鬼子とはじめての友達・前
よくあるはなし
時は平安、雅やかな都から離れた山の裾野、小さな村の外れ。
雑に割った木を格子状に組んだだけの檻の中に、一人の少年が囚われていた。
「××村の鬼ってお前のこと?」
不意にそんな声が聞こえ、少年――晴蓮と言う名のその少年は重いまぶたを上げた。
木製の格子ごしに晴蓮とそう歳の変わらなそうな少年が立っている。
面倒になって目を閉じたが、拘束された腕では耳を塞ぐことは出来ない。
少年は嬉々として喋り始めた。
「わー、本当に赤い眼してるんだ。なぁ、それ黒くなんないの? なんで縛られてんの? 鬼なら檻なんか壊せるんじゃないの? なぁなぁ、なぁってば」
弾むようなうきうきとした声。
それどころか少年は格子の隙間から手を伸ばし、晴蓮の頬に触れてきた。
「触んな」
再び目を開き低く唸る。
見る者が凍てつくような目で少年を睨むが、少年はそれをものともせず、両手で格子を掴みニコニコと笑っていた。
◆
晴蓮は生まれつき赤色の瞳をしていた訳ではない。つい数年前からじわりじわりと染まっていき、ついには血に濡れたような紅になったのだ。
かつて晴蓮は気は弱いが優しく穏やかな少年であり、そんな彼を村人は皆好いていた。
それが今ではどうだ。
座ったまま両手を頭上に掲げる形で拘束され、その手首や縄はおびただしい量の経や札で埋まっている。立ち上がれるような空間もない、雨風もしのげない。野晒しの檻に閉じ込められて以来、晴蓮は水も食物も口にしていないのだ。
それでも死ぬどころか痩せることすらなく、それが村人の嫌悪感に拍車をかける。何より、人でないことの確かな証拠となった。
「おーい、俺が来たよー」
能天気な声が晴蓮の鼓膜を震わせる。気怠さをおさえ目を開けると、予想通りの人物が格子に手をかけ座っていた。最近毎日こうなのだ。
癖のついた黒髪に高価そうな紫の狩衣姿、柔らかな微笑。細められた黒曜の瞳には幼い中にも色気が宿り、すっと通った鼻筋や整った輪郭にきめ細やかな白い肌も相俟って、世の女性全てに溜め息をつかせるような麗しさである。
貴族の間で「絶世の美少年」と名高い子供が、そこにいた。
晴蓮自身、恐らく暇な貴族なのだろうと推測していた――というより、その少年は誰が見てもそう思うような服装をしているのだ。纏う布はきちっと張りがあり紋様は緻密で美しく、一目見るだけで到底手の届かないと分かるようなもの。
「帰れ」
吐き捨てるように晴蓮は呟く。射るような視線を少年に向けるが、やはり彼はケロリとしていた。
「なぁ、今日こそ名前教えろよ。おにおにって呼ばれるの嫌だろ?」
「別に」
「嘘だね。『鬼』なんて個人のこと指してないじゃん。俺はお前と話がしたいんだよー」
「あっそ」
適当にあしらい溜め息を吐く。返事をしないと顔や身体を触ってくるのだ。
狭い上に腕が固定されていては、ろくに抵抗も出来ない。出来ないように檻が作られているのだ。
「じゃあもーいーよ、先に俺が名乗るよ。はい、俺の名前は雅楽です! 雅に楽しくって書いて『うた』。特別に呼び捨てを許可しよう、感謝したまえ」
――雅に楽しく。
晴蓮は少し記憶を辿る。
どういう字だっただろうか、思い出せない……が。
「……は、ピッタリじゃん」
これほどまでに容姿、性格、名前が合致した人間を見たことがあっただろうか。晴蓮は口の端で笑った。
「いい名前だな」
もちろん皮肉を込めて言った。貴族の癖に物珍しさに村にまで下りてきて格子ごしに自分を眺め笑う彼は、良い存在であるはずがない。本当はこんな情けない姿を晒したくなどないのだ。
自分を蔑み嘲笑った村人たちの視線を思い出し、そののち、自分が人間だった頃に向けられた同一人物の笑顔を思い出す……否、思い出せなかった。
舐めさせられた苦汁の味を思い出し自然と舌打ちが漏れる。
「……今、いい名前って言った?」
「あ?」
晴蓮が喋ってからかなりの間ののち、少年――雅楽が口を開く。少し俯いていた顔を上げ雅楽を見ると、その頬は紅潮しいつも眠たげな黒い瞳は輝いていた。
晴蓮の顔が引きつるのもお構いなしに雅楽は言う。
「言ったよな? 言ったよな! 褒めた! お前今俺のこと褒めた! 俺の名前いい名前って言ったー!」
「ああもううっせーな黙れ!」
怒鳴り散らしても特に効果はない。雅楽は嬉しそうに格子に顔を寄せた。
「な、雅楽って呼んでみて。うーた」
「断る」
「じゃあ名前! お前の名前教えろよ」
「断る。いい加減にしろよ気持ち悪いんだよお前!」
「えー……」
整った顔を少しだけ不満そうに歪め、眉を下げる雅楽。
「何が不満なの? 俺に好かれて不満な人とかいんの?」
「どれだけ自分に自信あるんだお前」
「だって俺が名前聞いてるのに。なんで教えてくれないのー」
「もう帰れよ……」
言ってから、上半身の力を抜き、手首に体重をかけうなだれる。たくさん喋って疲れた。
何を言われようが暴力を振るわれようが、気付かないふりをして黙っていた。最後に大きな声を出したのがいつだったかもう思い出せない。
疲れた、と深く深く息を吐く。
目を閉じていると頭に何かが触れた。
それは頭を軽く二、三回叩いたあと左右に動く。汚れた髪が擦れる感覚に暫くぼうっとして、はっと顔を上げた。雅楽の右手が檻の中に差し込まれている。
「……俺とそんなに歳変わらなそうに見えるのに。お前は偉いな」
目に入るのは、柔らかな布で包み込むような優しい微笑みを浮かべる雅楽。
――頭を撫でられた。
そう理解するのと同時に怒りのような屈辱感のようなものが喉をかっとせり上がる。
(……ひどい侮辱だ)
唇を噛み雅楽を睨む。しかし、やはりその思いに彼は気付かなかった。あるいは気付かないふりをした、のかもしれない。
「明日も来るね」
そう言ってにこりと笑い、雅楽はぱたぱたと走っていった。
◆
晴蓮はふと目を覚ます。
誰かが草を踏み倒し近付いてくる足音がした。
(雅楽かな……)
寝ぼけ眼のままぼんやりと考える。
幾度かまばたきを繰り返してから顔を上げた。辺りはまだ薄暗い。
(こんな時間にどうしたんだろう)
そこまで考えてから気付いた。心の中とは言え、いつの間に彼を「雅楽」と呼んでいたのだろう。
辺りに立ちこめている朝靄よりももっと濃い霧のようなものが胸の内を満たす。意味もなく苛々した。
今日は徹底的に無視してやろうか、そんなことを考えていると、不意に晴蓮の頭に硬いものが叩きつけられた。鈍い痛みが晴蓮の目を完全に覚めさせる。
目の前にいるのは雅楽ではない。檻を半円形に囲むように並んで立っているのはかつての友、村の子供たちだった。なんだ、こいつらか。そんな言葉が脳裏に溶ける。
子供たちに親友だった頃の面影はなかった。目は冷たく相手を見下ろし蔑むため、口は嘲り笑い貶めるため、手足は暴力を生むため。そのためだけについているようなものだった。
しかし晴蓮はそれを咎めるつもりはない。優しく穏やかだった昔と似ても似つかないのは、舌打ち混じりに面倒くさそうに彼らを見上げる自分も例外ではないのだから。
「晴蓮お前、貴族と遊んでるらしいな」
一人の少年が口を開く。晴蓮は答えない。
「何考えてんの? 私たちにまで迷惑かかるんだけど」
「なんかあったら責任とれんのかよ」
「こっちが罰されるんだよ、そんなことも分かんねえの?」
「存在が迷惑なんだからこれ以上余計なことすんな化物」
「早く死ねよ」
次々に浴びせられる罵詈雑言も晴蓮の心には特に響かない。もう慣れてしまった。ただ黙って同じことを表現を変えて繰り返す皆を見上げていると、苛ついた彼らは立ち去っていった。
が、すぐに戻ってくる。その手には石や太い枝を抱えて。皆が一様ににやにやと笑いながら、再び小さな檻を取り囲んだ。
「せーのっ」
手が届くような至近距離。子供とはいえ、全力を込めて投げつけられた石は十分に凶器となった。
いくつかは痣を作りいくつかは皮膚を破る。晴蓮は赤い目を細め、僅かに顔を歪ませた。
それと同時に子供たちの口元は一様に弧を描く。
「馬鹿みたいにすまして黙りやがって、声出して泣くまで絶対やめねー」
楽しそうに誰かが叫ぶ。
容易に手を差し込むことのできる格子は、決して晴蓮を守るためのものではなかった。
◆
降り注ぐ冷たい雨が歌人が唄うように天の涙だというのなら、どうしてこんなにも大泣きしているのだろう。無抵抗のまま嬲られ続けた彼への同情か、はたまた今日も彼を殺せなかった悲哀か。
彼――晴蓮にとっては、そんなものどちらでも良かった。
(……ちょっと寒いな)
そう感じつつも、桶を返したような土砂降りに少し安堵する。血液を洗い流してくれたし、それに、今日は雅楽の顔を見たくない。この悪天候なら来ないに決まっている。
そう思いながら目を閉じ、どれくらいの時間がたっただろうか。
「あああ、やっぱり……!」
バシャバシャと跳ねる水音とそんな声で顔を上げた。見れば、何かを引きずりながらこちらに走ってくる人影が一つ。
「雅楽……」
「屋根も格子だからまさかとは思ったけど、ああもうびしょ濡れじゃん!」
慌てて走り寄ってくる濡れねずみの少年。近付いてくる雅楽と目が合うより早く、晴蓮はさっと俯いた。
「お前、何しに……」
「明日も来るよって昨日言っただろ! ほらこれ屋根にしてやるよ、来る途中拾ってきたんだ」
早口でそう告げると、雅楽は抱えていた板を檻の上に試行錯誤しつつもなんとか乗せた。幸い雨足は強いが風は弱く、板が長方形で檻が正方形をしていたこともあり、晴蓮を雨から守るついでに雅楽も雨宿りが出来るような空間が完成した。
「はー良かった……。あ、これね、なんか古い小屋の戸なんだ。使ってなさそうだったしちょうど良いかなって思ったんだけど、思った以上にぴったりだったなー」
――その小屋は本当に古かったのか。貴族基準で見てないだろうな。
そう思った晴蓮だったが黙っていた。
雅楽は「ちょっと待ってね」と呟きながら、懐から布を取り出す。広げるとすっぽり人を包めるような大きさになった。
「ちょっと濡れちゃったけどまあ大丈夫でしょ。じっとしててねー」
「は? ちょ、ちょっと待て何すんだよ!」
「濡れたままじゃ風邪ひいちゃうじゃん。手ぇ縛られてるお前のために特別に俺が拭いてあげるよこの俺が。この俺が」
「ひかねぇし! 本当にいら」
「はいはい黙れ黙れー」
格子の隙間から器用に両手を入れ布を広げると、雨水の滴る晴蓮の頭をわしっと掴んだ。そのままぐしゃぐしゃと拭き、軽く顔も撫で水滴を吸い取る。手を伸ばして首や腕を拭く。袖も簡単に水を切り、頑張れば服も拭けるだろうか、流石に怒るだろうかと考えた。
一度布を格子の外に出し、「なあ」と晴蓮に声をかける。
「全然顔上げねーし、やっぱ具合悪いんじゃない? 寒いみたいだし、服も拭いていい?」
「いらない。帰れ」
「やだよせっかく来たのに」
へらりと笑って雅楽が言う。
静寂。
やがて雅楽はぬかるんだ地面に膝をつき、両手を伸ばして晴蓮の頬を包んだ。何か言われるより早く顔を持ち上げ、赤い瞳に自身の黒い目を合わせる。
「……やっぱり。誰にやられたんだよ?」
切れた唇に裂けた額。頬や目元は青く腫れあがり、雅楽が無意識に手に力を入れると晴蓮は顔を歪め目を逸らした。
「痛い……離せ」
「ああごめん」
頬から首筋を少しだけするりと撫で、雅楽は手を離す。彼が手を離す直前、雅楽の指先が鎖骨に触れた瞬間に、晴蓮の神経に貫かれたような痛みが走り全身が強張った。どうやら折れてしまっているらしい。
晴蓮は息を止めゆっくりと力を抜き、手首の縄に体重をかけうなだれた。身体中が軋んであちこちが痛い。
「……つらかったらそのままでいいからさ。ちょっと話そうよ」
膝を抱え座り直した雅楽が言う。傷について無理に言及しないことが、晴蓮には不思議だった。が、すぐに思い直す。
――どうでもいいだけか。
「お前、家族いる?」
ささやくようにいたわるように雅楽は尋ねた。雅楽の目は真剣だったが、俯いたままの晴蓮には見えない。長い間黙っていたが、やがて「母親は生きてる」とぽつりと呟いた。
「昔はまだ普通だったけど……俺を縛ってここに閉じ込めたのは、あの女だ」
「そう……。その手首のお札はお母さんが?」
「ああ。雨でも破れないように術かけて、俺が逃げられないように」
「お前の家、寺?」
「……神社」
「そっか。じゃあお前字読めるんだ」
「忘れてなければ」
そこで会話が途切れた。雨が土や木々や生い茂った葉を叩く音だけが響く。
「あのさ」
口を開いたのはやはり雅楽だった。そこからまた暫く雨音だけが鼓膜を震わせ、やがて意を決したように雅楽は晴蓮を見る。
「俺の家族になる気、ないですか」
ふつりと音が途切れた、気がした。
晴蓮は俯いたまま目を閉じる。深い溜め息をつき、なんで、とだけ呟いた。
雅楽は膝立ちになり格子を掴む。
「もう、もう見てられない。俺の家族はお前にこんなことさせないししないよ。こんな檻、出してやるから一緒に行こう?」
「いい」
「なんで!」
悲痛な叫びをあげ格子に爪を立てる。
雅楽は目の前の鬼の子が可哀想でならなかった。自分はのうのうと日々を謳歌し、彼は不当に拘束され惨刑を受けながら生きている。
――おかしいじゃないか。
雅楽は言う。
「……お前は、感情が死んでる訳じゃない。この仕打ちが平気なんじゃなくて耐えてるだけだ。もう、もういいじゃん。もうこんな目に合わなくていいじゃん。苦しい思いして耐える必要なんかないじゃん」
――なんで一言助けてって言ってくれないんだよ。
ずっと心中でくすぶっていたその言葉を口に出来ないまま、白い指先に力を入れた。
「……お前さ。勘違いしてんだろ」
「え?」
晴蓮は顔を上げなかった。
雅楽の顔を見ることもせず、面倒くさそうに口を動かす。
「俺で遊ぶのがそんなに楽しいかよ。来るなっつってんのに毎日毎日自己満足振りまいて、好奇心と興味本位でちょっかい出しやがって……。挙げ句の果てに拾って帰りたいなんて、笑って話しかけて頭撫でれば俺が懐くとでも思ってんのかよ」
雅楽が檻の上に乗せた薄い板が小さく軋む。僅かに歪んだそれは、一心に雨を受け止め溜めていく。
「俺を誰より下等に扱ってるのはお前だ」
一瞬、雅楽は世界から音が消えてしまった気すらした。雅楽が唇を噛み泣きそうな顔で俯いたのを、晴蓮は知らない。
別に、扱い自体が不満な訳ではなかった。妥当とすら思えるほどだ。ただ腹立たしいのは、彼が自己満足ではなく、自分のしていることは慈善なのだと信じて疑わないことだった。
「そんな捻くれたこと、言うなよ……」
雅楽は言う。俺、そんなつもりないよ、と。
「雨……あがるまで、ここにいるから」
言って、雅楽はずるりと座り込んだ。美しい着物が泥を吸う。
――勝手にしろ。
口を動かしただけのその言葉は、雨音を破り雅楽に届くだけの力を持ってはいなかった。




