7.看護
――魔獣討伐事件の翌々日。
「もう起きて、大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫だ。この程度なら、問題ない」
病室を訪れると、カイルが上半身を起こしていた。背を凭れることなく、自力で座っていた。でも、丁度良い。
「薬塗るから、上着脱いだら、こっちに背中を向けて」
「……済まない」
「謝るのは私の方だ」
カイルは何も答えず、上着を脱いで背中を私の方に向けた。
カイルの背中には、右から左下がりに3本の傷が横並びしていた。魔獣の爪痕だ。
傷は生々しいが、命に関わるような深手でもなかった。
顔色が青白かったのは血を失った所為もあるが、疲労困憊で意識を保たせるのが辛い状態だったらしい。
最後は意識を失ったというより、眠ってしまっただけだった。
倒れたカイルを早く休ませ治療するために、ゴルド平原から一番近い屋敷――ブラウ伯爵家にカイルを運んだ。
当家の客室をカイル専用の病室に誂え、私はカイルが目を覚ます今朝までずっと傍で看病していた。
丸一日カイルは眠り続けたものだから、一時はカイルが命を落としてしまうのではないかと相当心配したのに、何と人騒がせなのか。
早朝、目を覚ましたカイルが私を見るなり、勢いよく飛び退いた。元気な証拠が確認でき嬉しい反面、逃げられたという事実にショックを受けた。
重傷には変わりないし、私を守るために負った傷だから、感謝の気持ちが強い。
だから、カイルの看病を一挙に請け負うことにした。
傷の具合が良くなるまで、朝と夕方に1回ずつ、傷の手当をしている。
「ゆっくり剥がすから、痛かったら言って」
寝具が濡れないように用意していた防吸水シートを敷いた後、背中全体に貼っている透明被覆材をそっと剥がした。
我慢強いのか、カイルは呻き声ひとつ洩らさなかった。
「洗い流すよ」
ピッチャーの中に入っている微温湯を背中全体に満遍なくかけ、傷に塗っていた軟膏を綺麗に洗い流す。
微温湯をかけながら、手でそっと撫でながら軟膏を落とした。
「――っ!?」
傷口に触れるとカイルの口から、言葉にならない声が漏れ出た。
「染みたな……ごめん」
「いや、大したことない」
「後もう少しだから……」
軟膏を全て洗い流したところで、清潔な乾いた布をそっと押し当てて水滴を吸い取った。
水が入った桶の中に両手を入れ、よく手を洗った。何度か水を入れ替え、両手を綺麗に洗った。
「軟膏塗る」
軟膏ベラもあったが、傷口に直接当たると傷が痛いから、傷の痛みが少なくなるように手で直接塗った。
カイルの身体がビクッとなり、少し強張った。
「痛い?」
「いや……大丈夫だから、思いっきり塗ってくれ! というか、何でそこのヘラを使わない!?」
良かれと思って手で塗ったのに、カイルに苛立ったような口調で怒られてしまった。
「私の塗り方は下手なのか?」
「違う……上手だから……」
「上手だから、何だ?」
「シュリアに触れられると……その……」
カイルの身体が見る見るうちに紅く染まっていった。
「嫌なのか?」
顔が見えないから、身体の赤味が、照れているのか怒っているのかが分からない。
「シュリアの手が気持ち良すぎて、おかしくなりそうなんだよ!」
カイルは身体を縮こませて、唸るように言った。
「なら、おかしくなればいい」
「なっ――!? 襲ったらどうする!?」
「襲えるものなら、襲ってみたらいい」
「……」
カイルはもう何も言わなくなった。項垂れてじっとしていた。何もかも、諦めたようだった。
「よし、終わった。完了だ」
軟膏を塗り終わった後、手の軟膏を洗い流し、新しい透明被覆材を貼った。
「ありがとうございます」
カイルの棒読み敬語。感謝の気持ちが全く伝わってこない。
「御礼は人の目をきちんと見て伝えるのが、礼儀だ!」
悪戯っ子を叱るような口調で言った。
「ありがとうございます」
先程よりは、感情は籠っているが。
「首だけ回さないで、身体全体で私の方に向きなさい」
「……すみません」
カイルは叱られてしゅんとした子供のような顔で体全部を反転させて、私と向き合った。多少、目は泳いでいたが、きちんと目を合わせてくれた。
「ありがとう……ございます……」
頬を紅く染めながら言葉を紡ぐとすぐに俯いてしまった。恥じらう姿はまるで乙女のよう。でも身体つきは正しく男性。
暫くぶりにカイルの生胸板を見たが、やはり理想の筋肉だ。見惚れる。
「どうした?」
カイルの筋肉をまじまじと見つめていると、サイドテーブルに置いてある蒸しタオルに手をこっそりと伸ばしていた。
「身体、拭きたいのか?」
カイルがチラチラと私を見ながら、素直に肯いた。
「なら、私が拭いてやる!」
カイルの手が届くよりも先に蒸しタオルを手に取った。
「自分で拭ける。いいから、貸せ!」
カイルも負けじと私からタオルを奪いに来る。
タオルを持った手を天井に伸ばしカイルの手が届かないように立ち上がったら、水が零れていたようで、足を滑らせた。
「――ぐっ!?」
状態が倒れ込み、私の胸がカイルの顔にものの見事に着地した。
カイルは仏像と化したように固まった。呼吸も止まっている――というか、私の胸に圧迫されて呼吸できないのだが。
耳まで真っ赤にしているから生きているのは間違いないが、このままではカイルが窒息してしまう。
カイルの顔に全体重を乗せてバランスを取っている状態だったから、カイルも動くに動けないのかもしれない。
カイルが呼吸困難で命を散らせないように体勢を立て直し、カイルの顔からゆっくりと離れた。
「カイル、ごめん……大丈夫?」
暫く経ってもカイルの呼吸は再開せず心配になった私はカイルの身体を揺すった。
「……うわっ!? ご、ご、ご、ご、ご、ごめん!」
正気に戻ったカイルは謝りながら、物凄い速さで一気に後退った。
壁がなければ、カイルは寝台から落ちていただろう。壁があって幸なのか、不幸なのか、背中に壁を思いっきりぶつけて悶えていた。
カイルの背中の傷が心配になった。
「カイル、背中の傷見せて」
「大丈夫だから、本当に大丈夫だから、いいから来ないでくれ!」
カイルの傷の具合を確かめようと寝台に上がり傍に行こうとしたら、近づく私から少しでも離れようとしているのか、カイルは益々壁に背中を押し付けていた。
「どうして、拒絶する?」
「シュリアこそ、今の状況が分かっているのか!?」
「今の状況?」
「年頃の男女が寝台の上に居る、この状況だ!」
カイルは困惑した表情を見せながらも、怒っているような口調だった。気も立っているのか、苛々しているのが伝わってきた。
「シュリアも男の事情くらい分かるだろ?」
カイルはそう言って俯いた。身体が震えていた。カイルには珍しく、静かな声だった。気の高ぶりを鎮めているのかもしれない。
悪戯が過ぎた。重傷の人間が襲えるはずがないと思っていたわけではないが、心のどこかで、カイルなら大丈夫だと安心していた。カイルは痴漢や強姦魔には容赦ないから、無理矢理襲うことはないと。いつも守ってくれたから、信じていた。
「悪かった。もうこれ以上近づかないから、背中の傷が拡がっていないか、見せてもらえないか?」
カイルは俯いたまま無言で、私の方に背中を向けた。
目視した限りでは、傷は悪化していないように見えた。触れて確認したかったが、これ以上カイルを困らせるわけにはいかないと、ぐっと堪えた。
その代わりに一旦元の位置に戻り、冷えてしまったタオルを新しい蒸しタオルと交換して、カイルに渡すことにした。
「カイル、蒸しタオル渡したいから、受け取って」
カイルが少しだけ身体を捻り振り返ったのを確認して、カイルの手に届くように蒸しタオルを放った。
蒸しタオルを無事に受け取ったカイルは、「ありがとう」と言ってすぐにまた背を向けてしまった。
丁寧に身体を拭いている。繊細な動きに合わせて、筋肉の一つ一つがなだらかに動く。
均等に筋肉がついた逞しく美しい背中だったというのに、傷が全て台無しにしてしまっている。
「傷痕、残るらしい……」
「そうだろうな」
カイルはさも当然のように答えた。口調からも全く気にしていないように聴こえた。
「勿体ない」
「何だが?」
「美しい背中のなのに……私の所為なんだよな。済まなかった……」
傷だらけの背中を真っ直ぐに見つめた。私を守ってくれた背中だから、目を背けることはしたくなかった。きちんと目に焼き付けておきたかった。
「謝るな。これは俺の勲章だ。俺がシュリアを守ったという勲章だ。それに……傷の一つや二つ、一々気にしていたら、騎士にはなれない」
「そうだな」
身体を拭き終えると、カイルが私の方に振り向いた。傷ついた背中が見えなくなった。代わりにカイルの胸板が現れたが、あっという間に隠れてしまった。寝台の上に用意してあった新しい上着を素早い動きで掴み取り、着用してしまった。
もう少しゆっくり眺めていたかったのに。残念だ。
シュリアンの時は、堂々と見せていたくせに。シュリアには素早く隠してしまう。
でも、私もカイルを責めるのはおかしいか。シュリアの身体をカイルに見せるわけにはいかないのだから。
男と女の違いが、もどかしい。でもそれは、同性であっても、もどかしいのは同じだろう。誰一人、同じ人間はいない。考え方が違うのだから、当たり前だ。カイルとの間に壁を感じるのは、男女の違いだけが原因ではない。
今もシュリアンは心の中に在るが、シュリアンがカイルに抱いたのは、友情だ。その友情も、シュリアになってから変わってしまっていた。恋という名の恋情に。
カイルにシュリアと呼ばれるようになってから、私の中に在るシュリアは心の中で喜んでいた。ようやく呼んでくれたと。
でも面白い事に、シュリアンは他にもっといい男がいるのに……と密かに呟いていた。騎士としては尊敬しているが、シュリアンが求める紳士像ではないからと。
シュリアンはシュリアが求める紳士像だったはずなのに、恋情を抱いたのはカイルなのだから。不思議だ。
理想と現実の恋は違った。理屈ではないのだろう。人を好きになるのは。恋をするのは。
任務でも、カイル以外の男と魂の契約呪を結ぶのは拒否していただろう。一時的措置だと理解しても、無意識にで跳ね除けていたのではないだろうか。きっとカイルだから、受け入れた。でももう、この呪いも必要ないだろう。
カイルにプレゼントされた真珠の髪飾りを外した。
「カイル、解呪するよ」
「分かった」
掌の上に乗せた真珠の髪飾りをカイルに見せると、すぐに肯いた。真珠に意識を集中して、二人同時に解呪を行った。
解呪が完了すると、私とカイルの共通した一番の宝物を呪いの代償にした真珠の髪飾りは消えた。