第一章 1 『草原の穏やかな昼下がり』
肩くらいの長さまで伸びた茶色い髪を下ろし、少し薄目のセーターとロングスカートを身にまとった少女が、木陰で眠っている少年を見つけたのは昼食の片付けをすましいつもの木の下で本を読もうとやってきたときだった。
少年は薄い灰色の髪を眉間まで伸ばしふわふわとした髪質をしていた。いつもの穏やかな表情を一層緩ませ、まるで冬に日向ぼっこをする猫の様だ。
木漏れ日の温かさはきっと生物を安心させる何かがある。少女はそんな少年の気持ちよさそうな寝顔を見て、そんなくだらないことを考えた。持っていた肩掛けのカバンを木の根元に下ろした。
少年はユーリ・カルレス。少女アイリ・エルメスの幼馴染だ。
ユーリは6歳の頃に祖父シェイド・フォーラスと共にチェストヴォ共和国の都から750km程離れた最南端の商門都市カルトにやってきた。
この世界共通の認識で、街に張られている結界の外では、魔物がいて住むことはできない。希に魔物の侵入を許し壊滅するということもあり、危険でしかないとされていた。しかし、カルトにやってきたシェイドたちは、何故か結界の張られている都市内部には住まず、近くの草原の隅に自前の家を建て住み始め、襲ってくる魔物をすべて狩り。幻獣の卵を還し、手なずけて、最終的にはカルト周辺の魔物を餌に成長した幻獣が街を防衛するようにしつけることに成功した。
カルト周辺に魔物が出現しなくなったという話は瞬く間に国中に知れ渡り、元から商業の盛んだった街は一層の賑わいを見せるようになり、商門都市として知られる様になった。魔物殲滅を聞いて、安全を求めて移住してきた人も少なくなく、アイリもその一人で、住んでいた村を襲われ唯一の民間人の生き残りとして8歳の時にカルトに移住してきた。
そのころ街の人々の信頼を勝ち取ったシェイドは、街の子供を草原に集めて遊びや勉強、魔法を教えるようになっていた。
当時、引っ越してきたばかりで知り合いのいなかったアイリはその話を聞き草原を訪れた。しかし、草原にはだれもおらず、とりあえずと草原の中心にポツンと生えているこの木の根元まで行き、今と同じように寝息を立てる少年を見つけ、驚愕した。結界の外でこんなにも無防備に眠りこける人を初めて見たのだから。
いつ魔物が襲ってきてもおかしくない場所にいたアイリは反射的に少年を叩き起こした。
「起きて…起きてよ…こんなとこで寝てたら…魔物…魔物に!!」
魔物に蹂躙されていく村を見た少女にとって二度と見たくない光景を起こさないという強い義務感をもって少年の身体を力いっぱいに揺らす。驚きに目を開けた。
「ん…ん!?ちょ…ちょっと……」
少女は目を覚ましたことに気が付いていないようでゆすり続けている。
「待って、まってぇー………」
叫ぶ勢いで静止を要求するユーリの声にアイリはようやくゆするのをやめ、安どの表情を見せた。ユーリは揺れが止まってしばらく額に手を当て黙り込む。落ち着いたのか
「君、だれ?」
薄目にこちらを半にらみしながら、目の前で必死な形相をしながら身体をゆすっていた見知らぬ少女に当然の疑問を投げかけていた。
「え…えっと…あ…」
「あ……?」
昼寝を邪魔された少年の不機嫌そうな声に、少女が怯え、大きな瞳に少し涙をため、辛うじて聞こえる声で、ぽつりと名乗った。
「アイリ……」
その様子を見てユーリが微かに狼狽えた。女の子を泣かせてしまったという罪悪感が心を締め付ける。ふぅ…と落ち着くようにため息を小さく吐き、少し優しい声色で
「そっか…アイリっていうのか。ん…で、どうしたの?」
ユーリがそう問いかけると、安心したように目尻に浮かんだ涙を手で拭って
「早く逃げないと…魔物がきちゃう…」
問いかけにたいしてアイリはポツリとつぶやいた。
「え?魔物?でも、ここは…」
ユーリが言い終える前にアイリは
「だから…逃げなきゃ!!」
そう言って、ユーリの手を強引にとって走ろうとするアイリをユーリは慌てて止めた。
「ここでは魔物は出ないんだ!!」
「えっ?」
アイリは驚いて手を引きかけの体制で静止した。
「ここは、霊獣の支配地域で、魔物は霊獣がえさとして、全部食べてるし、この草原はシェイ爺が結界を作ってるから魔獣は来ないんだよ…」
ユーリは嘆息しながら説明した。
「そうなんだ…よかった…あ、あと…その…ごめんね?」
安堵したのかアイリが腰が抜けたようにへたり込む。
「っぷ…ふふふ…ははははー」
その姿につい笑いをこらえられなくなってユーリが噴き出すように笑い始めた。
「なんで、笑うのー笑わないでよー」
それに対してアイリが頬を膨らまし、非難の目を向ける。
「いや、ごめん…ほんとに腰抜かす子、初めて見たから」
まだ、少し笑っている雰囲気のある言葉を聞き、アイリは一層頬を膨らました。
そんな思い出を振り返りつつ、幼なじみの少年は身体が大きくなり青年と呼べる程に成長したが、こういう呑気なところや体を横にして眠る姿は何ら変わっていないことに、呆れ半分。喜び半分といった思いでいた。アイリはユーリの薄手の格好を見て、しゃがみ込み、持っていたひざ掛けをユーリの身体にかぶせた。
「まだ、少し、寒さもあるんだからそんな恰好で寝てたら風邪ひくよ…」
と、優しさのこもった声を耳元で囁き、立ち上がる。そんなアイリの背中に突然声がかけられた。
「アイちゃんは相変わらずねーふふっ」
誰もいないと思っていたアイリは、
「ひゃっ!?だ……誰?」
突然の声に肩をビクリと震わせ、上ずった声で小さな悲鳴をあげた。
振り返った先には赤く長い前髪で左の目を隠し無造作気味な短髪の女の子が口に手を当てつつからかう様に切り目ガチな橙色の瞳を細めて立っていた。その姿を見てアイリはホッと胸をなでおろした。
「って……サラちゃんっ!?急に声かけないでよっ!!ホントにびっくりしたんだからー!!あっ……」
捲し立てるように結構なボリュームで叫んでいた事に気が付いて咄嗟に口に手を当てると、ユーリの顔を覗き込む。「ん……んーっ」と、眉をひそめはしたがユーリは起きる様子はない。
サラと呼ばれた少女は笑いを堪えるように小声で「ユーリが起きなくて良かったなー」とアイリに向かって囁いた。
「もーっ……サラちゃんのせいでしょっ」
「とりあえず、落ち着きな」
「あっ、うん……はぁーーふぅーっ」
サラはアイリが深呼吸をする姿を見つめながら思案顔をして
「そういえば、なんで人って焦ったら冷静さを取り戻すために深呼吸するんかね……」
そんな事を言い始めた。
「えっ?どうしたの急に」
「いや、アイちゃん見てたら思い浮かんだ……」
「なにそれ……また、可笑しな事言って」
サラちゃん事サラ・ミサイアスは時々変な事を言い始めては、自分の推論を話して聞かせてくる。大抵は別に考える必要性のない事を思いつきで思考し始めてしまう。悪い子では無いが端的に言えば少し変わっている。変わっているといえばユーリも変わっている面があるが、サラの他と違う点はもう一つあった。赤い髪の隙間から時折見える耳は普通の人間よりも長く尖っている。所謂エルフと呼ばれる精霊種の一種だという。様々な種族が流入してきたチェストヴォ共和国内でも100人もいないとされており、カルトの街では、孤児として引き取られたサラ1人だけ。
「そんな事より、サラちゃん……今日は来ないって言ってなかった?」
サラが推論を語り始める前に、話題をサッと戻す事にした。
「あー……アーガイルに時間できたらアイちゃんのついでにユーリとそこの奴の様子見て来いって……」
そう言って、サラはユーリが木陰を利用している木を仰ぎ見ると、風も無いのに僅かに木がガサガサと揺れ
「んだよ……バレてんのか……隠れ損じゃねーかよ」
乱暴気味な声が木の上から聞こえた直後、声の主が木から逆さに顔を出した。
「よっ犬っころ」
「誰が犬っころか!!」
からかい半分なサラの声に過剰に反応したのは、ディラム・パントラン。通称ディランと呼ばれるこの少年はユーリの数少ない同年代の友人だ。
ディランは木にしがみ付いていた足を解くと落下中に身体をくねらせて上手く着地して見せた。
身長は男にしてはかなり小さく、顔はその小ささに見合ったものだろう半袖、半パンという格好が少年のような可愛らしいさに拍車をかけている。今の表情はサラに存在を看破された事で少し不機嫌そうに眉を潜めている。その頭には普通より明らかに高い位置にふさふさとした三角形の耳が生えているそのせいか、こう言う拗ねたり、怒ったりしている表情を見ると思わず撫でたくなってくる。腰の方に目を向けるとそこからは体に見合ったサイズの尻尾が見て取れる。ディランは犬系の亜人の血を引いていた。
「あれ?ディラン……居たの?」
「ユーリさ……じゃなかった……ユーリある所に俺ありだっての、へへん」
アイリの問い掛けに少し的外れな回答を返しながらディランは誇らしげに胸を張った。「ま、確かにいつも一緒に居るよね……」とアイリは苦笑いを返すとサラに向き直り、
「サラちゃんは、ゆっくりしていくの?」
「んや……すぐ戻るよ。暇ができたってもここまでの移動時間で半分くらい使ってるから、手短に用事済ませて少しでもゆっくりするさ」
「そっか、えっと……お茶でも用意しとくね」
「お?あんがとねアイちゃん。そんじゃー、犬っころ……ツラ貸せ」
身体を反転させ、歩き始めながら顔だけをこちらに向けて言い放った。
前半と後半の声のトーンの違いに一瞬空気が凍るほどのテンションの違いがあったが、それはすぐに破られた。
「おめーは、どこのゴロツキだよ!?ここに子供居たら確実に泣き喚く子供の大合唱が始まってるわ!!」
そんな事を言いながらもディランは、おとなしくサラについていった。
少し離れたところで、話をする二人を見ながら、ユーリとシェイドの住む家からアイリが湯気を立てる三杯の紅茶を木のお盆に乗せて戻ってきた時には、二人はそこから居なくなっていた。その内戻ってくるだろうと考えたアイリは、未だに寝息を立てているユーリのすぐそばの木の根元にお盆を置き、隣に腰を下ろすと、持って来ていた本をカバンから取り出して、読み始めた。
やっぱりと言うべきかその日、二人が戻ってくることはありませんでした……