イノセンス
“一度会って話がしたい”
あの男から手紙が来たのは姉が死んだ5年後、猛暑の日だった。
両親と幼馴染のイツキは会いに行く事を反対したけれど私はその翌日、誰にも言わないであの男がいる刑務所へ足を運んだ。
面会室のパイプ椅子に座って待っている間、緊張で膝に置いていた手が震えていた。
透明の仕切り版の向こうの扉が突然開き、刑務官に連れられ、囚人服を着たあの男が現れた。
5年前、テレビで見た彼を思い起こさせる。
5年前、私はまだ高校生でテレビもアナログでイツキはバイクの免許を取っていなくて両親も仲が良かった。
坊主頭に微かに剃り残した髭。
鋭い切れ長の瞳は悲しみを孕んでいるような気がした。
「来てくれてありがとう」
仕切り版の向こうで彼は微かに微笑んだ。
私は手の震えを隠すため、ぐっとスカートの裾を強く握った。
「……ミヤコさんだね。サヨコからよく話を聞いていた。明るく活発で優しい妹だと」
姉がこの男に殺害されてから誰も姉の名前を出すものはいなかった。
だから久しぶりに聞いた姉の名前に私は思わず涙が出そうになった。
私は強く息を吸い込むとゆっくり言葉を吐き出した。
「私も、一度あなたとは会って話がしたいと思っていたわ……。今日はどうしてもあなたに聞きたい事があってここに来る決意をしたのよ。……どうして姉を、私の姉を、あんな酷い殺し方をしたのよ……!!」
5年前、自室で倒れる姉を見つけたのは私だった。
あの時、姉はまだ少し意識が残っており、私がいるのに気づくとこの男――ツガの名前を呟いた。
それが姉の最後の言葉となった。
そして私は姉が自分の血で残したダイニングメッセージを発見した。
「11つ」
それが「11、つが」だという事はすぐに理解できた。ツガは私の父が経営する工場で働いていて、そこの工場は従業員を番号で呼んでいた。
ツガの番号は11。
私も警察もツガが犯人だと信じて疑わなかった。そして彼には過去に一人の人間を殺しているという前科があった。
姉を殺したのは出所してから二年後の事だった。強盗強姦致死罪。姉はどんなに屈辱だったろうか。どんな思いで死んでいったのだろうか。
「私はあなたを許さない。私が死んでも、許さないから」
姉はツガを愛していた。
姉の一目ぼれだった。更生して出てきたとしても犯罪者である事に変わりない男に両親も私もイツキも皆が反対していた。
特にイツキは過去に姉に好意を寄せていた所為もあってか、家族より猛反対だった。
そしてイツキは5年間ずっと姉の命日になると月下美人の花束を持ってきてくれる。
何故、月下美人かと言うと姉の胸にその刺青が入っているからだ。
「あれから5年も経った。ミヤコさんはもう20歳か?サヨコの年を追い越してしまったな……」
姉が死んだのは18歳。生きていれば23歳。
「うるさい!!あなた、ちゃんと反省してるの!?一言くらい謝ったらどうなのよ!!」
仕切り版を強く叩きつけて私は涙を流した。
家でツガの事をいとおしげに話す姉の姿が脳裏に浮かび、悔しくて悔しくてたまらない気持ちになる。
「俺はサヨコを殺してない」
「……は?何言ってんのよ」
「殺すどころか強姦さえしていない。今日はあなたにそれを伝えたかった」
胸の前で両腕を組み、私から視線を逸らそうとしないツガが憎い。まっすぐに向けてくるその眼差しがそれを本当だと言っている様だった。
確かに彼を捕まえた動機は姉が残したメッセージと姉が最後に呟いたあの言葉を私が警察に話したからだ。
「ちゃんとDNA鑑定はしたのか?裁判の時、俺を守ってくれるはずの弁護士でさえ、俺を犯人だと決めつけて刑の軽くなる方法ばかりを押し付けてきた!それでも結局俺は死刑だ。確かに俺は過去に人を殺した。だが、サヨコは殺してない!」
「どうして今更そんな事言うのよ!信じると思ってるの!?冗談じゃないわよ!」
「面会時間は終了です」
立ち会っていた係官が腕時計を見ながらそう言い、私もツガもそちらに視線を動かした。
「そんな話を聞きに私は来たんじゃないわ。あなたに一言謝ってほしくて来たのに……」
「俺は、殺してない」
どうして今更そんな事を言うのだろうか。
今思えば彼はきっと、未来が見えていたんじゃないかと思う。
上着と鞄を持ってパイプ椅子から立ち上がる。
「帰るわ。……そうだ、この時計覚えてる?」
私は左手首に巻きつけた腕時計を仕切り版越しにツガに見せた。
ツガは目を細めて腕時計をしばらく見つめていたがやがて「サヨコのか?」と呟いた。
そして。
「その時計、秒針が止まってるらしいな。サヨコが言ってた。母親が事故で死んだ時刻で動かなくなったって」
彼が刑務官に連れられて面会室から出て行く様を私はジッと見つめた。
それから腕時計の冷たい表面をそっと撫でた。
――その翌日の朝十時、ツガの死刑が執行された。
「私、昨日ツガに会いに行ったの」
姉の墓の前で手を合わせる彼の後ろで私はそう呟いた。
案の定、彼は慌てて振り向いた。
イツキの腕の中には月下美人が咲いている。
ツガの死刑が執行された祝いで持ってきてくれたのだ。
「な、何で!駄目だって言っただろ」
「どうしても一言謝ってほしくて……。そこでね、ツガが言うの。お姉ちゃんを殺してないんだって。今更って感じだよね」
「それで……?信じたのか?」
「私ね、ずっと心の中に違和感はあったの。だけど敢えてそれに気づかないフリをしてた。ずっと。どうしてあの日、姉の部屋の窓から簡単に忍びこめたのか。どうしてイツキは姉の胸に月下美人のタトゥーがある事を知ってるのか。だからその花束、持ってきてくれてるんでしょ?」
「どうしてって……。サヨコが言ってたじゃん。月下美人のタトゥーを入れたって」
「言わないよ。だってお姉ちゃん、パパとママにだってバレたら怒られるからって言わなかった。それにイツキは昔からパパとママの手先みたいなものだったからお姉ちゃんがタトゥーの事、言うはずがないのよ」
出来れば信じたくない。
私の考えが間違ってるって言ってほしい。
「考えてもみたの。お姉ちゃんが残したダイニングメッセージ、あれはもしかしたら“11、つが”じゃなくて……11じゃなくて“い”。いつき。あなたがお姉ちゃんを殺した……!!」
昨日、私はどうしてもツガが嘘を吐いてるとは思えなかった。
私はツガを憎んでいたけれど、彼の真剣な目と言葉を見て聞いた。
「……きっと世間は今更、俺が犯人だって信じないだろうから白状するよ。あの日、サヨコを犯して殺したのはミヤコ。全部お前の言った通りだ。だから俺はサヨコの胸に月下美人のタトゥーがある事を知った。だって……だって!!俺はずっとサヨコが好きだったのに愛してたのに……!!あいつはあんな犯罪者を好きになって!!おかしくないか!?俺の想いを踏みにじったくせに!!サヨコを愛してたから俺はあの日、窓から侵入したんだよ。俺の家からは簡単に入れるから……。でも殺すつもりはなかったんだ。サヨコはツガの名前を呼ぶから……ついカッとなって……」
涙しながら話すイツキを見てられなくなって、私は息を吐き出して強く強く目を閉じた。大変な事をしてしまった。
私達は勝手に決めつけ押し付けて誰一人、彼の言葉を聞いていなかった。
――あの日。
「お姉ちゃん!!」
血まみれで倒れる姉の姿を目撃し、私は悲鳴を上げた。
慌てて姉の傍に駆け寄って微かに動く彼女の口に耳を寄せる。
「あ……あか、……」
「赤?血なら心配しなくていいよ!!待っててね。すぐ救急車呼ぶからね!!」
立ち上がって電話をかけたかったが、姉に手を握られているため、身動きが取れなかった。
「お姉ちゃんお願い放して!!救急車呼ばなきゃ!!ね!?」
「……あ、赤ちゃ……がいる……の」
突然の姉の告白にハッとして私は思わず尋ねた。
「それって……ツガさんの子?」
姉は弱弱しかったけれど、その命を伝えるためにゆっくり頷いた。
「そう……そう!!だったら死んじゃ駄目ね!!お母さんになるんだからね!!」
姉に笑顔を向けながらそう励ましていると階段を駆け上がってくる音を聞き、振り返ると幼馴染のイツキが息を切らしてそこにいた。
「サヨコさん!!ミヤコ、一体どうしたんだ!?」
「分からない!!イツキ、お願い!救急車を呼んで!!」
「あ、ああ!!」
イツキはうろたえながらもそう答えて階段を下りていく。姉の唇がまた少しだけ動き、何かを呟いたけれど私はそれを聞き取る事ができなかった。
「…………ツガ……さん」
現在。
ツガは姉を殺した罪で死刑になり、もうこの世にはいない。
そして姉の墓の前で、イツキは身を縮めて泣いている。
私は足許に転がるイツキの背中を見下ろしながら、震えるその手で顔を覆った。
すると、姉と母の形見である腕時計から一定のカチカチというリズムが私の耳に届いた。