
「聞こえてる……聞こえ……てるさ……カミラ」




