泣き虫閑古鳥・前
遠い昔、ある夏の日。
蝉が鳴き青い葉が揺れ、川の水面はきらきらと光の粉を撒いたよう。
そんな大きな川沿いののどかな街道、手を繋いで歩く幼い兄妹がいた。
兄の名前を佐助、妹の名前を鞠という。
鞠はおかっぱ頭を振りながらぴょんぴょんと歩き、兄(と言っても七歳くらいの容姿である。妹はもっと幼い、三歳程度だろうか)の佐助は鞠に歩幅を合わせながら、いつも崩れないにっこりとした微笑のままくるくるとあたりを見回していた。
すると、
「あっ」
佐助がつぶやいた。
「茶屋みっけ」
そこには、確かに茶屋らしい建物があった。
茅葺きの屋根に緋毛氈のかかった縁台――赤い布のかかった屋外用の長方形の腰かけ台のこと――は、和やかな田舎の風景に優しく色を添えている。
街道沿いにあることから恐らくは水茶屋なのだろう。
店先も店内も綺麗に整えられていた。
それなのに、何よりも重要なあるものが、その茶屋には見当たらない。
店の中に入り、一通りとてとてと歩き回った鞠は首を傾げた。
「にいちゃん、おきゃくさん、いないねー」
そう。
客。
それがこの店の重大かつ最大の欠陥だった。
鞠は改めて歩き回り、覗き込むような仕草をしては「いなーい」と呟いていた。
佐助はといえば、やはり鞠と同じように店内をうろつき、それどころか備品をいじったり動かしてみたりしていた。
やがて鞠に向き直り、ぱっちりとした黒い瞳で彼女を見て「ほんとだねぇ」と答えてみせる。
「ねー鞠、知ってる? こういうガラガラのお店ね、『閑古鳥が鳴いてる』っていうんだよ」
「かんこどり?」
「そう。かっこー、かっこー、って鳴くんだって」
かっこーかっこーと『閑古鳥』の鳴き声をまねる佐助に、鞠はぱあっと顔を輝かせる。
初めて聞く不思議な言葉が面白かったのだろう、花が開いたような笑顔で「かっこー!」と叫んだ。
「かっこー! かっこー!」
「かっこー、かっこかっこかっこー」
「かっこー! かっこおおおー!」
他人様の店内で大騒ぎする子どもが二人。
本人たちは実に楽しそうだが、店にとっては迷惑な話である。
――と、着物の裾を引かれた感触がして、佐助は振り向いた。
見れば、鞠より大きく佐助より小さな少年が仏頂面で佐助の着物を掴んでいるではないか。
「かっこむ、むぐ」
未だに楽しそうに鳴き続ける鞠の口を慌てて塞ぐ。
突然黙らされた鞠はむーむー唸ったり佐助の指をずらそうと試みたりしていたが、そんなことはお構いなしに佐助は少年に言った。
「うるさかった? ごめんねぇ」
心なしかいつもより眉を下げ、それでもやっぱりにっこり微笑みながら謝る佐助。
少年は少しの間ののち視線を下げ、それから、意を決したように顔を上げた。
「……あのね。お母さんたちおしごとしてるから、しずかにしてなくちゃだめなんだよ」
少年の注意に佐助はもう一度「ごめんねぇ」と謝った。
ついでに頭も下げた。
聞かれているとは思ってもみなかった佐助は、少年に申し訳なく思ったのだ。
……と同時に、少しだけ疑問に思うところがあった。
わずかに頬を緩め安堵の表情を浮かべる少年に、佐助はいささか不可思議な質問をした。
「……きみ、ボクたちが見えるんだ?」
◆
少年は藤太と名乗った。
この茶屋の女将の息子だという。
佐助も続いて名乗り鞠を妹だと紹介し、ついでに自分たち兄妹は『座敷童』なのだと伝えた。
無論、藤太には意味がわからなかった。
「藤太くんいつもここでお仕事見てるの?」
こくり。佐助の問いに藤太はうなずく。
固かった仏頂面に赤みが灯った。
店の奥、何かの作業をしているお婆さんと店員であろう女性を見つめながら言った。
「お母さんたち、がんばってるから。じゃましたらいけない」
そう言ってぴんと背筋を伸ばす。
きりりとした表情でまっすぐ前を見つめる藤太。
みんな頑張ってるからおれも頑張るんだ、そんなせいいっぱいの背伸びを佐助は微笑ましく思った。
ケナゲだなぁなんて思っていると、今まで黙って手遊びをしていた鞠が顔をあげた。
「でもおきゃくさん、ぜんぜんいないよねー」
無邪気、ゆえに残酷な一言。
三人の座る縁台周辺が凍りついた。
藤太がぎゅっと自身の着物をつかむのと佐助が鞠の頬をばっちんと両手で挟むのが、ほぼ同時。
まっ黒な瞳で妹を見つめて兄は言う。
「鞠ごめんなさいして」
「にいちゃん、いたいよう」
「ごめんなさいしてっ」
ぐいっと鞠の顔を捻らせ、藤太の方を向かせる。
口をへの字に固く結び、着物を握りしめ、視線を落として床を見つめる藤太。
鞠が佐助に文句を言おうと開いた口は、しょぼしょぼと閉じられた。
しばらく言葉を噛んだのち、「ふじた、ごめんね」小さく謝った。
「藤太くんごめんね、空気よめない子でさー」
続いて佐助も謝る。
未だに顔を上げない藤太に、佐助はにっこり微笑んで言った。
「今日はちょっと、人通りが少ないもんね」
藤太はまだ着物の裾を握っている。
その日来たお客さんは三人だった。
◆
「ふじた、みてー! おはな!」
「……くれるの?」
「うん!」
鞠が持つのは白く可憐な姫女苑の花。
小さなそれをおずおずと受け取った藤太の仏頂面に、ふわりと微かな笑みが灯った。
「ありがとう」
「どういたましてーっ」
緩やかに流れる川に緑の山々、のどかな風景に和やかな会話、そして――
――閑散とした茶屋。
哀愁すら感じるその店内で、佐助はやはり勝手に備品をいじっていた。
本来、座敷童は佐助と鞠の兄妹のように日本中を気まぐれに旅したりはしない。
家に宿りそこに住まう者に幸運をもたらし、そして座敷童が去ればその家は傾く。
幸福と災厄は表裏一体、神と妖もまたしかり。
だから佐助はひとつの土地に留まるのが嫌だった――否、怖かった。
数日、長くても十日ほどで立ち去れば幸も不幸もなにも影響を及ぼさないことに彼はちゃんと気付いている。
この茶屋にも長居は出来ないのだろう。
「このつぼはこっちに置けばいいのにー」
独り言を呟きながら勝手に内装を変える佐助。
この茶屋のためにボクにもなんかできることないかなぁと考えての行動なのだが……。
『気持ちだけで十分』という言葉をまだ知らない少年のすることである。
「いらっしゃいませ」
不意に若い女性の声が聞こえ、佐助は手を止め顔をあげた。
店先に人がふたり。
どうやら待ちくたびれたモノが来たようだ。
姿が見えないのをいいことに、二人のすぐ近くに走り寄る。
「ああ、お鶴さん……いつもありがとうございます」
店から出てきた女性はそう言って、お客さんの女性、お鶴に頭を下げた。
奥の方ではお婆さんがちらりと顔を上げてから小さく頭を下げ、それからまた作業に戻った。
佐助は女性とお鶴を交互に見上げ、片手をあげて尋ねてみた。
「お鶴さんは常連さんなのー?」
返事はない。
二人は何やら世間話をしている。
「お姉さん、お客さん来てよかったねぇ」
やはり返事はない。
無論それを承知で佐助は話しかけているのだ。
女性とお鶴の顔を交互に見上げながら会話に耳を傾ける。
が。
「相変わらず儲かってないみたいだねぇ」
(えっ?)
「近くに新しい街道が出来てからは余計にじゃないか。けじめをつけられずにずるずるずるずるやるのはよくないよ」
「ええ、それはもう仰るとおりで……でも、ここを手放すのは……」
(……)
どうやら『常連さん』は色々と深い事情を知っているらしい。
「ねぇ、それどういうこと?」
困らせたいのではなく心配している表情で言うお鶴とそれでも困ってしまっている女性を見上げて尋ねる。
来るはずのない返事は、背後からした。
「じゃましちゃだめだってば」
「わっ!」
振り返れば、むすっとした表情の藤太。
佐助の腕を両手で掴みぐいぐいと引っ張る。
「おしごと中なのっ」
小さな声で、それでも怒ってそう言った。
「ごめんねぇ藤太くん」
腕を引かれるまま店員の女性とお鶴から離れ、謝りつつも、佐助の意識は未だ話を続ける二人に釘付けだった。
それが藤太は気に入らないらしく、小さな手で佐助をべしべしと叩く。
「じゃましちゃだめ!」
唇を噛み佐助の着物に爪を立てる藤太。
怒りとも懇願ともつかない悲痛な表情を浮かべる少年の頭を、佐助は優しく撫でた。
「だいじょうぶだよ」
「だいじょうぶじゃないっ」
「んー……どうしてそう思うの?」
「……え……だ、だって……」
しょぼしょぼと尻すぼみになる藤太の声。
うつむき、泣きそうな声でささやいた。
「……じゃまは、だめ……だめ……だから……」
震える小さな肩。
ゆらゆらと揺れる黒い瞳は、閉じれば雫を落としてしまいそうだった。
「……藤太くん、ごめんね。ほんとにごめんね」
そう言ってもう一度だけ藤太の頭を撫でた。
佐助は、生前の自身の姿と彼を重ねていた。
だからこそ「ごめんね」なのだ。
「明日ね。ボクの大人のお友達を呼ぼうと思ってるんだ。ツクヨさんって言うんだけどね。いっぱい買ってってもらおうよ」
藤太はうつむいたままだった。
その日来たお客さんは、お鶴を含めて二人だった。




