3.改名
令嬢に転身してから、2ヶ月が経過した。
花嫁修業という名の淑女レッスンに専念しながら、合間に父から学んだことをリオルに教えていた。
いざ、念願の女性になったものの、令嬢も覚えることが沢山あり、毎日が忙しかった。
中でも一番大変だったのが、歩き方だった。騎士だった頃は豪快に駆けていたから、ついつい早歩きになってしまい、その度に何度も注意された。
ドレスの殆どは一人では着ることができず、侍女の手を借りなければならない。身体のラインを綺麗に魅せるためにドレスの中に装着するコルセットも然り。幸いにも締め上げるほどの贅肉もなく、締めすぎると胸が強調されてしまうので、軽く締める程度で留めた。
未だにコルセットには慣れず、これ以上に締め上げが強くなってしまったら動けそうもないので、体形維持も兼ねた騎士団生活で嗜んだ護身術を鍛練していた。女性でも簡単に身を守れたという侍女の実績が功を成し、身体も引き締まるという相乗効果も得られるからと、今では母も暇が在れば参加している。護身術に関しては珍しく大賛成していた。
その他にも化粧の仕方を覚えたり、大きく口を開けて笑う時は扇で口元を隠さなければならなかったりと、令嬢の方が大変のように思えた。
でも、新しい事を覚えるのは楽しく、充実した令嬢生活を送っていた。
◇◇◇
「君の申し出通り、騎士団では解呪方法の探索は打ち切った。しかし、申請すれば再開するが――どうする?」
レイドリク・ロッソ騎士団長は、射抜くような鋭い金の瞳で私を真っ直ぐに見つめる。
騎士団長の話では、豪雨による各領の被害も半分程復興し、騎士団も余裕が出てきたらしい。それで再確認したいということだった。
「解呪の専門家もお手上げだと聞きました。全ての文献を探しても見つからないのですから、これ以上探しても時間の無駄でしょう。ですから、再開の申請はしません」
「そうか。君は令嬢として生きていく覚悟を決めた、ということか」
「はい」
「好い返事だ。潔いな。その潔さを息子にも分けて欲しいところだ」
私は苦笑するしかなかった。どうやら、一人だけ、まだ諦めていない者がいるらしい。
「では、この話は終いにして――この書類にサインをしたら、正式に退団となる」
騎士団長が執務机の引き出しから一枚の書類を取り出し、机の上に置いた。
「シュリアン!」
騎士団長の執務室を出た直後、名前を呼ばれた。
カイルは扉のすぐ横に立っていた。
「騎士団を辞めるって――何故だ!?」
カイルが詰め寄ってきた。
背が高く筋肉隆々で逞しい体躯に迫られると畏怖してしまう。眼光鋭く威風堂々としているから、近づき難い雰囲気を纏っている。滅多に笑わないから余計に強面に見える。
付き合いは長く慣れているとしても、触れ合うくらいにまで近づかれると怖い。カイルの大柄な身体に覆われて、目の前が陰った。女性になり身体が華奢になってしまったから、簡単に一捻りされてしまうだろう。見るからに力の差は歴然だった。
壁が邪魔して、これ以上後退できない。カイルという人物を知らなければ、失神してしまうかもしれない。そのくらい、カイルの顔はいつも以上に恐面だった。
普段は自分から積極的に令嬢に近づくことのないカイルだが、元令息の私は例外なのだろう。女性として意識されていない――そう思ったら、怯えているのが莫迦らしくなった。
「大声で怒鳴るな、耳が痛い。唾も飛んできた」
手に掛けていた小さな鞄からハンカチを取り出して、頬に付いたカイルの唾を拭った。
昨日、刺繍が完成したばかりの逸品……最初に使う用途が唾を拭う羽目になるとは。手先が器用だからか、初めてにしては上出来だったというのに。哀しい気分だ。
「私は女性だからだ。騎士団には居られないのは、カイルも分かっているはずだ」
「それは分かっているが、解呪すればいいだけの話だ。そうしたら男に戻れるし、騎士団も辞める必要もない」
「解呪の方法があるのかは分からないし、私自身――解呪するつもりはない。だから、退団した」
解呪するつもりはない、その部分は特に強調した。
1週間前に月経が訪れた。初めての体験に右往左往しながらも、医師の診察を受けた。子供を授かる可能性が充分にあると診断され、直ぐに退団を申請した。
手続きが完了した本日、正式に騎士団を辞した。たった今、書類にサインしてきた。
カイルは私が騎士団長の執務室から出てくるのを待ち伏せていたようだった。
大方、騎士団長から直接聞いたのだろう。騎士団長が話していた息子というのが――カイルだった。
数分前に会っていた騎士団長の姿を思い返すと、そっくりな親子だと改めて認識した。
騎士団長のボルドーの髪を深紅に変えてみると、将来のカイルの姿が簡単に想像できた。
「解呪方法を見つける。俺がシュリアンの呪いを解いてやる!」
カイルは息を荒くして意気込むが、私には迷惑でしかなかった。騎士団長のように、もう少し落ち着いて欲しいものだ。
「……シュリアン!?」
カイルの右手を取って、両手で包み込んだ。すると、カイルは狼狽えた。カイルが一歩後退した。腰が引けている。それに構わず、私は一歩前進した。
「私の名前は――シュリアだ。今日付けで改名した。だから、これからはシュリアと呼んでくれないか?」
母直伝のお強請りを実行してみた。強請る相手は選ぶようにしつこく言われていたが、カイルなら問題は起きないだろう。そう考えて、実行した。習ったばかりだったから、興味本位で試したかった――というのが一番の理由だ。
ほんの少しだけ首を傾げた。母の見立てでは、私にはそのくらいが丁度良いそうだ。
身長が縮んでしまったから、ヒールの靴を履いても頭一つ分、差が開いていた。
これなら見上げるだけで、程好い上目遣いになるだろう。
でも、カイルには効果はなかった。効果があっても困るかもしれないが、残念な気持ちにもなった。
「シュリア……って、女みたいな名前ではないか!」
「実際、女だ。女性らしい、素敵な名前だろう」
「……俺は呼ばない」
カイルには拒否されたが、私自身、『シュリア』という名前に満足している。
男性の象徴が消えたということで、同じように最後の一文字を消してみたところ、女性らしい名前になった。
我ながら、名案だと歓喜した。全く違う名前だと違和感があったから、『シュリアン』と名付けてくれた両親に感謝した。
女の子に生まれていたら、『シュリア』と名づけていたと聞いた時には、偶然の一致にそれはもう感激だった。
「俺は諦めない。絶対に解呪方法を見つけるから、騎士団に戻ってこい! いいな!」
カイルはしきりに解呪方法を見つけるとしか言わない。
はっきりと解呪するつもりはない、そう言ったが、聴く耳持たずだった。
遠慮していると思われているのか。どうしたら、信じて貰えるだろう……。
「カイル、私のドレス姿は似合わないか?」
カイルに女性として意識して貰えたら、と思った。短かった髪も少し伸びて、女の子らしくなってきたところだ。
ドレスといっても簡素なワンピース型。動きに合わせて氷が透き通ったような淡いピンクの花びらが舞うようなシフォンを数枚段違いに重ねている、実に女性らしいドレスだ。
私の身体に仕立て合わせた中で一番のお気に入りだ。
身内は似合うとしか言わなかった。自分でも似合うと思っているが、他人の意見を訊きたかった。
カイルは真実しか言わない。率直な意見が聞けると思った。
「兎に角……俺は解呪方法を見つける。だから、待っていてくれ――」
カイルは顔を真っ赤にしながら、左手で私の両手を自分の右手から引き離した。
力は込めていなかったから、意図も簡単に外れてしまった。
「いいな! 待ってろよ!」
手が離れるなり、直ぐにカイルは颯爽と走り去っていった。
カイルの口からは、似合わないとは出てこなかった。似合っていると解釈していいだろう。
顔が真っ赤になったということは、見た目は女性として意識してもらえたのではないだろうか。滅多に見れる顔ではないから自信はないが、そんな気がした。
そのことに満足しながらも――ひとつだけ心配事というか、嫌な予感がした。
カイルは、有言実行な漢だった。探し物を見つけるのが得意だった。もしかしたら、解呪方法を見つけてくるかもしれない。
カイルの後ろ姿が見えなくなるまで『どうか、解呪方法が見つかりませんように』と只管祈った。
◇◇◇
王国騎士団を辞してから1ヶ月が経ったが、今の所は解呪方法が見つかったという知らせは受けていない。
あれからカイルとは会っていないが、未だに解呪方法を探しているのだろうか。気になる。
「……シュリア。ねえ、シュリアったら!」
数少ない女友達、幼馴染のマリアルが私の顔を菫色の瞳が覗き込んでいた。
つり眼気味の目尻が更につり上がっていた。眼力が凄まじかった。
「ちょっと、今のわたしの話、聞いてなかったでしょ?」
「え、あ……うん。聞いてなかった。ごめん」
「そう……まあ、いいわ。許してあげる」
「ありがとう」
素直に謝ると、マリアルは怒りを鎮めてくれた。平常のつり目に戻った。
下手に言い訳をすると、説教される。挙句の果てに口も利いてくれなくなってしまうのは何度も経験済みだ。
「それで、何の話をしていたんだ?」
「明後日の舞踏会――シュリア宛に招待状が届いたって聞いたんだけど……行くの?」
王城で18歳になるルーナリア王女の誕生を祝う舞踏会が開かれる。
私の元にも令嬢として、招待状が届いた。
「勿論、行く。自分の女度がどのくらいか確かめてみたいからね」
女性として参加し意志表明すれば、嫌でも私が女性だと認識できるはずだという目論見もあった。これでカイルも解呪を諦めてくれるだろうと。
「確かめるって……踊れるの?」
「踊れるよ、どちらのパートもね。ダンス講師のお墨付きも貰った」
「何で、踊れるのよ!? おかしくない?」
招待状が届いたのは、1週間前。
祝い事のスケジュールは大体把握している。貴族であれば、どの爵家も何時頃、何が開催されるのかは予想できるので、いつでも対応できるように事前に準備している。
だから、当家でも万全に準備していた。勿論、ダンスに関しても。
令嬢になってから、まだ3ヶ月。女性パートを完璧に踊れることにマリアルが疑問に思うのも無理はない。
「騎士団の同僚の付き合いで、女性パートを踊っていたからね。自然と覚えた」
「成程ね――」
マリアルは納得しつつ、憐れみを宿した瞳で私を見ていた。
王国騎士団に入団した当初、女の子に間違われたことが多々あった。母に似た女顔の上に、身長も低かった。月日が経つと成長と共に身長も伸びたが、平均より低かった。
声も男性よりも低めの女性の声色に近かった。
人一倍鍛練したが筋肉の付きは乏しく、男装令嬢のようだと揶揄われた。
男同士ダンスを踊っても見苦しくない、そんな所以もあり、ダンスの下手な団員に懇願されて女性パートも踊るようになった。
ダンスを引き受ける代わりに鍛練に付き合ってもらえたし、おかげで令嬢に転身した今、踊れるのだから大いに役立った。
ドレスやヒールに慣れるまで苦労したが、騎士団の鍛練に比べれば大したことはなかった。
元々、身体を動かすのは好きだったから、ダンスの授業は楽しかった。
「ところで、ドレスは何色にするの?」
「青味がかった薄紫にした。マリアルは?」
「オレンジと檸檬色、どちらか迷ってる。どっちがいいいと思う?」
マリアルは眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた。真剣に悩んでいる様子だ。
どちらも似合うから、選択に困っているようだ。
「私個人としては、オレンジをお勧めする」
「どうして?」
「今年は檸檬の収穫が豊富だからか、流行色の一端にもなっているが、ルーナリア王女の最近のお気に入りがレモンティーなんだよね」
「――ということは、檸檬色のドレスが濃厚ということね。それなら、オレンジに決めるわ。情報、ありがとね!」
マリアルの眉間の皺は綺麗に消えた。憂いも晴れ、すっきりとした表情に変わった。
ご機嫌麗しく何よりだ。
「いえいえ、どういたしまして」
「シュリアにしては、珍しく情報通だね」
「この前、ルーナリア王女のお茶会に招かれて。その時に教えてもらった」
「えー、ずるい! どうして、シュリアが招かれるのよ!」
「王女の護身術の師になったから」
女性でも簡単に身を守れる術として私の護身術が評判となり、王城まで行き渡った。
噂を耳にしたルーナリア王女が護身術を習いたいと請われ、半月前から週に2回、王城に参上している。
一般で用いられている馬車だと2日かかるが、聖獣のおかげで、片道2時間もあれば行き帰りできた。
ルーナリア王女とは、聖騎士の時に護衛をしていたから面識があった。
男性恐怖症気味だったこともあり、女顔だった私は重宝され、護衛回数も多かった。
「護身術ね……確かにあれは女性にとってはこの上ない強い味方よね。力がなくても倒すことができるし。わたしもおかげさまで事無きを得たわ」
マリアルはしみじみと語った。
どうやら、1ヶ月程前に痴漢に遭ったらしい。痴漢といっても貴族のお坊ちゃんだ。侯爵家の三男坊だったという。
マリアルは私と同じ伯爵家で一人娘だから、アマレロ家を継ぐ婿を娶る予定だ。
そのため、貴族の長男以外の坊ちゃん達からの求婚が絶えず、中には既成事実を狙う輩も居た。
近々、結婚適齢期となる18歳を迎えるからか、令息達も過激な行動に移ったらしい。
「この前、究極の奥義を実行したの。かなり危なかったけど、教えてもらってほんと良かった」
マリアルは扇を開いて、顔の下半分を覆い隠した。露わになっている目元はほんのり紅く色付いていた。
恥じらうマリアルが可愛いと思いつつ――下半身に手が伸びそうになった。握り拳を作ってぐっと耐えた。
男性だった頃、誤ってテーブルの角にぶつけた時のことを思い出した。
あの時は、目玉から火花が飛び散るんじゃないかと思うくらいの激痛が走った。
「でも、本当に良かったのかしら? 後遺症とか残ったら……」
「多分、大丈夫だと思う。不能になったとしても自業自得だ。変態なら尚更、後遺症が残った方が世の女性のためにもなる」
マリアルに教授した『究極の奥義』とは、簡単にいえば――男性の股間を蹴り上げることだ。
淑女が気軽に実行するものではないが、マリアルは大層な危機感を抱いたということだけは感じ取った。扇を持つ手が僅かに震えていた。
私も同じような経験があるだけに、その気持ちは分かる。
「シュリアって、令息の時だった頃から男性に厳しかったよね。女性の味方で助かるけど」
私は無言のまま苦笑した。
マリアルだけでなく家族にも告白していないが、騎士団内で同僚に襲われたことがあった。
元々女性に間違われることが多かった私は、酒に酔った前後不覚の状態だった同僚に女性と勘違いされ、押し倒されたことがある。それも一度だけではない。
初めて襲われた時は成す術がなく、恐慌状態になった。
もう駄目だと諦めそうになった時、運良く助けられた。その事件は内密に処理され、表沙汰にはなっていない。隠蔽するよう頼んだ。
『男』だった自分が男に襲われるというのが、とにかく許せなかった。情けなかった。
まるで――女だとでも言われているような気がして、心が苦しかった。心の奥底に閉じ込めた、『女性になりたかった』という想いが溢れてきそうで。
だから、家族には言えなかった。どうしても言うことができなかった。
それから護身術に精を入れ、自分よりも強い相手でも倒すことのできる技術を会得した。体術が得意だったのが功を成した。
相手を完全に沈める手段として、何度か『究極の奥義』を実行したこともあった。
無理矢理襲いたいという輩の気持ちが理解できないからか、そういった痴漢に察知する能力が乏しかった。
女性に転身してからは更に非力になったと自覚していたから、身を守るためにも帰郷することに同意した。
振り返ると、男性だった頃は女性に好意はあっても、恋情を抱いたことがなかった。男性に恋情を抱いたこともなかったが。
私はこれから男性に恋情を抱くようになるのだろうか?
ゆっくり考えればいいか。まだ暫くは令嬢として学ぶことは沢山ある。直ぐに答えを出さなくてもいいだろう。父も「急いで嫁ぐこともない」と言っていたのだから。
「髪――伸びたね」
「ようやく、結えるくらいになった」
騎士時代、少しでも男性に見えるようにと短く切り揃えていた髪も肩につくまで伸びた。
長さは揃えず、段を上手く利用しながらカットしている。
今日は毛先を緩く巻いて、ドレスに合わせて全体が曲線を描くような柔らかさをイメージしてみた。
「女の子らしくなったね」
マリアルはにっこりと微笑んだ。
「ありがと」
素直に嬉しかった。堪らず笑みが零れた。
言葉遣いだけは、男性だった頃と変わっていない。
女の子らしく話そうとしたが、虫唾が走った。胸がモヤモヤして、頭痛も伴うようになった。
見兼ねた母が、「好きなように話して大丈夫よ」と言ってくれたので、『シュリアン』と同じ話し方に落ち着いた。
気が楽になったし、頭痛も消えた。今まで通りの方が自分らしくていいかと開き直った。
初めの頃は、屋敷の中で私が女性だと受け入れてくれた人達はそう多くなかった。でも、今は大半が受け入れてくれている。
誰よりも喜び、一番に受け入れてくれたのが、母だった。
女の子が欲しかった母の着せ替え人形と化していたとしても、大人しく受け入れた。様々な種類のドレスを着るのも楽しかったから。
変わらない言葉遣いに難色を示されることもあったが、マリアルはいつでも『シュリアン』でも『シュリア』でも同じように接してくれていた。
他の令嬢達から遠巻きにされたとしても、いつも傍で見守ってくれていた。
王国騎士団に入団する前、マリアルから「シュリアンの方がこのドレス似合うから、着てみなさい」と強請られた時は本気で殺意を抱いたこともあったが、心強い女友達だ。
「マリアルも似合ってる。それって、流行りの髪結い?」
「そう。今度の舞踏会はこの髪結いでいこうと思ってて……今、ドレス持ってくるから、相性が合うかどうか意見聞かせてもらいたいんだけど、いい?」
「いいよ」
「じゃ、持ってくるね」
マリアルは早速クローゼットに向かった。
亜麻色の髪に飾るマーガレットの花飾りの中央に嵌めてある琥珀が太陽の光に照らされ、煌いた。