(6)パンケーキは軽い
太陽がさんさんと降り注いでいる。日光がまんべんなく部屋中に降り注ぎ、もう春真っ盛りという感じ。
こんな天気のいい日は大好きだ。たいした理由は特にないけれど、兎に角良い。ぽかぽかしてて、気持ちよくて、今すぐに外に出て日光浴してみたい気分。けど、女と違って男の姿じゃ日光は浴びすぎると少し身体に毒みたい。けどけど、陰鬱な雨の日と違ってやっぱり気分も明るくなるものだ。心が晴れるってやつだろう。あぁ、本当に今日はいい日になりそう……うん、なったらいいな。
……どうしてガサツでお馬鹿なあたしがこんなにのんびり視線を宙に扇がせて黄昏ているか、というと、それは――。
――ばふっ。
「あっつーッ!!?」
「り、李緒ッ!!」
「李緒クン、大丈夫!?」
目の前に巨大未確認生命体出現、じゃない。こんな状況でぼけてどうする、あたし。
……ふかふかもっふりパンケーキが顔面に激突したからです。
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「だから、どうして生地焦がすのさっ」
あたしはケンちゃんこと蓬健一に軽く叱責する。甘くていい香りの中に香ばしいとは言い難いパンの焦げた匂いが広がっていた。
あたし達の目の前の机には色んな器材が置いてある。計量器、スプーン、ヘラ、その他もろもろ。この部屋には同じような光景がいくつも広がっていた。置くには食器の入った棚がいくつもある――そう、ここは家庭科室。
「しょうがないだろッ。お前と違ってこっちは初めてなンだからさ!」
「でもついさっきそこのオーブンの使い方間違ってるっていったばっかじゃん!」
そう、ついさっき間違いを正したばかりなのだ。わざわざ設定までした。それを変えたのは目の前でとぼけた顔をしている茶髪で中世的な顔をした少年。
「えーと不器用ですから?」
「んなお決まりの台詞吐いてないで早くこの残骸の処理しなさいっ!」
この残骸、もとい真っ黒の物体を指差して叫んだ。隣でホイップクリームをかき混ぜていた相良は目にかかった髪をかき上げてうっとうしそうに言う。
「お前らなぁ…うるさいぞ。もう少し周りの迷惑ってもんを考え」
ろ、と言い終わらないうちにあたしとケンちゃんは叫んだ。
「だってケンちゃんが!」
「李緒が!」
「あー、お前ら」
相良は急に呆れ顔をゾクリとするような笑顔に変えて、
「ちょっと黙れ」
はい、とあたしとケンちゃんの声がハモった。こんな時、あたし達はとっても気が合うみたいだ。
むぅっとあたしは唸りながら別のテーブルを見に行っていた。
結局焦げたパンケーキもどきを処理して、オーブンの中の煤を払って新しく作り直した。今度はちゃんとケンちゃんに触らせないように注意しといたから大丈夫だろう、……たぶん。
あれはケンちゃんが悪い。いやでも、……元女としてはおおらかにたしなめるだけにするべきか。
どうすれば良かっただろう、と葛藤していると、ふいにクラスの女の子から声をかけられた。
「平西クン、平西クーン。これ、どーするの? 上手く膨らまないんだけど」
「あぁ、それはね」
もう男になってから1ヶ月半くらいたつ。このころにはほとんど女子の誰とでも滞りなく喋れるようになっていた。さすがに相手は男女のしこりがあるようで、前と同じようには、って訳ではないみたいだけれど。男になった影響か、男子とはもちろん話せるし……クラス皆友達。一つの大きな夢が達成できるかもしんない。
「ん? ていうか髪切ったんだ? 可愛いー」
やり方を問われたグループの1人である女の子の髪型が前はロングだったのに、ちょっとだけセミロングに変わっている。やだーと照れたようにばしばしと背中を叩かれた。ちょっち痛い。
「李緒クンのたらし」
「たら……っ」
そんな風にあたしが女の子の輪に入って話していると、背後から聞き捨てならない言葉が吐かれて、後ろを振り向くと岬千代子が腕を前に組んで立っていた。
「おまっ、誰がたらしだ。誰が」
「あーたに決まってるでしょ。ほんの1ヶ月くらい前までほとんど女の子としゃべったこともなかった癖して。どういう心境の変化よ」
え、そーなの、と去年別のクラスだった子達が驚く。そんな彼女たちはあたしのことを顔と名前くらいしか知らなかった、らしい。あたしは知ってたし話したこともあったけどねー……軽い喪失感かも。まぁまた友人関係になれた今となっては全然気にしていないけれど。
「あー、それ思う思う。……誰かで慣れた、としか思えないよね」
言ったその子はキランと目を光らせて、その場にいる一人のボーイッシュな髪型の綺麗な少女を見据えた――千代だ。
「ちっよちゃーん。そういえばこのクラスで平西クンと初めに仲良くなったのってあんたよねぇ? あんた達まさか……?」
「なっ、ち、違うわよ!」
強く両手を横に振って誤解を訂正する千代。
「苗字じゃなくって名前で呼んでるし」
ねー、とそう言ったピンクメガネの少女は隣にいた子と声を合わす。
千代、ちょっぴり顔赤いよ。……なんかあたふたしててすごい可愛いけど。
「ねぇねぇ、李緒クン。この子とどこまでいったのー? A? B? それとも…」
そんな千代を見て悦っていたあたしはにやりと口を曲げて、
「えー、それはねー。人によってABCの基準違うからちょっと分かんないな」
適当に答えてやると、きゃー、と周りの女子達がざわめきだす。思い通り千代の顔が耳まで真っ赤になった。
……ほんと、初心だねぇ。あたしなんかでそんな反応してくれるとは。
「ばっ。んなこと私が李緒クンとするわけないでしょ!」
そういえば、千代の恋話って聞いたことないなぁ、なんてことにふと気付く。けど、これ以上からかうのは可哀想だから今聞くのは止めておこう。面白いけど、あとが怖い。
……てか今でもちょい怖い。こら、睨むな睨むな。
「あはは、冗談冗談。それに初めっから話してたっていうとまず光でしょ」
――「ぇ、私が何?」
少し遠くのテーブルから、みぃちゃん、もとい樹美沙と一緒に、出来たパンケーキの表面にホイップクリームを熱心に塗っていた光が、自分の名前に反応してこちらに顔を向け、声を上げた。
「あ、ううん、なんでもないない」
あたしが手をふって言うと、そう? と光は一瞬頭の上に疑問符を浮かべてからまた作業に戻った。
話しに入ってきてもらってもいいけど作業をやりながらっていうのは彼女にとっては不可能だろう。光ってお料理とか不器用なんだよね、実は。ま、そこも新妻っぽくてかわいーんだけど。ん? 新妻?
「あー……じゃあ千代子はないか。ひぃちゃんかな、本命は」
周りがほぅっと息を吐く。クラスでも学年でも学校でも、とびきり可愛い光だから、きっと釣り合わない、とでも思われたのだろうか。
「んー、いや、それは絶対ないない」
だからきっちり否定しておく。それに、光は相良が好きなようなのだ。ここで冗談でも肯定してしまったら相良の耳に歪曲して届きかねない。だから、きっちり否定しておかないと。
「えー? でも2人とも仲いいでしょー?」
「そりゃー幼馴染だし?」
まさに当然、とでもいうようにあたしが答える。
「あ、そういえば物覚えつくかつかないかの頃からなんだよね。じゃあ兄妹みたいなもの?」
何を思ったのか、今度は興味深そうに千代が聞いてくる。だから正直に。
「大しんゆーだよ。あの子とは」
やっぱりその単語がしっくりくる。姉妹というほどプライベートには干渉していないし、けどそれでいて一番心を許せるから。
そういうと千代は怪訝な表情をして、
「男と女で……親友ってなれるものなの?」
「……え?」
そりゃあなれる……? そう言おうとして、詰まった。1つ疑問に思ってしまう。
あたしは今男で、光は女。
大親友。あたしは今でもそう思っているけれど、彼女もそう思っていてくれているんだろうか。
考えて、ちくり、と胸が痛む。何か答えようとして顔を上げると、
――「李緒、李緒―ッ。出来たぞー!」
突然の大声でそんな僅かな不安は一瞬で吹き飛ばされることになった。先ほどのトラブルメーカーが小さなお盆にパンケーキを乗せて走りよって来る。
……なんか、犬みたいで可愛い。わんわん。
「おー、いい感じー?」
盆に乗せたパンケーキが揺れる揺れる揺れる。落ちないかな、なんてちょっと心配に思っていると、気付いた。
「……へ? ちょ、おま、まっっ」
今思うとそれがまずかったのだと思う。
「え?」
どうした、という感じで立ち止まるケンちゃん。
そう、パンケーキは軽いのだ。急スピードの状態で止まると、慣性の法則が働いて盆からパンケーキが宙を飛ぶほどに。そう、飛ぶ。飛ぶ。飛ぶ。
ぁ、飛んだ。
「あ」
ふわふわふわふわ。
避けれる。何とか避けれるけど後ろにはたしか……。
あたしは一度後ろを見て、前を向きなおす。
そしてケンちゃんの驚いたようなお顔。
ドジッ娘。いや、この場合はなんて言うんだろう。ドジ、ドジドジ……け、ケンちゃんのバカーッ!!
……で、初めにモドル。
――ばふっ。
「あっつーっ!!?」
「り、李緒ッ!!」
「李緒クン、大丈夫!?」
初めは、ぽん、って当たって落ちるだけだと思ってた。けど、まだほんのり、いや結構ペースト状。
……ケンちゃん、タイマー止まる前にオーブンからだしたな。
べちゃり、と熱いものが顔にかかる。
「つぅっっっっっっ!!!?」
熱い、熱い熱いー!?
あたしの身体は間抜けにもよろめいて、よろめいて……。
――がんっ。
あたしは後頭部からテーブルの端へぶつかった。
「李子っ!!」
光の駆け寄る声が聞こえる。
あたしの意識は暗雲の向こうへと引きずりこまれていった。
け、ケンちゃんの……バ、カぁ……。
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困った――。
今は終わりのSHRの真っ最中。担任のセンセが修学旅行はもう3日後なんだから用意は早めにしとくように、と告げている。今日は欠席者もいなく、この教室中の席は全て埋まっている、はずなのだったのだけれど、あたしの前の席だけがぽっかりと空いていた。
私ははぁ、と1つため息をつくと先ほど、つい一時間ほど前に起った事故について考えている。
――ホント、困った。
まぁ……李緒クンが結果的に気絶したのはこの際気にしないことにする。いや、全然気にしていないわけではないんだけど、彼、あの後すぐに寝息たて始めたし。保険のセンセもタンコブ出来てるから病院行くほどでもないって言ってたし。火傷もそんなに、らしいし。だから、たぶん大丈夫だろうってことで気にしない。
問題は、2つ。
1つ目は……。
私は教壇から2つ後ろの席へと目をやる。席主はぼうっと上の空。
1つ目は光が相良クンではなく李緒クンのことが好きなのかもしれないってこと。李緒クンが頭をぶつけたとき、あの焦り方は尋常じゃなかった気がする。倒れた李緒クンに寄り添って何度も何度もリコ、リコ、って。
……ちょっと待って、リコって誰よ? 聞き覚えのあるような、ないような。けど、周りの子はそのことに関しては全く話題に出さなかったし、きっと私の聞き間違いなんだろうな。
まぁ、とにかく光がどちらを好きなのかは保留しておいたほうがいいのだと思う。そう、しておいたほうがいいのだ。実はというと、私は李緒クンのことがちょっと気になる。けど決して好きなのではない、たぶん。たんにカッコいいなってくらいだ、……たぶん。だって昔から、私が彼を初めてみた中学校の入学式のときから彼の傍にはいつも光がいたんだから。光は可愛い。女の私から見ても本当に可愛い子だと思う。女としての機能だけなら勝てるはずもない、なんて思ってしまうほどだ。
……じゃあ光がいなかったら? そして、光が相良クンが好きなら、彼はフリー?
「……っ」
……な、なに考えてんのよあたしは。おかしい、絶対おかしい。うん、これは気のせい、気の迷いよ、と首を振ったところで室長が席を立つように号令を言った。
――ガタッ、ガララッ。
光が私たちに一言の別れも告げずに、教室を足早に出て行く。これは、とても珍しいことだ。
「やっ!!」
今はテニス部で乱打のメニューをこなしている。私は力を込めて相手のコートに打たれてきたボールを強く打ち返す。
――ガシャンッ。
が、ボールはラインより大きく奥に落ちて、ネットに大きな音を立ててぶつかった。ごめん、と手だけで相手の子に謝ると、後ろで順番待ちしていた子にコートを譲る。
はぁ、とため息。すると突然背後から肩を軽く叩かれた。
「きゃっ」
「わっ、何て声出すのよ、あんた……」
驚いた顔をする体育会系の背の高い少女を睨みつけると、逆に目をのぞきこまれて、怯む。
「荒れてんね、千代」
「……もうっ、分かってるわよ。そんなこと」
そう。分かってる、分かってるのよ、そんなこと。
もう1つの問題。……彼がパンケーキにぶつかる直前に私のほうを振り向いたことくらい。彼の運動神経ならきっと避けることが出来たんだろう、ということくらい。少し反応の遅れていたあたしをかばったのだろう、ってことくらい。
……そして、そのお礼をまだ言っていなかったことくらい。
「……そっか。そうよ、そうなのよ!」
「は?」
「ごめん、それからありがと。私、ちょっとお腹痛くなったから保健室いってくるねっ」
私がそう言うと、彼女はすごく不思議そうな顔をして、
「うん……? 分かった。じゃ、キャップに伝えとく」
「うん、お願い!」
そのままの微妙な表情で立ちつくす彼女を残して、私は足早にテニス場を立ち去った。
そうよ、お礼が言いたかったのよ、私は!
今のこの彼に対するおかしな思いは、きっとこれが原因だと信じながら。
ガラリと無機質な音をたてて保健室に繋がるドアを開けると、保険室特有の消毒液の強い香りが鼻腔を刺激させた。真っ白なカーテンは少しだけ開かれていて、近づいてみると、
「あれ……? 岬じゃん」
どうやら先客がいたようだ。その声はちょっと高くて、可愛らしい顔つき。李緒クンといつも一緒にいて、今回の事故の立役者。
「蓬クン、来てたんだ。お見舞い?」
そう言って私が歩き進んでいくと、ベッドで寝付く少年の姿が見てとれた。
「い、いやな。ちょっと怪我しちゃってさ。……ほらっ!」
蓬クンは私に見えるように腕に出来た本当に小さな引っ掻き傷を見せる。
「そのついでにコイツでも見に来てやろー……なんて。アハハ」
……素直じゃないなぁ。
笑っているが声は乾いているし、既にその顔は引きつっている。きっと、罪悪感と心配で堪えられなくでもなったんだろう。現にもうさっき見た引っ掻き傷はもう血の塊が出来ていた。
「み、岬は?」
「……私もそんな感じ」
あたしも、素直じゃない。
憮然とした態度で答えたけど、もしかしたら、いやきっと気付かれただろう。
そこでちょっとした沈黙がはしって、少々気まずくなったのか彼は言った。
「俺さ、もう戻るな。部活の途中で抜け出してきたからさ、先輩に何言われるかわかんねぇ」
私はうん、と答えると彼を見送る。そこで、あれ? と思う。
「ね、光は?」
「光? ……あぁ、本条のことか。わかんね。もう帰ったンじゃなねーか? 見てないぜ」
……そっか、もう帰っちゃったのか、光。
「そう……。ありがと」
私が少し微笑んでお礼を言うと、蓬クンはそれじゃッ、と片手をあげて保健室を出て行った。パタンと小さな音をたてて保健室のドアが閉まる。しん、と静寂が訪れた。
あたしはベッドに横たわる李緒クンの寝顔を覗いた。
……きれいな顔。周りの子たちがきゃーきゃーいうのも分かる気がする。
少し茶色がかったきめ細かい頭髪。染み一つない肌。大きく切れ長の目元と長い睫。ほどよく高い鼻。そして、キスすれば気持ちよさそうなふっくらとした唇。
キス……。キスって気持ちいのかな。
興味はあるけれど経験はない。そもそも元来のおせっかいな性格のせいか、他人の色恋沙汰には何度も関係しているが自分の恋愛事には全くと言っていいほど疎かった。今までに告白された経験は数度かだがある。けど、心の深層部分が強く邪魔をしてとても付き合おうなどと思えなくて、全部断ってきたのだ。そういえば寂しい青春送ってきたんだなー、なんて今更ながら思ってしまう。人並みに恋愛したいとは思っているが男性として意識し、尚且つ気に入る相手が皆無に等しかったのだ。
でも、今目の前で無防備にも寝顔をさらしていらっしゃるのは皆無に等しいといった、ただ一人の例外。ちょっとだけ気になっている人。うん、ちょっとだけ。
じぃっと李緒クンを見ていると、なんだか顔が火照るのが分かった。
……何、まじまじと男の子の顔なんて見ているんだ私は。
「ん〜……」
私の体がビクリと震える。李緒クンが寝返りをうったのだ。そして、何やら布団の中でもぞもぞと動く。起きたのかな、と思って顔を覗きこんだけれど、それは杞憂で、幸せそうな顔で寝息をたてていた。
私はくすりと笑って立ち上がり、少しずれた掛け布団を直してあげようと前かがみになる。
……なんだか、子供みたい。
手のかかる子供。私は人一倍おせっかいだ。それに比例して母性本能も人一倍高いと思っている。だから、こういう無防備であどけない姿をさらけだされると、すごくどきどきして、愛しく思ってしまうのだろう。そう、この心臓の鼓動は母性本能からくるものだ。きっと、そうに違いない。
そんなことを考えていると、突然李緒クンの顔が歪んだと思うと彼の手が伸びてきて左腕を掴み、引っ張った。
「きゃっ、ちょ、ちょっと……!」
引っ張られて、私が李緒クンを傍目押し倒しているような構図が出来上がる。私は顔を真っ赤に染めあげて、どぎまぎしながらも急いで立ち上がろうと試みた。けど、
「……か……ないで」
「……え?」
寝言だろうか。李緒クンの口からそんな言葉が出てきた。と、言ってもよく聞き取れなかったのでだけど。でも、なんだか行かないでって言っている気がして、私の体はそのまま固まる。すると、彼の悲しみに歪んだ表情がぱっと初めの幸せそうな表情へとかわった。私は、なんだか嬉しくなって微笑んで李緒クンの髪をなでる。もっと、もっと、幸せそうな表情へと変化した気がした。
そして、また、愛しくなる。
思わず、求愛行動を実行したくなるほどに。
……キス、したい、かも。
どうしてこんなことを思ったのかは分からない。ただ、欲求がそれを訴えてきたのだ。
私は、少しずつ、顔を近づけさせる。
その時、急に理性が訴えた。
ダメ、止まって。李緒クンは光の想い人かもしれないのよ? 裏切るなんて、そんなこと。
欲求が訴えかける。
どうして? そんな確証はない。光が李緒クンのことが好きだったのなら元々仲のいい2人のことだ。恋愛にも発展する可能性も十分ある。そんな状況で光があそこまで思いつめるなんてあまり考えられない。それに、光が相良クンを好きだと予想していたのは私自身じゃないか。
そして……現に、現に光は眠る李緒クンを置いて、帰ってしまったじゃないか。
徐々に、徐々に、顔が近づいていく。あと一歩。あと一歩だ。もう少しで――。
――「ちょっと、何、してるの? ……千代ちゃん」
え?
即座に身体を反転させて声の主を見る。
身長が低く、ぱっちりと大きな目とセミロングの髪の可愛らしい最も親しい友人の一人――本条光だった。
「……今、何、しようとしてたの?」
驚いたような顔がすっと引き、光は人形のように冷たく、機械的な笑みを浮かべた。
先ほどまで透き通るように晴れていた空には、ぽつり、ぽつりと雨雲がまばらに広がっている。もうすぐ、雨が降ってきそうだ。