白児くんとメガネ
犬神お姉さん師匠と弟子の白児少年の話。
鳥山石燕「画図百鬼夜行」で一緒に描かれている二人(?)です。
おれの師匠の響さんは目が見えない。
光も感じないから全盲だそうだ。
師匠は犬神という妖怪なんだけど、師匠に限らず、犬神という妖怪自体失明する事が多いらしいんだけど……うん……しょうじき難しい事はよくわかんない。
とにかく、ただひとつ確実に言えるのは、響さんはおれの師匠でおれは師匠の弟子だということ。
だからおれは、いつもお世話になってる師匠の為に、『メガネ』を買うことにしたんだ。
◆
セミがけたたましく鳴いている。
やかましいと嫌う人も多いが、おれは好きだ。セミがいなきゃ日本の夏は始まらないと思う。
土の匂いと夏の空気を感じながら、おれは畳の部屋でいい子に机に向かって筆をとる。
――説明しよう、メガネとは!
カンタンに言えば、最近センキョーシ(宣教師)とかいう奴らが持ってきた魔術の結晶みたいな道具だ。なにしろ、目が悪くなった人の視力が元に戻るんだから!
宣教師はそれをダイミョー(大名)にみついだりしてて、ダイミョーたちはその事をかなり良く思ってるみたいだから、それで効果は保証されている。
色んな村に行って色んな人にメガネについて聞いてみたけど、答えは「知らない」か「失った視力を取り戻すスゴイ道具だ」の二択だった。
すごくない? みんなが口を揃えて素晴らしいものだって言うんだよ。
師匠の目だって、きっと見えるようになる。
そしたら師匠はなんて言うだろ?
『これ、わざわざ私の為に? すごいじゃん夕紀、さすが私の弟子だね!』
……とか?
「……ふへへ」
うーん、喜ぶ師匠の顔が目に浮かぶ。因みに、夕紀というのはおれの名前だ。ないと困るでしょって師匠がつけてくれた。
頬が勝手に緩むのを感じながら、紙に絵を描く。
え、何描いてるかって……言うまでもない、メガネをした師匠だ!
――と。
「ただいまー! ……、あれ? 夕紀ー?」
響師匠がおれを呼ぶ声が聞こえた。あれ、帰ってくるの早くね?
いつもは玄関で待機してるんだけど、こうやって急に帰ってくる日は困る。おれは慌てて紙を片付けた。この計画は極秘事項。サプライズのほうがきっと師匠は喜ぶはずだ。
縁側から外に出ると、門に寄りかかって「あっつー」と手で自分を仰いでいる師匠に走り寄る。
「いますよ、師匠! おれはここです!」
「あ、なんだ。いるなら返事しなさいよねー」
腕に抱きつくと、軽く頭をこづかれた。
三つ編みにして肩に垂らしている師匠の茶髪が揺れる。おろすとなんだかもふもふしていて、ちょっと犬っぽい。師匠の髪をとかしてあげるのはおれの仕事だ。
師匠はおれの頭を撫でると、クスクス笑いながらこう言った。
「……夕紀、なんか今日機嫌いいでしょ?」
「えっ……な、なななにがです?」
「あれ、教えてくれないの? 何ー、私に隠し事? ねぇねぇちょっと、なに隠してんの夕紀ー」
「お、おおおれは隠し事なんてしてませーん」
「わー反抗期!」
師匠は笑いながら門を離れ、玄関へと向かう。
急いで師匠に並ぶと、手を引いて彼女を導いた。
……んー。
師匠の目が見えるようになったら、こうして並ばなくったってこの人は一人で歩けるようになるんだろうな。
それは少し寂しいけど……師匠が喜ぶなら、おれはそんなの我慢するよ。
◆
さてと、そう言えばちゃんと自己紹介してなかった。
おれの名前は夕紀、妖怪としての名前は白児。
髪が白くて服は白張姿の子供だから、そのまま白い児童で白児だそうだ。まったくもって安直な名前だ。
それでも師匠がくれた名前だから、気に入っている。
おれの親(もう顔も覚えてないけど)は赤ん坊の頃から髪が白くて眼が紅いおれを、ずっと疎んで名前なんか付けてくれなかった。
真冬に山に捨てられて、死んだのかどうかは覚えてない、でも気づいたら師匠に拾われていた。おれは人じゃなくなってたんだ。いつからかは分からないけど。
師匠はおれの事を最初、白子と呼んだ。何やら白髪で紅眼の人間を言う……? あれ、違ったっけ? とりあえず、おれがそんな姿をしているのは呪いでも祟りでもなんでもないんだよ、きみは悪くないんだよって初めておれに優しくしてくれたのが響さん。
おれの大事な師匠。
師匠はおれの恩人なのだ。だからなんとかして恩返しがしたい。
その為にはまずメガネ、メガネが欲しいっ!
おれはどうしても師匠に目が見えるようになって欲しいんだ。師匠のおかげできれいなんだと思えたこの世界を。
色んな人に聞いたり頼んだり情報を集めて貰ってたりして、センキョーシのうちの一人と話をつけてもらった。
今から会いに行くんだけど、白髪に紅眼はきっと気持ち悪がられるから、髪も目も術で黒くして、隠して。
ああー緊張するなあー。
「こんにちは」
小さくきしむ教会の扉を開くと、案外そこは明るくて綺麗な場所だった。
なんとなくもっと怖い所かと思っていたけど、変な異国の服のセンキョーシも似たような服の女の人も優しい笑顔で迎えてくれた。
なんだか、肩に入っていた力がふにゃふにゃ抜けていく。
「キミがユウキくんですか?」
多少カタコトだったけど文法的には完ぺきな日本語で、センショーシはおれに言った。
わざわざしゃがんでおれに目線を合わせてくれるセンキョーシ。この人、いい人だ。師匠には劣るけどな!
「そうです。師匠のメガネを買いにきました」
センキョーシを見上げてそう伝えると、彼はちょっと困った顔をした。
なんでだろう。心配になって「あの、お金なら持ってきました。足りないですか」と聞くと、センキョーシはそうじゃないと首を振る。
「眼鏡が欲しいのはてっきりユウキくんだと思っていたのです。その人がいないと眼鏡は作れません」
「えっ! そ、そうなの?」
「ええ。どれくらい目が悪いのか、ちゃんとはからないと分かりませんから」
眉を下げて、青い目でおれを見て優しく言う。
おれはすごくほっとした。なあんだ、それなら大丈夫だ。
師匠は何も見えない。光も分かんない全盲、目が無いのと同じくらいの視力。それくらい、おれはちゃんと聞いてきたんだぞ!
自信を持って、ちゃんとそれは分かってるとセンキョーシに伝えた。
「あの。師匠は目が見えないんです。悪いんじゃなくて、全く、なにも、見えないんです。風景も、家の中も、星も、太陽も……おれの顔も。あの……センキョーシさん、師匠の目が見えるようになるメガネをつくってくださいっ」
言いおわると同時に、いつの間にか上がっていた肩からふっと力が抜ける。センキョーシの鼻が高くて白い不思議な顔を見ていると、なんだか緊張する。だけど頑張った。
ああ、いつかこんな日がくればいいなって思ってたんだ!
師匠はなんて言うかな。
なんて言って喜んでくれるかな。
「きれいだね」って言う? 「すごいなあ」って言う?
もしかしたら泣いちゃうかもしれないね。
楽しみだなあ。早く師匠を喜ばせたいなあ。
ねぇねぇ、早く「わかりましたいいですよ」って言ってよ。
きっとおれの目は期待できらきらしていたと思う。
センキョーシは他のセンキョーシたちと目を合わせ、何か話していた。おれには分からない言葉だったけれど。
なんの話してるか知らないけど、わくわくする。でもドキドキもしていた。
ああ、早く師匠の喜ぶ顔が見たい。
立ちあがって仲間と色々話していたセンキョーシは、またおれのまえにしゃがみこむ。
いろんなすてきな未来を想像してるおれに、ゆっくり、こう言った。
「できません」
…………ん?
……あれ、おかしいな。
なんか、待ってたのと違う言葉を言われた気がする。
よく分からなくてにっこり笑ったまま首をかしげると、センキョーシはおれのまっすぐおれの目を見てはっきりと言った。
「あなたの先生の目が見えるようにすることは、できません。不可能なのです。眼鏡は悪くなった視力を補うものであって、失った視力を取り戻すものではないのです」
…………。
…………?
意味が分からない。
なにが違うの?
師匠の目が戻らないって……なんで?
「だ、だって、メガネは目を良くするものだって、見えなかったものがちゃんとくっきり見えるようになるんだって、い、言って……」
出した声はすごく震えている。自分の声じゃないみたいだなんて思いながら、服の裾をつかむ指に力を入れた。
なんで? 話が違う、みんなが言ってたことと違うじゃないか。
センキョーシは金色の髪を揺らして、もう一度、首を振った。
「噂には尾ひれがつくものなのです。眼鏡は万能薬ではありません。全盲は治りません」
「……」
なにも言えなかった。
冷たいものが身体の中を落ちていくような、そんな気持ち悪い不快感。
あれ、なんだろうこれ。
おれ勘違いしちゃってたんだ。
勝手に勘違いして、勝手に師匠が喜ぶところを夢見て、勝手に喜んでたんだ。
なんだろう。
おれって、ばか?
思い描いていたものが静かに崩れ去るのと同時に、ほっぺたを涙が一筋伝うのが分かった。
ばかだなあ。
おれ、ばかだなあ。
師匠に喜んで欲しかったのに、なにも知らなくて、こんなとこまで来たのに、おれ、ああもうばかだなあ。
まばたきをするたびにぼろぼろ涙がこぼれて、だけどおれの表情は変わらなかった。変えられなかった。
呆然としたままただ涙を流すおれは、きっととても滑稽だと思う。
ぼんやりそんなことを考えていたら、突然おれのすぐ近くで女の人の悲鳴がして、ゆっくりと顔を上げた。
見ると、センキョーシの女版みたいな格好の女の人たちがものすごいおびえた表情でおれを見ている。
他のセンキョーシもさっきより遠くにいる気がする。みんな顔がひきつってる。
おれの目の前でしゃがんでいたセンキョーシが、震える声で叫んだ。
「あ……赤い眼っ……!」
言うなり尻もちをついてずるずると後ろに下がる。動きがぎこちない。虫みたい。
だんだん、みんながよく分からない言葉を叫び始めた。
……あかいめ? アカイメ?
あかいめって――――
「……ああ」
やっぱりぼんやりとした声のまま、おれは小さく呟いた。
おびえた顔も金切り声も、妙な納得があった。
――――おれのことか。
「化け物……化け物、化け物ッ!!」
誰かが叫んだ。
それにつられるように、先導されるように、みんなが同じ言葉を口々に叫ぶ。浴びせられる罵詈雑言。
不意に固いものが飛んできて、頭の後ろに当たった。
お腹にも足にも顔にも当たった。いっぱい飛んできた。
……どうやら泣いてるうちに術が解けてしまったらしい。
白髪に赤眼のおれは、海を渡った遠くの異国の人たちから見ても、やっぱり化け物みたいだ。
別に辛くはない。おれだって青い目に金色の髪のセンキョーシたちが少しだけ怖かった。それに、前におれの故郷で同じ目に遭ってる。
それよりも、師匠、ごめんね。
おれは駄目な弟子です。
おでこに当たった何かに皮膚を破られ、血が出る。触るとぬるりとした感触が手のひらに広がって、気持ち悪かった。
辛くないとは言ったけど、情けなくてしゃがみこむ。膝を抱えていたら腕と頭と背中にしか痛いものはぶつかってこなくなった。ちょっと楽かもね。
ぎゅっと目をつむってそれが過ぎ去るのを待っていた時、合唱したように、ひときわ大きな悲鳴が聞こえた。
顔をあげようか少し迷って、迷っているうちに、変な声が聞こえた。
いや、声という表現では正しくない。唸り。
低い低い、大きな獣を思わせるような唸り声だ。
顔を上げると、そこに広がっていたのは闇だった。
おれがここに来たのは夕方のはずだ。教会の綺麗なステンドグラスがきらきらしていて、師匠に見せたいなあと思ったのを覚えている。
光をさえぎるものなんて、なにもなかったはずなのに。
墨で塗りつぶしたような空間の中で何かがわずかに光った。
発光しているのではなくて、光を受けて反射したような、そんな光り方。
闇に何かがぼんやりと浮かび上がる。大きな獣の足のようなもの、いや、きっとそうだ。
毛並みが動いて、大きな獣は歩を進めていく。
いろんな方向からおびえたセンキョーシの声が聞こえる。アビキョウカン、なんて言葉はこんな時に使うのかもしれない。
そして、鈍い、何かが床に落ちる音が教会の空気を震わせた。
低いその音がした場所をみんなが一斉に探す。
暗くてよく見えないけど、やっぱり動物の毛並みらしきものが見える。でも足じゃない。
なんだろうって、きっと誰もがそう思ったんだと思う。
でもおれには分かっていた。あれがなんだか、あの音がなんだったか。
だから、暗闇に突然ぎょろりと見開かれた大きな目玉が現れても、目玉がついているなにかがニタリと不気味に笑っても、それが……
……それが、大きな犬の生首だと分かっても、他の人みたいに失神したり叫びながら逃げだしたりしなかった。
おれにだけは分かったから。
――あれは犬神の首が落ちた音。
はるか昔に人間にむごたらしく首を落とされて死んだ犬が、今度は自分からその頭を離した音。
響師匠が、怒ったときの音だ。
◆
「夕紀、夕紀! どこっ?!」
すっごく静かになった教会の中。
床に座り込んだままあたりを見回す犬神の響師匠に、気絶しているセンキョーシたちの間を縫っておれは近付いて、それから手を握った。
師匠のばか。見回したって、なにも見えないくせに。
「ここです」
そうおれが言うと、師匠は茶色い見えない目でおれを見て、ぱっと顔をほころばせた。
次の瞬間にはおれを抱きしめてくれていた。
「もおおおお心配したんだからあー!」
強く強くおれを抱きしめる。頬ずりされるのはちょっと恥ずかしかった。
師匠は言う。
「なんで勝手にどっか行っちゃうの? 夕紀がいないのにここまでくるの本当に大変だったんだからね! 色んな人にわがまま言って迷惑かけて、もう、何度転んだことか……ほら見てよ、もうぐちゃぐちゃだよ」
そう言いながらも師匠の手はずっとおれの背中や頭をさすっていた。師匠自身の傷じゃなくて、おれの傷を。
それを理解していくのと同時進行で、いったん止まった涙がまた出てきそうになった。
優しくしてもらって辛く感じたのは、今までに何度かある。そのすべてが師匠のせいだった。
「師匠、あのね……。メガネをね、買おうと思ってたんだ」
言い訳をしようとしていたら、こらえきれずにまた涙が頬を伝った。
本当は、おれが師匠を泣かせたかったのにな。
少し呼吸がおかしくなってきたけど、一生懸命話した。
「でもね。駄目だった。全盲は治らないって言われた。メガネじゃ治んないって、見えるようには、ならないって……だから……駄目だった……」
おれは続ける。
「おれね。師匠に目が見えるようになってほしかったんだ。そしたら師匠、喜ぶと思ってね。だって、真っ暗なんでしょ? 昼も夜もずっと、ぜんぶ一緒なんでしょ? ほんとは色んなもの見たいはずなのに、見えないのは、つらいだろうなあって思って……それで……」
そこで先が繋がらなくなった。
声をあげて泣きたいのを我慢するのでせいいっぱいになった。
「そ、そのためにこんな遠い教会まで一人で来たの? 私のために? ……もう! 夕紀のばか!」
半分悲鳴みたいな声でそう言った師匠は、ぎゅっとひときわ強くおれを抱きしめる。
師匠の冷たいほっぺたが熱くなったおれのおでこに当たる。
涙まじりの声で、師匠は優しく叫んだ。
「そんなもの無くたって夕紀が泣いてるのぐらい分かるんだからね! 頑張ってくれてありがとう、この、ばか弟子っ!」
◆
結局、師匠の目が見えるようになることはなかった。
それでも師匠に「何が見える?」と聞かれるのは嫌いじゃなくて、むしろ少し嬉しいくらいで、それに、明治時代になった今でも師匠の手を引いて歩けるのもずっとおれの特権のままだ。
この日は、江戸じゃなくて東京になったその街の、大きな百貨店に二人で来ていた。
「師匠ついたよ! なんかね、すごいでかくて硝子でー、れんがでー」
「おーありがとー! ふふ、ずっと来たかったんだー」
ひとつに結った三つ編みの茶色い髪と着物の裾を揺らしながら、るんるんと足取り軽く進む師匠。
そのへんに触るだけで壊れそうなキラキラした細工とか小物入れとかぶあつい西洋の本とかがたくさんあることを慌てて伝えると、「えっ!?」と呟いておれにしがみついた。
「ホント!? 怖っ! ぜ、絶対ぶつからないようにしてね!」
「どれもすごい綺麗ですけどね、高そうで見てるだけで怖いなあ……ねえ師匠、何買いに来たの?」
そう聞くと、師匠は見えない目でこっちを見ていたずらをするみたいに笑った。
一回だけおれの頭を撫でて、しゃがんで、それからおれの肩に両手を置く。
「何百年も前からずーっと欲しかったものがあるんだよね。夕紀に買ってきてほしいんだけど、いいかな?」