(1)まさか、幽霊……!?
あたしの朝は騒音から始まった。
ぴるる、ぴぴぴぴぴぴぴっ――部屋中に無機質な携帯のアラーム音が響き渡ったからだ。
「ん、ん……」
……んあ? ……アラームなんて設定、したっけ?
「っかしいなぁ……」
あたしは寝たままの体勢でごそごそとベッドの下に置いてある携帯を探る。……ん、あったあった。女の子にしてはあまり飾り気のない、クマのキーホルダーだけついた携帯を開くと、
……はあ? 六時半って学校用のアラームじゃん。まだ冬休みだっての。あたし昨日こんな設定したっけ、もしかして今日何か用事が……。うーん……。だめだ、小さいおつむで考えちゃったけど全然覚えてない。きっと間違えだよね、うん。昨日は初詣でテンション上がってたし。まだちょい眠いし、二度寝するかなー……って、
「あー……」
そういや昨日お風呂入ってない、じゃん……。起こしてくれなかったな、お母さん。もお、夕飯も食べてないしー。その割にはあんまりお腹は空いてないけど……昨日屋台で食べ過ぎたせい? 太らなきゃいいけど……兎に角早く起きてシャワー浴びなきゃなあ。
のそり、とあたしは立ち上がって背伸びをする。
……あれ?
その時、身体がふわりと持ち上がったときに気付いた。
何だかすっごく体が軽い……。昨日はだいぶ歩き回ったからてっきり筋肉痛にでもなってるかと思ったんだけど。……んー! 絶好調だぁ、部活でいつも鍛えてるからかな。
あたしは鏡台に毎朝使っている基礎化粧品を取りに行こうと、ゆったりとした足取りで人口毛の絨毯を踏みしめる。その時、ふいに視界の隅に何かが眼に止まった。
……パンツ。
「もうっ、お母さんったらまた祐次のパンツ置いて行ってー……たく。しかも制服まで……めんどくさいなぁ」
壁にかけられた男物の制服を一瞥すると床下に置いてあった一つ年下の弟のパンツをつまみあげる。すると、ふと目に入ったものがあった。
――男。
「え」
鏡に映った姿はパンツを左手に下げた、男の姿。
は? どうしてあたしの部屋に男の人が?
きょろきょろと部屋全体を見渡すけど誰もいない。何かの見間違いかと何度か目を擦って再度鏡を凝視した。
……まだ、いる!
まさか、幽霊……!?
背筋が薄ら寒くなってパンツをそのまま右手から離したら彼も同時に左手からパンツを離した。ぱさりと足元に迷彩色のパンツが落ちる――彼の足元にも。
「なっ……!」
あたしが恐る恐る近づいて顔を近づけたら彼も近づいてきて……。
ペチペチ。頬を叩いてみる。向こうの彼も、頬を叩いている。
……。
……。
……は!?
「な、な、なななななぁ何これーっ!!?」
ガチャっ――後ろのドアが急に開いた。
びくっとあたしの体が震える。そして背後から低い男の声が響いた。
「っせぇなぁ……何叫んでるんだよ?」
ドアを開けて進入してきたのは平西さんちの祐次君、……じゃあなくてぇ!
「お、おまっ……こここここ、これ」
震えた声であたしは祐次に見えるように自らの顔を指差した。
「はぁ? 兄ちゃんっ……自分の顔指差して……ついに我が家にもナルシ誕生か?」
「えええ? 違っ、これ、これ、おかしく、おかしくない?」
「何が? ……それより俺学校行くの2回目で道あんまり分かんないかもだから一緒に連れてってって昨日いったっしょ? だからさ、もちっと早めに起きといてよ。飯食ってたらギリギリじゃん」
に、兄ちゃん? てかあんたはまだ中学生なはずじゃ……。それに今日はまだ冬休みなはずじゃー。
「ね、今日って……何日?」
「痴呆か、兄ちゃん。今日は四月十日! 入学式!!!」
……は?
兎に角早く着替えてくれよ、と祐次は部屋を出て行ったけどあたしの脳裏には何故という2文字が渦巻いていた。
あたしの空白の四ヶ月は? あたしって局所的記憶喪失だったの? っていうかあたし……。
「んな馬鹿な…」
もう一度鏡を見て眩暈がした。
――男だ。
「お、おお男だー……」
あたしは顔の筋肉を引くつかせて笑みを作る。もう、笑うしかなかった。
何が楽しくて男にならなくちゃいけないのか。あたしの心はれっきとした乙女ですよ?
起きたときは分からなかったけど低い声、それに角ばった身体、それは完全に男のものだった。
「あたしの体なんだよね……? これ」
ちょっと、待ってよ…。よく見ると顔の造形はそんなに変わってない気がするけれど…元から小さかったけどあるにはあった胸も存在しないし、身長も高くなっている。
……そういえば下半身にある違和感。
「ぇ。………………ぎゃーっ!!!!?」
あたしの絶叫は部屋中に激しく木霊した。
人間開き直れば、いや、普通の女の子だったら発狂するかもしんないけどあたしの場合はちょっと違くて、普通に開き直っちゃったのだ。だって……いつ戻れるか分かんないし。それまで男でいようじゃないか。楽しんでやろうじゃないか、あっははは……なんて気にもなるはずもないわけで、あたしも普通の女の子だ。ひとしきりネガティブになったらちょっと回復しただけです、はい。こんな状況になってひとっかけらも涙がでなく、何となく現状を受け入れているのはあたしの神経が図太いだけ。
あたしはとりあえずかけてあった制服をとまどいながらも着て――制服はよくよく見るとうちの学校のもので、ネクタイが赤色、二年生のものだった――、二階にある洗面所で顔を洗い適当に整髪もしてリビングまで降りた。
「おはよ……」
「おはよー、李緒」
「ったく遅いよ兄ちゃん!」
祐次はバタートーストに齧り付きながら不機嫌そうに、お母さんはいつも通りあたしに挨拶してくる。ちなみにお父さんは6時くらいにもう仕事に行ってしまうのでこの時間帯はいない。あたしはトーストに苺ジャムをたっぷり塗りつけて少し齧った。
やっぱりお母さんもあたしのことを男の子だと…………ちょっと待て李緒って誰だ、李緒って。
「お母さん、李緒って……もしかしてあたしのこと?」
「は? あんた以外に李緒なんてどこにいんのよ? それにあたしって……気ぃでも触れた?」
「母さん、言ってやってよ。兄ちゃんさっきから変なことばっか言ってさぁ」
「……なんでもない」
祐次にぶつぶつ言われながらもあたしは黙って、というより考えながら黙々とパンを口に運んでいく。
と、いうかお母さん、そのいい方ひどくないですか? 男になったって気づいたときよりもショック激しいんですけど。
……こっちの世界ではあたしは李緒らしい。ていうかもしかしてこの世界はファンタジー小説とかでよくあるパラレルワールドってやつだろうか?
いや、でも……ちょっと違うよなぁ。全然世界が違うってわけじゃないし、あたしだけが呆けちゃったみたいな。
やっぱり例え信じられなくてもお母さんに相談したほうがいいかな……。これであんた寝ぼけてるの、とか言われたらさすがに泣いちゃうかもだけど……。
トーストを全て頬張り、温かい牛乳で一気に流し込むと意を決して尋ねようとあたしは口を開いた。
「ね、お母さ――」
ピンポーン。
「あ、ほらっ、李緒、光ちゃん来てくれたじゃない! 待たさないように早く学校いってらっしゃい! あ、今日から祐次もだったわね、いってらっしゃい。2人とも気をつけなさいね」
「……はい」
言おうとしたことを突然の訪問によってうやむやなまま飲み込んで祐次と玄関まで向かった。
……こっちでも光は毎日迎えに来てくれるんだ。けど、憂鬱……光にまであたしが昔から男だって思われてるんだろな……。
「おっはよぉ」
ガチャッと、とってを回してドアを開けると光が立っている。あたしは内心の陰気を隠し、いつものように挨拶した。
「おはようございます、先輩」
「え……」
呆然とした顔で立っている光。
「ゆうくん……?」
「はい?」
「あの……この人どなた?」
「この人は平西家の長男、平西李緒様っ……って先輩、もしかして昨日にでも兄ちゃんと合わせました? 兄ちゃんもちょっとばっかおかしなこと言ってるしー」
「李……緒さん?」
あたしの姿を見てすごく怪訝な表情をする光。ま、まさか……。あたしは1つの推論にいきついた。
……光は、あたしのことを知っている?
「光、ちょっとっ。ごめん、祐次、ちょっと離れてついてきて!」
「あ、あの」
小走りであたしは光を連れて、早足で前を歩いて行った。
後ろから祐次の、やっぱ兄ちゃんと先輩ってそういう関係だったのか……、へーへー、2人の愛の時間なんて邪魔しませんよー、と何やら冷やかす声が聞こえるがこの際気にしてられない。
「あのっ、いったい何なんです」
「あたしっ、李子!」
切羽詰ったような嫌悪の含まれる光の声を掻き消すように小声で叫ぶ。
「え、え?」
「信じられないかもしれないけど、信じてくれるともあんまり思ってないけど、あたし、李子なの! 昨日初詣があって、起きたら今日がいきなり、『今日』になってて、それで鏡見たらいつの間にかこんなのになってて…」
「李子……?」
「周りの人は昔からあたしが男だったみたいなふうに接すし、わけ分かんないよ……」
あたしは一気に全部話し終えると肩を落として光を見る。光は初め目を丸くして聞いていたがすぐにあたしの手を握って、
「うん、信じる」
「ほんと……?」
「だって私もだもの。起きたら今日がもう四月十日でびっくり。よく見たら李子の面影もちゃんとあるし、言葉のイントネーションとかもすっかり李子だし」
「そ、そう……良かったぁ。……こんな姿になっちゃって嫌われたらどうしようかと思っちゃって……」
心底安堵してあたしは光の手をきゅっと強く握った。
ほんと、良かった……。
「それにね、私、良かったよ? 大好きな李子も同じ境遇になってくれて」
「ひかりぃっ」
そんな何気ない言葉に感動してあたしは光を正面から抱きしめた。あたしも、あたしもちょー大好きだよ、光……!
「り、李子、ちょっと」
ん?
少し体から光を離すといやに光が顔を赤くして口をパクパクさせていた。
どうしたんだろう? いつものことなのに……。
「お二人さぁん、何話してたのか知らないけど実の弟の前でいちゃつくの止めてくれませんかねぇ?」
「祐次!?」
いつの間にかすぐ後ろに近づいてきていた祐次がいた。気づかなかったけどあたし達は立ち止まってたらしい。
……あぁ、光が驚くのも無理ないよね、あたし今男じゃんか。誤解されちゃ嫌だよね……。
ちょっと、あたしはいじけた。
「別にさぁ、隠れてやってくれるんならいいけど……で兄ちゃん、いつからなんだ? 弟に隠してるなんてさぁ」
「や、これは……ち、違うんだって? ね、光?」
「さぁ? どうだろうね」
光は意地悪に微笑む。
「ひ、光?」
「どうなんだよ、吐きやがれっ」
戸惑いながらあたしは光を見るけど微笑みながら知らんぷりをして少しだけ先に歩いて行ってしまった。
(ちょ、ちょっとぉー!? 光のバカぁ!!)
それから祐次に何度も聞かれながらも適当にはぐらしつつ、気づくといつの間にか学校の近くまで来ていたのだった。