8.求婚
……何も感じない。心が壊れてしまったのだろうか。
否、心は変わらない。シュリアの想いを感じる。そして、シュリアンの想いも。
私は全てを諦めてしまったのだろうか。否、嘆き悲しんではいなかった。
私は静かだった。特段、喜んでもいなかった。
二人とも穏やかだった。あるがままを受け入れている感じだった。
――解呪された。
何となくそう感じた。ありとあらゆる全てが解放された感じがした。本当の私に戻れた、そんな気がしていた。
包まれていた光が次第に消えていった。視界にカイルの姿が映る。
「何故だ!?」
カイルは驚愕の表情を見せていた。自分が見ている者が信じられないとでも顕しているかのような。とても喜んでいるようには見えなかった。
少し離れたところに両親の姿を捉えた。二人とも顔色は変わっていなかった。静かに私をじっと見つめていた。
「失敗したのか……」
失敗――カイルのその言葉はどういう意味なのだろう。何が失敗したというのか。
身体に異変は感じない。ゆっくりと手足を動かしてみる。思う通りに動く。
動く両手で身体を触ってみた。一通り確認する。
――シュリアの……身体?
男性の身体ではなかった。正真正銘、女性の身体だった。
――心は?
シュリアンを感じる。勿論、シュリアも。
「解呪できなかったのか?」
カイルは徐に私に向かって右手を伸ばした。それだけでは私には届かないと足を踏み出そうとしたが、一瞬で動きは止まった。
「解呪は成功している」
はっきりと確かな口調。諭すような声の主――父がこちらに向かって、カツカツと靴音を鳴らしながら近づいてきた。
「それはどういう――」
「シュリア姉様の夢が『お嫁さん』だからだよ」
カイルの話を途中で遮ったのは、リオルだった。
いつの間にか、リオルが目の前に居た。私を守るように立ちはだかっていた。
カイルに敵意を向けているのが後ろ姿からも感じられた。
「お嫁さんが……夢?」
自分に言い聞かせるようにカイルは呟いていた。
「そうだ。リオルの言ったように、私の夢はお嫁さんだったんだよ。軽蔑したければ、軽蔑すればいい。自分でもおかしいと思った。でも、自然にそう想ってしまったんだよ!」
もう隠せなかった。カイルにも知って欲しかった。
5歳のあの時、呼吸をするように自然に、そう想った。理屈ではなく。それが何故なのか分からないから悩んだ。
「お嫁さんって……おかしいじゃないの。どうして男の人がお嫁さんになりたいのよ。訳が分からないわ」
「おかしくないわ! だって……」
ミリア様に反論したのは母だった。珍しく大声だった。でも半ばで泣き崩れてしまった。
嗚咽で言葉が出てこない母を傍に居た侍女が支えていた。
「男の人だって、お嫁さんになりたいと思うことだってあるんじゃないの? それって、本当におかしいことなの? たまたま、男の人に生まれてしまっただけなんじゃないの? 違う?」
母の代わりにリオルが弁護した。
それがリオルの導き出した答えなのだろう。その言葉に救われた。私が今まで悩み傷ついてきた心が癒されていくのを感じた。
「違わないかもしれないけど……男の人をお嫁さんにする男なんていないんじゃないのかしら?」
ミリア様も負けじとリオルに牙を剥けた。
放った言葉からは――男女のお嫁さんになりたい夢なんて叶うわけがない、そういった悪意を感じた。
「――此処に居る」
そう答えたのはリオルではなかった。
リオルは悔しそうに口を噤んでいた。例えがないから、はっきり肯定も否定もできなったのだろう。
「カイル……貴方、何を言って……」
「本当は俺が女になるはずだったんだ。俺の代わりに呪いにかからなければ、こんな事にはならなかったんだ。全ては俺の責任だ」
カイルの瞳は私だけをじっと見つめていた。正確に捉えていた。
「俺が責任を取って嫁にする。俺がシュリアン、否――シュリアを嫁にする!」
カイルは部屋に響き渡るくらいに大きな声で堂々と宣言した。
「冗談でしょう?」
「本気だ」
「どうしてカイルが責任を取るのよ。それこそおかしいでしょう? カイルじゃなくても、嫁にしたいという奇特な男がいるわよ。ねぇ、そうでしょ?」
カイルとミリア様が押し問答している。
ミリア様の「私のような男女はお嫁にはなれない」という言外に同情して、カイルは私を嫁にすると言い出したのだろう。
確かに私の夢は『お嫁さん』になることだが、責任を取ってもらってまで、嫁にして欲しいわけではない。責任ではなく、心から嫁にしたいと想ってくれる男に嫁ぎたい。
ミリア様は更に追い打ちをかけるような酷い言い草だが、彼女の言っていることはある意味正しい。
だから、カイルに嫁にすると言われても嬉しくない。それどころか、憤りを感じていた。
誰も嫁になるなんて返事もしていないのに、本人そっちのけで言い争って祝いの席を掻き乱された私の気持ちなど、これぽっちも考えてはいないのだろう。
「カイル……嫁の話だが――断る。私は責任からではなく、本心から私を嫁にしたいと言ってくれる殿方の嫁になる。そういうことだから、ミリア様も安心してカイルを連れてお帰り下さい」
出来る限り、丁寧な言葉を心掛けた。心の中では、「さっさと帰れ、疫病神!」と呪文のように何度も唱えていた。
「さっ、帰りましょ! カイル……」
ミリア様は私の冷徹な視線に耐えられなかったのか、怯みながらカイルの腕を引っ張っていた。
「カイルってば、ねえ!」
カイルはびくとも動かない。ミリア様の細い腕ではカイルを一歩も動かすことはできなかった。
カイルはミリア様には目もくれず、私だけを一直線に見つめていた。その視線は全く揺らいではいない。一定していた。
金の瞳は何を語っているのかは窺えなかった。唯一感じたのは――恐怖。獲物を狙うような獰猛な金の瞳が、視線だけで私を捕らえていた。
視線を外せなかった。外したら、一気に追い詰められそうな気がして。被食者になっている気分だった。
カイルのあのような瞳は幾度か見たことがあった。そして、知っていた――あの瞳で捕らえた者は、絶対に逃げられない。捕まえられるということを。
でも何故、あの瞳を向けられているのか。一瞬だが、カイルが口角を上げて不敵に笑ったのが分かった。
帰れと言い放ったのは私なのに、この場から逃げたくて仕方がない。視界の隅で、リオルが身体を震わせて脅えているのが見えた。
リオルを守らなければ――そう思いながらも、一度でもリオルに視線を移せば、今度はリオルが標的にされそうで、不用意に動けなかった。誰かに助けを求めることもままならなかった。
「父様……」
突然、カイルが視界から消えた。父の背中に切り替わっていた。安堵の溜息が零れ、張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。
カイルと私の間に父が入り込んでいた。父の大きな背中は視界から完全にカイルの姿を消していた。
「シュリアが言うように、私もシュリアを本心から嫁にと望む男に嫁がせる。今のシュリアにとっては、カイル君の気持ちは迷惑でしかない。本気でシュリアを嫁にするというなら、それなりの誠意を見せてくれたまえ。シュリアが君の嫁になりたいとでもいえば、君に嫁がせることも検討しよう」
父とカイルは暫く無言だった。お互い、どのように視線でやり取りしていたのか、窺えなかった。私はじっと父の背中だけを見つめていた。
「……分かりました。日を改めます」
「そうしてくれ。シュリアは病み上がりだ。休ませてやりたいので、退出願おう」
5日前にやっと普段通りの生活に戻ったばかりだった。
襲撃事件で怪我を負い、筋肉痛も伴った所為で2日間寝込んでしまったから、筋肉も落ちてしまった。
母の監視もあり、思うように鍛練できなかった。マリアルは母の味方のようで、常時傍に居た。
退屈と動けないストレスから、食欲に走ってしまった。そのため、身体に贅肉がついてしまった。今日の為に仕立てたドレスがきつくなったことが判明し、めでたく鍛練の許可が下りた。余談だが、まだ少しばかりドレスが窮屈だ。
鍛練を再開すると同時に、父とリオルの戦闘訓練に参加していた。父が誘ってきた。自分の身を守れるようにと稽古をつけてくれた。
母は不服そうだったが、父に諭され納得したようだった。リオルは一緒に居られると手放しで喜んでいた。
望まぬ訪問者に精神的には疲れたが、身体的には心配されるほどではない。
でも、私が怪我を負ったのは知っている。穏便に帰ってもらうために、父が気遣い便宜を図ってくれたようだ。
父の便宜で、カイルとミリア様は帰り支度を始めた――若干一名だけを除いては。
「あの……すみません」
「どうしたね」
オルガ様に応対する父の声には少し棘があった。わざとらしく口調を強めにしていた。
「シュリア嬢の気持ち以外に、婿の条件はありますか?」
父に少し怯みながらも、オルガ様はしっかりと父を見据えていた。
父は目を細めて、威圧的な視線で送り返していた。
「申し遅れましたこと、お詫びいたします。ブラウ伯爵、お初にお目にかかります。僕はオルガ・アルブスと申します」
オルガ様は改めて自己紹介すると、礼儀を尽くした。その紳士的な態度に父の纏っていた苛立ちが和らいだ。
「ノワール師の元で勤勉を積み、解呪の専門家として自立するべく励んでいます。僕は子爵家の三男です。将来、爵位を継ぐことはありませんが、それでも求婚者の一人として、名乗り出ることをお許し願います」
父は何も答えなかった。オルガ様の瞳を凝視し、その奥に映る真意を窺っているようだった。
暫く父と視線を交わした後、父が軽く肯くのを確認したオルガ様は、私の方に身体を向けた。真正面に向かい合う。
「僕は、シュリアン殿に憧れていました。自分と同じような背格好なのに聖騎士として活躍していて、周りに女性だと揶揄われていても堂々としていた。誰よりも紳士的で、令嬢達の人気も高かった――だからこそ、妬まれたのでしょう。呪いで女性になっても聖騎士だった誇りを大事にして、一人の人間として人質を助けに向かったシュリア嬢に僕は一目惚れしました」
私を一心に見つめるオルガ様の琥珀色の瞳からは誠意と熱意が感じられた。
アマレロ家襲撃事件の現場にはオルガ様も居合わせていた――といっても、襲撃の直前に遅れての来訪になってしまったため、挨拶は交わしていなかった。ちなみに、オルガ様も女顔だった。背中の半分程伸ばしている柔らかそうな桜色の髪が余計にそう見せていた。何となく親近感を抱いた。
「僕は弱いです。貴女のように戦えません。男なのに、一人の令嬢すら守れない自分をずっと恥じていましたが、貴女が戦う姿を見て気づきました。男も女も関係ないのだということに。だから、自分に出来ることをしたらいいのだと。僕は武力では貴女を守ることはできません。けれども、今まで学んできた知識で手助けして守ることはできます。だから、僕も求婚者の一人として考えてはいただけませんか。お願いします!」
オルガ様は一息入れると話し続けた。その表情に真剣さが増した。
「貴女は素敵な女性です。正真正銘の女性です。それが本来の姿なのですから――そうですよね?」
オルガ様の視線は途中で父に移っていた。
「ブラウ伯爵は先程、解呪は成功したと仰られました。伯爵は全てご存知だったのではないですか?」
オルガ様は次から次へと父に疑問を投げかけていた。
貴重な聖騎士であるはずなのに、早々に解呪方法探索を打ち切るのはおかしいと。
解呪を記す文献を故意に隠していたのではないかと。
「魔法陣を描きながら、疑問に思っていました。これだけ複雑な陣を経った数日で完成させるのは無理があると。師はもっと前から、この魔法陣のことを知っていた。きっと、そのことを簡単に悟らされると分かってもいるはずです。しかし――解呪するのは今日でなければならなかった」
父を直視するオルガ様は確信を得ているのだろう。断言した。
「……流石はノワール氏の愛弟子。君の推測通りだ――シュリア、済まなかった」
父は突然振り向き、私と向かい合った。すぐさま、私の瞳を真っ直ぐに見て深く謝罪した。
一瞬、垣間見えた父の瞳は哀しみを宿していた。後悔の念も。