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泣き虫閑古鳥・後


「僕、一人?」

「んーん、もう一人来るよー。ツクヨさんっていうんだけどね。遅いのー」


 相も変わらず客のいないがらんどうの茶屋の正面、川縁に座る少年が一人。

 声をかけたのは茶屋の女性だった。


「川に落ちたら危ないわよ。こっちで待っていたらいいわ」

「だめだよ、ボクお金ないもん」

「いいのよ。他の人には秘密ね」


 そう言って皿に乗ったみたらし団子を差し出す女性。

 黒い髪の少年は慌てて首を振った。ただでさえ儲かってないんだからタダであげちゃだめだよ、なんて事はとても言えなかったが。

 そんな少年に女性は優しく微笑む。


「子供が遠慮なんかしちゃだめよ」


 ボク多分お姉さんよりずっとずっと長生きなんだけど、なんて事も言えなかった。


 ――どうしよう。


 『長生き』とは言え彼の脳には見た目に相応な分のしわしか刻まれていない。

 しばらくの葛藤の後、少年の脳裏にぴこんと名案が浮かんだ。嬉しそうに頬を染めて女性に駆け寄り彼女を見上げる。


「ツクヨさんが来たら払ってもらうね!」


 そう言ってからの少年は実に素直だった。「ちょーだい」と言わんばかりに両手を差し出し、鼻孔をくすぐる甘い香りに瞳を輝かせる。そんな無垢な反応に女性の口元も緩んだ。



 ◆


「ツクヨさん遅ーい。ほんとに遅ーい」


 縁台に腰掛け地につかない両の足をぶらつかせ、少年は食べ終わった団子の串をもてあそんでいた。

 そんな少年の横に立ち、女性は優しい微笑で話しかける。


「その『ツクヨさん』ってあなたのお兄さん?」

「違うよぉ。兄弟は妹だけなんだ、今はお友達と遊びに行ってるけど。ツクヨさんは別のお友達」


 ボクよりずーっと年上で背も高いんだよ! と楽しそうに語る。


「ツクヨさんね、すごい人なんだよ。すごいんだけど影が薄いの」

「あらまあ」

「ツクヨさんのお姉さんと弟さんはすっごく印象に残るんだけどねぇ」

「うふふ。そんな事言えるなんて、仲良しなのね」

「うん!」


 強い日差しは雲を通り角がとれて幾らか優しくなる。

 他愛もない雑談は十分に楽しく、随分と長い間暇をつぶしてくれた。

 不意に話題がつき、一瞬、世界がしんと息をのむ。


「……あのさ」


 降りかかった静寂を破るは少年。にこりとした微笑のまま、ゆっくりとこう言った。


「どうしてこのお店はこんなに暗いの? お団子はおいしかったしお姉さんは優しいけど、ボク、息がつまりそうだよ」

「……!」


 優しく首を傾げていた女性の表情が凍りつく。幼い少年の無礼な発言(・・・・・)に対してではなく、的確な指摘(・・・・・)に怯んだのだった。


 この茶屋に訪れる誰しもが感じ取れる負の雰囲気。

 気を使いそれを口にする者こそいなかったが、店の奥の老婆や女性への情けで何度も訪れる旧知の者以外、ほとんど再訪する客はなかった。

 出される茶も菓子も美味であり、店員の態度も申し分ない。

 それなのに、裏では皆が口をそろえて何故か居心地が悪いと言うのだ。


 ああ言われてしまったという諦念が心中を巡り、やがて女性は小さくうなだれた。


「近くに、大きな街道ができてしまって……」

「ううん、そのことじゃないと思うよ」


 小さな声でぼそりと呟いた女性に、少年はぷるぷると首を振って言う。

 彼の言葉は女性の息を瞬間的に止めるほどの威力を十分に持っていた。


 ――知ってて言っているのかしら。それとも……。


 唇を噛み、着物の裾を握る手に力を込める。

 しばらくの無言の後、絞り出すような声で女性は言った。


「この……この茶屋にはね。藤太(ふじた)という名前の男の子がいたの」


 いた(・・)


 その一言が全てを物語っている気がして、少年はああやっぱりと心の内で呟いた。

 出会ったその瞬間から、そんな気はしていた。


「ここより下流で川に落ちて……みんな仕事で、気づかなくて……」


 黒い瞳から涙が零れて、着物を掴む手の甲を濡らす。

 女性は顔も上げないまま、嗚咽混じりにこう言った。


「私の大事な、大事な……お兄ちゃんだったの……」



 その日、ついにその茶屋に客は来なかった。



  ◆


 月明かりが緩く水面を照らす。

 茶屋も川も山も道も全てが夜の帳にすっぽりと包まれる中、流れる雲が星々の煌めきを隠し、唯一雲から漏れる月光だけがふんわりと景色を照らしていた。


 ――お母さんごめんなさい。藤太兄さんのこと、話しちゃった……。


 娘からそう告げられた年老いた茶屋の女将は、ぼんやりと川縁に立っていた。


 あれからもう二十年以上たつ。

 憎いのは川ではなく自分自身だ。

 泣き虫だった息子。お客さんがいるというのに店内で泣き、すぐにお母さんお母さんと着物を引っ張ってきた。

 その彼をあの日の彼女は、苛立っていた彼女はついに、頬を叩いて怒鳴ってしまった。鬱陶しいから泣くな、仕事の邪魔だからどこかへ行ってなさい、そう言って店を追い出した。


 泣きじゃくりながら出ていった藤太を女将が再び見た時、彼の皮膚は水を吸ってぶくぶくに膨れ、枝に引っかかれ無数の傷を作り、瞳は濁り光を通さず、そして……


 ……決して息をすることはなかった。


 あの時どうして泣いているのと訊ねていれば。

 泣かないでと優しく頭を撫でていれば。

 苛ついていなければ。

 話を聞けば。


 後悔は女将の身体を塗り潰して色褪せない。


 いっそこのままこの川に身を投げてしまおうか、幾度となくそう思ったものの、大人の彼女では足がついてしまう。苦しくなると無意識に顔を上げてしまっていた。


「藤太……」


 白い髪に老いた顔。雲の隙間から顔を出した満月が、水面に女将を映し出す。

 ――女将は目を疑った。

 弾かれたように顔を上げるが、川の対岸には誰一人いない。しかしその水面には、月明かりに照らされた一人の幼い少年の姿が確かに映っていた。

 そこに映し出されていたのは、二十数年前と全く変わらない、愛しい息子。


「――っ、藤太!」


 川に飛び込み、水の抵抗を必死に押し返して歩く。

 本当は走っていきたいが、流れが緩いとは言え胸あたりまである水位が邪魔をして出来ない。


「藤太!」


 もう一度叫んで、はっとした。自身が作った波紋が水面を乱し、彼の姿が見えなくなっている。

 慌てて元の場所へと戻る。

 落ち着きを取り戻した水面に映った藤太は、目を丸くして女将を見ていた。


「……びょ、病気に、なるよ」


 川なんかに入ったら風邪ひくよ。藤太はそう言いたかったのだが、カラカラに乾いた口内と混乱した頭ではうまく言葉に出来なかった。


 ――どうして、なんでぼくが見えるの。


 そう思うと同時に不意に目の奥が燃えだしたかのように熱くなり、とっさに藤太は唇を噛んだ。強く噛みすぎたのだろう、鉄の味がじわりじわりと口の中に広がっていく。それでも藤太は一層力を込めた。


「藤太……そこに、そこにいるのね……?」


 震える女将の声に、藤太はこくりと頷いた。瞬間、女将の瞳から決壊したように涙が溢れる。息子とのたった数年間の思い出が、息子が生まれてから死んでしまうまでの記憶が、一瞬で女将を包む。ぼろぼろととめどなく溢れ出すそれは水面に吸い込まれ小さく波紋を作り、そして川と一緒になっていった。


「ごめんね、ごめんね藤太! 鬱陶しいなんて嘘なの! 私のせいであなたを、し、死なせてしまって……ごめんね……ごめんね……!」


 何度も、何度も叫んだ。

 やっと会えた愛しい我が子。もう二度と会えない愛しい我が子。積もり積もった想いは結局、何よりも単純な言葉に集約された。


「ごめんね……!」


「お、お母さんは、わるくない」


 藤太は小さな声で呟き首を振った。

 着物を握るだけでは耐えきれず、布ごしに肌に爪を立てる。目が熱い。


「大好きなの藤太! お母さん、みんな、あなたのこと大好きよ! 死なせたくなかった、私、私がっ……」


 今にも泣き崩れてしまいそうな女将に、藤太だってたくさん伝えたかったことがある。けれど、口を開けば今まで我慢してきたものを全てさらけ出してしまいそうで。

 それだけは駄目だ。

 だって、二十年以上も必死に押し殺してきたのだから。


 一緒にいたい。だけど邪魔はしたくない。話したい。でも邪魔をしてはいけない。

 どうしていいかわからなくなって、もう一度小さく首を振ろうとした、その時。


 藤太の頬を雫が伝った。


「……あ……っ……」


 震える小さな手で頬を押さえる。


 ――どうしよう。どうしようどうしようどうしよう、涙が止まらない。駄目なのに。泣いちゃ駄目なのに!


 着物を掴んでいた手を離しごしごしと目を擦る。それでも涙は瞳から溢れて止まらない。俯いて袖で顔を何度も拭う。もう大丈夫。しかし顔を上げれば女将が、お母さんが、どうしても目に入る。

 涙が出る。


「藤太……」


 女将が囁き、手を伸ばした刹那――



「っ……う……わ、あああああああんっ!!」



 藤太の中で、何かが弾けた。


「ご、ごめんなさい、お母さんごめんなさい! ぼくうるさくて、泣いちゃって、我慢したけど、ぼく……ぼくはっ……」


 ――違う、違う違う違う、そうじゃない!


 藤太は心中で叫ぶ。

 ずっとずっと、言えなかった事。黙っていた言葉。

 それを認めるのは怖くて苦しかったけれど、今伝えなければきっと後悔するから。


「先に……死んじゃってごめんねっ……」


 寂しかった。

 自分を置いて皆が成長していってしまうことが。もう二度と笑いかけてもらえないことが。

 藤太は本当は分かっていたのだ。たとえいい子に皆を待っていても、誰も褒めてくれないことを。たとえ泣いて喚いて騒いだとしても、彼女らに自分の声は届かないことを。

 それでも言われたとおりに、静かに静かに仕事を見ていたのは――


「お母さん、ぼく……ぼく、みんなのこと大好きだよ! 大好きだからあっ!」


 ぐちゃぐちゃに濡れたその顔に笑顔を浮かべ、叫んだそのとき、流れる雲が月を覆い明りを遮る。

 水面の少年は揺らめいて消える。


 再び月が顔を出したとき、川は、水面は、ただただ静寂だけをたたえていた。




  ◆


「もー、ツクヨさんってば遅れてきていいとこ全部もってっちゃうんだからー」


 満月が見え隠れするその夜、茶屋の屋根には三人の人影があった。

 浴衣姿の幼い童女、鞠。短い髪をちょこんと結んだ少年、佐助。そして。


「……ツクヨさんていうか、月読尊(ツクヨミノミコト)さま?」

「だから月詠(つくよ)でいいって」

「じゃあ月詠さーん」


 長い髪を高い位置で結った高貴な顔立ちの青年、月詠――月読尊。

 太陽神天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟、英雄素戔嗚尊(スサノオノミコト)の兄。

 月を司り夜を統べる天空神。

 三貴子神の一角でありながら、何故か姉弟に比べ極端に人々からの認知度は低い。

 そんな存在だった。


「というか佐助、俺のこと影薄いとか言っただろう? やめてくれよ気にしてるんだから……」

「あ、聞こえちゃった?」

「神はみんな地獄耳だよ」


 ため息混じりに苦笑する月詠。偉大すぎる姉や弟と比較されるのは好きではなかった。

 それゆえかどうかは定かではないが、絶対的な力を持つ神でありながら彼は妖や人に対してかなり友好的なのである。


 そんな月詠の横、舌足らずな声で鞠が呟く。


「にいちゃん、ふじたないてたねぇ。えーんえーんって」

「そうだねー」

「でも、ふじたのおかあさんもないてたねぇ?」

「うーん、そうだねぇ」

「……よかったねえ。ふじたもおかあさんも」

「……そうだねぇ……」


 幼い兄妹はぽつりぽつりと言葉を交わし、そこで静寂に身をゆだねた。

 月詠は自身の両脇に座る佐助と鞠の頭を優しく撫で、そして気づく。


「……佐助」

「なあに?」

「その団子どうしたんだ」

「え。茶屋で買うやつ」

「つくよさんのぶんもあるよー!」


 兄妹の食べているあん団子に加え、見れば餅やら羊羹やらたくさんの菓子が広げられている。

 嫌な予感に頬を引きつらせつつ、月詠はゆっくりと尋ねた。


「……お金は?」

「まだだけど月詠さん持ってるでしょ? ねえ鞠」

「ねー」


 内容的には予想通り。しかしその口調は予想以上に月詠の精神をえぐった。


「そっ……そのために呼んだのか!? 財布か!? 俺はお前らにとって財布なのか!? 俺はお前らが早く来いっていうからおま、俺急いで……!」

「そんな涙目にならないでよ月詠さんー」

「なってない!」


 幼児と児童に向かって涙目でそう訴える月詠の着物の袂を、鞠がつんつんと引っ張った。


「つくよさん、なかないでー」

「うう……泣いてなんかない……」

「あのね、いっしょにたべたかったの! おいしいものはみんなでたべると、いっぱいおいしいんだよー」


 そう言うと鞠は広げていた菓子のうちの一つ、みたらし団子を手に取った。ぴょこんと立ち上がると屋根から飛び降りる。

 それを差し出し、無垢な笑顔で鞠は言った。



「ふじたもそうおもうよね!」





 差し出された団子を受け取った幼い少年は笑顔で頷く。


 柔らかな月光の下、ある夏の日の話。


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