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(7)ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん

 冷たい。高揚していた心がすっと冷めていった。

 先ほどまで晴天だった空には、雲がまだらに広がっている。

 太陽が雲に隠れて気温が下がってきたからだろうか。いや、違う。これはそんなんじゃ、ない。

「私はね、今まで保険の先生に頼まれてゆうくんに電話してたんだ。あ、ゆうくんっていうのは李緒の弟クンだよ?」

 私の隣にあるベッドには李緒クンが横たわっている。私は今、立ったまま光と向き合っているけれど、ついさっきまで李緒クンと顔が触れてしまうほど近づいていた。

 私、……今何しようとしてたんだろう。ここで光が私に声をかけたのは幸運なのか、はたまた不幸なのか。

 ……不幸? そんなはずない。そんなはず、ないのに……この苛立ちはなんなの?

「普段はぶっきらぼうなんだけどあれでなかなか兄想いなんだよね。頭ぶつけたって言ったときのゆうくんの声ったら」

 あはは、と何事もなかったように光は顔を綻ばせて花のように笑った。けど、何かが違う。花は花でも……それは造花。

 そして、ピタリと笑いが止まる。光はまた、先ほどと同じような、私が凍りつくには十分なほどの効力をみせる微笑を浮かべた。

「ねぇ? それで……それでもう一度聞くけど、さっき、何してたの?」

 それは言えない。自分でも把握出来ていないから、決して彼女には言ってはならない。けど……けど。

「わ、私は――」

 何が言いたいのか、何が言ってはならないのか。

 私が何か、取り返しのつかない、自分でも把握しきれていないことを口に出そうとしていたとき、

 ――「ん……んぁ〜?」

 救いのような、彼の間延びした声が無機質で機能的な作りの、この真っ白な部屋中に響き渡った。

 

 ******

 夢を見た。

 あたしの家の近くにある幼稚園で4人が仲良く遊んでいる、夢。

 あたしと、光と、祐次と……もう一人。

 誰だったろう。あまり覚えてないけれど、とても仲が良かったことだけは分かる。

 4人でいつも一緒におママゴトして、一緒にお昼寝して、一緒にいたずらもした。

 とっても幸せな夢。記憶がぐるぐる、ぐるぐる回って。……けど、もうすぐ行っちゃう。彼は、行っちゃうんだ。

 誰だったろう。この顔、愛くるしいこの笑顔。……彼の名前は確か――。

 ぷつり。

 そこで、夢が途切れた。

 

「ん……んぁ〜?」

 あたしは間抜けな声をあげて目を開けた……ら、何故かそこは白い、雪のような場所だった。

 遭難? そうなんですか。いやいや違うって。

「……どこ、ここ」

 むぅっと唸りながらあたしは呟く。ぼやけていた視界が戻ってきて、ここがどこかの部屋だということが分かった。

 んで、そこにあたしが寝てる。もち部屋じゃない。あたしの部屋の天井ってお母さんの趣味でピンク色だし。

 あたしの視界がとらえるのは真っ白の汚れ一つない天井。

 ……いや、どこよ、ここ。

 まさか、誘拐? 誘拐なのですか。いやでもうち、そんな裕福な家庭でもないし。

 んー……。むぅー……。か、身体狙い?

 い、いいいいやぁぁぁ!

 ……って、んな訳ないじゃん。バカかあたしは。男の身体狙って何が楽しい。

 意味不明なことを考える頭に渇を入れつつ、左へ寝返りをうつと、

「……?」

 どうしてか光と千代があたしを見つめていた。とりあえず、

「おっはよー?」

 言ってから彼女達の背景を見て気付く。

 たまーに先生と談笑するためだけに来る馴染みの部屋。見慣れている場所だった。

 ……ここ、保健室?

「おはよ、李緒。……大丈夫?」

 あたしが挨拶すると、どうしてか呆然とあたしを見詰め続ける千代の横を光がするりと通り抜けて、中腰になって顔を覗きこんでくる。

 そりゃ大丈夫ですよ、寝起きからこんな間近で光の顔なんて見られたら! ご飯三杯はいける!

 ぐっとあたしは寝たまんまの格好で強く手を握り締めた。

 ……まぁ、口には出していないけどね。変態じゃん。うん、進歩進歩。最近人前で変なことはいわないようになった……と、思うし。

「んー、何が大丈夫かはどうかは知んないんだけど、なんで……俺、こんなとこで寝てるの?」

 ふと、疑問に思ったので問う。

 すると光のやんわり微笑んだ表情が急に心配気に変わった。

「え……李緒、覚えてないの?」

「覚えてないも何も、何がなん――」

 言いかけたところで、止まる。

 違和感を感じ、無言のままあたしの上にかぶせられた布団を外し、そのまま身体を上げて腕を抜き後頭部に手をやると、こんもりと膨らむ物体が手に取れた。

 ナンダコレ。

 ……あ。

「あーーー!! いだっ!?」

「り、李緒! ……大丈夫?」

 叫んだ衝撃で激痛が後頭部から走って、涙目になってうずくまる。よしよしと光が頭を撫でてくれた。ちょっと落ち着ついて半泣きのまま顔をあげる。そして、あたしはぼんやりと呟いた。

「ぁー。うー。思い出した……」

 そうだった……。

 今考えるとすんごい恥ずかしい気がする。

 顔にパンケーキがぶつかって、こけて、気絶した。それだけ。それが授業中、クラスのみんなが見てる中で起こった。

 ……ま、間抜けすぎる!

 衝動的に掛け布団を思いっきりあげたくなって、ついあたしは頭を抱えた。

「……ね、今って何時?」

 少し気になったので尋ねてみる。

「5時くらいだよ、たぶん。もぅっ……ずっと起きないから心配したんだからね」

「……へ? 5時!?」

 じろりと微妙に潤んだ目で睨む光はひっじょーに可愛かったけど、まぁそれは置いといて。5時?

 家庭科は確か6時間目にあったはず。今日は7限授業だったから……ぁ、あたし2時間も寝てたのか。

 ……あれ?

「じゃあさ、光はともかく何で千代までここにいるの? 部活はどしたの??」

 千代は確かテニス部に所属していたはずだ。今、この時間帯は部活中のはず。部活抜け出して見舞いにきてくれたんだろうか。

 けど、言葉を待っているのに返事が返ってこなかった。千代は焦点の合わない目線であたしを見つめたまんまだ。そして、何故か光は千代のほうを振り向かなかった。

 ……どうしたんだろう?

「千代……?」

「……えっ?」

 あたしがもう一度声をかけると、驚いたようにあたしを凝視した。

 ……な、なんなんだ。なんなんだ、一体。

 もしかしてあたしの顔、家庭科の時間つまみ食いした生クリームでもついてるとか……!?

 ぺたぺたぺた、頬っぺたや唇を触ってみるけど何も手にはついていなかった。けど、何故かその動作を見て千代が顔を赤くする。

 いや、そんな反応されても、って感じなんですが。

「ち、千代さん千代さん。さっきから一体全体どうしたんですかー……」

 あたしがそう丁寧に声をかけると千代は、

「えっと、その、あたしは……」

 もごもごと口の中で何かを言いながら不安げに顔をきょろきょろと別の場所に向けたり、戻ってきさせたりしている。

 なんだか、変な雰囲気だ。千代は何でか動揺しているし、光はいつもより何となく――ホントに何となく何だけど、表情が硬い気がする。

 まぁ、ただの……勘だけど。あたしが眠ってる間に何か、あったのかな……。

 そんな事を考えつつ、いつまでたっても千代があんな様子なので、助けを求めるようにあたしは光に視線を移した。するとひかりは全く微笑みを崩さず、

「千代ちゃん」

「な、何……?」

 光が詠うように、穏やかな声で呼びかけたにもかかわらず、どうしてか千代の頬は引きつられた。

「千代ちゃんは李緒のこと、心配してお見舞いに来てくれたんだよね。……もう李緒、元気みたいだから部活、戻ってもらってもいいよ? あとは、私が見てるから」

「……ぇ、あ、うん。そう……」

 素っ気なく、光は千代を部活へ送り出そうとする。

 今まで看ててくれたんだから、もうちょっと話していたいな、なんて思ったけれど……部活ならしょうがないかぁ。

 とぼとぼと肩の力が抜けたように歩く千代を不思議にも思いつつ、あたしは、

「千代、ホントありがとうね。部活、頑張って」

 あたしがそれだけ声をかけると、千代は振り返って、

「あ……あたしこそ、ありがとっ!」

「――はい?」

「そ、それじゃっ」

 それだけ言うと、千代は早歩きで保健室を出て行ってしまった。

 ……あたし、お礼なんて言われることしたっけ?

 あ、家庭科の時間、ちょっとだけ手伝ったからそのことのありがとう、かな? と、いうかそれ以外思いつかないし。別にいいのになぁ。千代って律儀。

 あたしは心中で千代に向けて尊敬のまなざしを送った。

 

 千代が立ち去ったあと。

「ね、光。俺が寝てる間、何かあったの?」

「んーん。何にも、なかったよ? …あ、でもついさっき廊下で蓬クンに出会って、謝っといてって頼まれたことなら」

 そう、光はにっこり、満面の笑みで答えた。

 

 ――ザァァァァ。

 ……今の状況を語るには、その擬音がぴったりだとあたしは思う。ここは下駄箱のある玄関を出て、真上に職員室がある、いわゆるピロティだ。

「よく、降ってるねー」

「……んだね」

「李緒、傘持ってきてる?」

「……この表情見れば、分かるでしょ?」

 ――ザァァァァ。

 意気消沈とあたしは肩を落とす。これだから雨は嫌いなんだ。ソフトをすれば泥まみれになるし、携帯を触れば水滴が画面につくし、……傘、忘れたし。

 うぅ……今日は降水確率10%だったのに! 美人ニュースキャスターの涼子ちゃんも今日はとてもいい洗濯日和だって言ってたのに! あの綺麗な微笑みに騙されたー!?

「ふふふー」

 光は小さくて可愛らしい水色の傘をくるくると回してぱさりと開いた。

 どうやら光は、置き傘してあったみたいだ。

「しょうがないなぁー」

 ころころと何やら嬉しそうに笑うと、光はあたしに傘を突き出してくる。どうやら持って、という意味らしい。あたしは光が何をしたいのかに気付き、自然と傘を受け取り――そして、また気付く。

「……や、これって」

「え?」

 分かってやっているんだろうか。

「どうしたの?」

 そう言って、可愛らしく光は小首を傾けた。

 分かって、ないんだろうなぁ……。

 別に、あたしが傘を持つことに疑問はない。むしろあたしが傘を持つのは当然だ。光って背、私の肩よりも低いし。けど、同姓がこの同じ傘で仲良く家に帰るのとは意味合いが全く違ってくると思う。女の子だったときならありがたく入れさせて貰っていただろうけど……。

 ちらりと周りを見渡すと、ちらほらとまだ学校に残っていた生徒が帰り支度を始めている。まだ最終下校時間じゃないから数は少なくて知り合いもいなさそうだけど…これ、相合傘ってやつ、だよね。

「李緒、李緒。どしたの? 早く帰んないと雨強くなっちゃうよ」

 じれったそうに光がもう一度聞く。

 ……一緒に帰ってるだけでも関係疑われてるのに、相合傘なんてしてるとこ見られたらまた何か言われるんじゃないだろうか。

「……しょ、職員室行って傘借りてくるよ。その傘じゃ、お互い濡れちゃうだろうし」

「え! そんなこと気にしてたんだ」

 驚き顔であたしを見つめる光。

 我ながら、いい逃げ口実を付けられたと思う。これなら一緒の傘で帰りたくないって思われないだろうし、やんわり断れ、

「これなら、……大丈夫でしょ?」

 なかった。

 ふわりとあたしの腕に柔らかな光の肩がもたれかかってくる。

「きっと傘、残ってないよ。急に降り始めたから、みんな貸し出し中だと思う」

 バカ、あたしのバカ。これじゃあすごい断りにくくなったじゃないか。

「け、けど」

 噂になったら困るのは、光のほうじゃ? そう、言おうとしたら、

 ――「だめ?」

 あぁ……。

 光の顔、超急接近、上目遣い、…のっくだぁーうん。

 ……まぁ、いっか。

 あたしが光に甘えられたらどんな事でも断りきれるはずもなく、あえなく撃沈することになってしまった。

 誰も知り合いいないみたいだし…少しくらいなら、いいよね。

 

 ******

 ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん。

 李子は雨の日が好きじゃないと言っているけれど、私は大好き。

 それには色んな理由があって、紫陽花がとても綺麗に見えるだとか、雨が落ちるたびに鳴る音を聞いていると心が落ち着いてくるだとか。そんな些細なことはもちろん、小さい頃家の中でおママゴトするのが大好きだったあたしは自然と雨が降ることを心待ちにしていたことだとか、中学校のときの部活は雨が降ると中止になったので李子が一緒に帰ってくれただとか、あたしの中ではとっても大きなものまで。

 それに、いい思い出がつまっている。

 大部分は李子との思い出で、初めて彼女と出会ったのも、初めて家にお呼ばれしたのも、初めて手を繋いだのも雨の日だった。

 そして――忌々しい、彼が私の前から消えてくれたのもこんな雨の日だった。

「ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらんらんらーんっ」

「くすっ……機嫌いいねー」

「そりゃあもっちろん!」

 ……調子いいなぁ。

 そう思ってまたくすりと私は笑う。私は李子の傘の柄を持つ手をきゅっと握った。

 李子の手は、冷たくて温かい。

 先ほど突然、そういえばケーキ食べてない! ってショックを受けていたから私のカバンの中に李緒の分のケーキも入ってるよ、と言うと急に元気になったのだ。

「それじゃあ、今から李緒の家言ってもいい?」

 カバンの中に入っているパンケーキは2つ。1つは私の手作りで、もう一つは相良クンの手作りだ。私が李子の分までもう一つ作ってもよかったんだけど、あの時は少し取り乱していて――そんな風に考えることも出来なかった。

 けど、相良クン、私よりも上手だったから、きっと李子も満足するだろう。少し複雑だけれど。

「うん、オッケー。けど、時間大丈夫? もう結構たっちゃってるけど」

 そう言って李子は私に向かって屈託なく笑いかけた。私は一度だけ頷いて、制服から携帯電話を取り出してお母さんにメールを送っておく。

「李緒の家に行ってきます……っと。うん、大丈夫だよ」

 送信ボタンを押すと私は携帯電話をまたポケットにしまった。

 私のその動作を黙って見届けると、李子はりょーかい、と言って今日の出来事、主に男の子達との話を喋りはじめる。

(……やっぱり、勘違い、かなぁ)

 なんだか李子に避けられている、と思ったのはつい一週間前だった。それは英語の授業のときで、私たちのクラスは男の子と女の子、半々だから男女混ざってペアを組もうということになったんだけれど……李子はすぐに私の所へ来てくれると思っていたのに、私と千代ちゃんを交互に見て、1度苦笑すると、困ったように周りを見渡してからみぃちゃんの所へ行ってしまった。確かにみぃちゃんはこういう男の子との交流が苦手だから組んであげたくなるっていうのは分かるんだけど……。どう考えてもみぃちゃんよりは私のほうが親しいはず、だし。席もずっと近かったのに……。

 それからそのことについて悩みながら李子を観察していると、他にも色んな所でそういうことがあることに気付いてしまった。特に、考えすぎかもしれないけれど、李子から私に話しかけに来てくれる回数がずっと減ったとか……。

 でも――。

「それでね、相良ったらすっごい怖い笑顔見せるんだよー、もうっ」

 私は苦笑して相槌をうつ。

 でも、今の李子を見ているとそんな様子はなさそうだった。少なくとも今だけは。……今だけは私がいつも楽しくなる笑顔を向けてくれている。きっと、やっぱり、勘違いだったんだろう。

 ――そして、やっぱり、先ほどのも勘違いだったんだろう、きっと。……そう、きっと。

 私はこの肩から伝わる心地よい体温を感じながら、そう信じていた。

 

「たっだいまー」

「こ……んにちわ」

 李子は陽気に大きな声で、私は少し緊張しながら玄関に入った。リビングのほうから、おかえりー、とおばさんの間延びした声が聞こえる。私が少しだけ緊張している理由なんて些細なこと。李子が李緒になって、初めてのお呼ばれだったからだった。

「光、どしたの?」

「ぇ……んーん? 何でも、ないよ」

 ふるふると首を振ると、そう? っと言って靴を脱いで玄関へと上がった。

 李子は普段鈍感な癖して、妙なところですごく鋭い。すぐに私の表情の変化を読み取ったりするのだ。長年の付き合いからか、天性のものなのか。

 ……前者だと、嬉しいなぁ。

「お邪魔します」

 私は靴を脱ぎ、揃えると李子の後についていく。おばさんからの出迎えは滅多にない。それは失礼だということではなく、私がよく李子の家に行っていたからきっともう一人娘が出来たと考えてくれているのだと思う。

 それは、とっても嬉しいこと。

「ただいま、もー急に降ってきちゃってさぁ」

「ふぅん、それなのにあんたよく濡れないで帰れたわね。置き傘でもしてあった? ……あ! そういえばあんた頭打ったって祐次から聞いたけど、大丈夫なの?」

「だいじょぶだいじょぶ。ほら、こんなぴんぴん」

「あらまぁ。……ま、あんたが頭打った程度でどうにかなるとは思っていなかったけど」

「それ、どういう意味―!?」

「そのまんまの意味よ」

 少し前でそんな会話をする親子に微笑みつつ、1歩、1歩、リビングへの開かれたドア、李子の傍へ歩いていった。

「お邪魔してます、おばさん」

 私はおばさんから見える場所に立つと、もう一度挨拶してからぺこりと頭を下げた。

 おばさんはしばしポカンとした後、

「あら、あらあらあら? 李緒、あんたまさか――」

「違うって!」

「え、え?」

 私は急な展開についていけずに、首を傾けながらやけに嬉しそうなおばさんとあたふたしている李子を見た。

「どうしたんですか?」

「どうしたも何も、最近光ちゃんうちに来てくれなかったじゃない? だから李緒、振られちゃったのかと」

 そう言っておばさんはにやにやと李子と私を交互に見つめた。

 振られたって、まさか…。

 私は少しだけ苦笑をすると、違いますよ、と肯定とも否定ともとれる言い方を、わざとした。

「だぁかぁらぁ! そーいうんじゃないって! ……光。ちょっと上がってて。何か、飲み物入れたら上がるから」

「あ、うん……」

 少し不機嫌そうな顔で言う李子。きっと、この1ヶ月よくそう言われてからかわれていたのかもしれない。

「お邪魔、しますね? おばさん」

「ええ、どーぞー。汚いけど我慢してあげてねー?」

「汚くないー!」

 あはは、と笑いつつ、頭を下げて先に階段を上がっていく。綺麗好きなおばさんだから、床にはひとつのゴミも落ちていない。

 とんとん、と小さく音がなり、12段ある階段の真ん中――だいたい6段か7段目の所で私は途中で上の階の壁からこちらに曲がって来る、ゆうくんを見つけた。

「こんばんは、ゆうくん」

「あ、先輩……」

 今まで気付かなかったのだろうか、ぽかんと私を見るゆうくん。ぽりぽり、とゆうくんは頬を掻くと、

「どーも今日は愚兄がお世話になりました」

 そう言って小さく頭を下げて苦笑した。

「愚兄って……自慢できるお兄ちゃんでしょー」

 階段の途中、すれ違いつつ、あたしはくすりと笑う。

 ゆうくんが李子を尊敬しているのは話していて分かる。彼が口を開けば1時間の間に5回は兄ちゃんというほどだから。小さい頃、よく李子の後ろを私と一緒に金魚のふんみたいについていったんだっけ。

「あ、先輩」

 ゆうくんは私のことを先輩と呼ぶ。それは彼が中学生になったときについた習慣だ。昔は光ちゃんだった。別にいいのに、と思うけれど、同級生によくからかわれることからそうしたらしい。

「なぁに?」

 振り返って、いやに真剣な表情をしたゆうくんと目があった。

「先輩」

「……?」

 何を言われるんだろう。首を傾けると、ゆうくんは急ににたりとした顔をして手で小さなスピーカーを作りながら小声で、言った。

「簡単に許しちゃ、だめですよ」

「え? ……ぁ」

 意味が分かってとたんに私の頬が朱に染まる。

 ……な、なな何を言ってるんだろう、ゆうくんは。

「じゃあ、ごゆるりと」

 まるで紳士のように手を胸の位置まで持っていって頭を下げると、ゆうくんは口に手を当てて笑いをこらえながら下の階へと降りていく。

 ゆうくん、やっぱりまだ誤解してるんだろうな……。

 私は赤面しながらも、小さく李子とゆうくんとおばさんの喧騒が聞こえる中、動揺を押さえて李子の部屋へと向かった。

 

「ふぅ……」

 ぱたりとドアを閉めてへたり込む。

 久しぶりの李子の部屋は、あいも変わらず桃色だった。別に乙女チックなのではないし、置いてあるものはそれほど女の子っぽくもないのだけれど。

 とにかく桃色。おばさんの趣味でピンク色に染まった壁だった。

 李子は目がチカチカするって言うけど、私は好きなんだよね……。なんだか、落ち着く……。やっぱり、女の子だからかな。それとも、李子の部屋だから?

 私は赤ん坊のように這いつくばって李子のベッドへと移動する。

 ベッドの上に移動して、枕を胸に抱いてすぅっと息を吸うと、フローラルのいい香りがした。小さい頃から全く変わっていない、私の大好きな香り。

 枕を鼻元に移動させて、くんくんと匂いをかぐ。それだけで私は――。

 

 ******

「……さて、どうしたんもんだろう」

 あたしの目の前にはあたしの枕をぎゅっと握り締めて眠りこけているお姫様がいる。オレンジジュースをテーブルに置いてから、あたしは某名探偵のように手を顎に当てて考えた。

 ……どうやってこの眠り姫を起こそうかなー。

 やっぱり定番は王子様のキッスだよねー。こうぶっちゅーっと。

 頭の中で白雪姫の話が展開されている。あたしはじぃっと光のさくらんぼのような可愛らしい唇を見つめた。

 ……無理、あたしそんな度胸ない。ていうかそんなことしたら絶対絶交される……!

 ってことは。

 手を顎から外して、大きく横に広げる。

 やっぱり、これだよねー?

 あたしはわきわきと手を開いたり閉じたりして、

「ひ、か、りぃー。起、き、てっ」

 思いっきり、両脇をくすぐった。くすぐった。くすぐった。いっぱいくすぐった。

「……!? きゃぁー! ……ぁ、あはははっ!?」

 くすぐって、くすぐって……。

「おはよー、光?」

「あ、は……はぁ……。も、も……ぅ、李子ぉ??」

 起きたばかりの光は、散々笑ったあと、ぽけーと半開きの目で睨んでるようで、そうではない熱っぽい視線を送ってくる。

 寝ぼけているのだろうか。

 ……って、いうか、……い、色っぽい。

 頬は上気しているし、目には涙が浮かんでいる。

「お、お持ち帰りしてもいいですかー?」

「……どうぞー?」

 ふやけた表情で光は答える。意味がわかってないみたいだ、しめしめ。

「じゃあ、遠慮なく」

 そう言って背中から抱きしめる。きゅうっと光の感触が正面から私に伝わってきた。

 ぁー……柔らかいー。いい香りー。

 そう言えばこうやって抱きしめるのは本当に久しぶりだと思う。最近やる暇もなかったし。……それに、こんな状況じゃないときっと出来ないと思う。だって、

「……ちょ、ちょっと、李緒! そんな……!」

 光は、照れ屋さんだからだ。

 少しの間じっとしていたけど、時間がたったらあたふたして、顔を真っ赤にしている。あたしが女だって分かってるのにね。いやー、面白い。

「いいじゃんいいじゃん。減るもんじゃないしさー」

 あたしが背中に顔を擦り付けると、

「減るの!」

 思いっきり逃げられた。ベッドを降りて、壁のはしっこまで行っている。そんな光がまた可愛いと思うあたしはもしかしてサドなのだろうか。

「まぁまぁ、そんな怯えてないでこっちきなって」

 そう言ってちょいちょいと手を振る。気分は悪代官様だ。

 ええではないか、ええではないか。

「も、しない?」

「しないしない」

 けど、さすがに光で遊ぶのはこれくらいにしておこうと思う。なぜならあたしにはケーキが待っているのだ。甘い物は主食、食べなければいけないもの。

「むー……」

 恐る恐るといった足取りで近づいてくる光に苦笑しながら、あたしはベッドから降りてテーブルの前に座った。

「さて、例のブツでもだしてもらいましょーか」

 悪代官は続く。

「ぶ、ぶつ? ……あ、ケーキ?」

 光は、もぅっと言いながらもカバンから袋を取り出して、2つの包みをあけてくれた。

「ふむふむ……これはいい一品……っていうか、美味しそ」

 2つとも飾りは違う。たぶん、作った人が違うのだろう。だけど、両方とっても美味しそう。片方は綺麗に出来ているし、もう片方は少し崩れているけど、頑張っているのがありありと見て取れた。

「とっていい?」

「うん、いいよー。……ぁ」

 何か光が言う前に、あたしは片方、頑張っている、と言ったほうをついさっき台所から取ってきたフォークで切っている。そして、ぱくりと食べた。

「おいしー!」

 味はもちろん最高。

 美味しい、とっても美味しい。やっぱり手作りはいいね。

 だけど、何故か光はケーキに手をつけないで私の顔を見ていた。

「ん? どっかしたの?」

 光は急に嬉しそうな声で、

「ううん、何でもない、よ。……うん、ケーキ、美味しいね」

 そう言ってなんだかいつもより2割増しな笑顔をあたしに送った。

 光の口にマッチしたのかな? ケーキ。

 あたしは引き続き、とても美味しいケーキを食べながら、嬉しそうに微笑む光を見つめる。

 それからの会話は、もっぱら明後日から始まる、修学旅行の話。

 ……北海道、どんな美味しいものがあるのかなぁ?

 やっぱり今日も今日とて、花より団子なあたしだった。

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