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8 フィオナ

 ロトに特効薬を投与した瞬間、ユノの胸に張りつめていた糸がふっと緩んだ。

 弟の呼吸は穏やかになり、頬にわずかな血色が戻っていく。

 その光景を見たユノは、ようやく――ほんの一瞬だけ――自分が「自由の身」になったことを実感した。


 だが、その自由は甘くなかった。

 ザックの姿が脳裏に浮かぶ。

 血にまみれ、剣を振るい、自分を逃がすために城へ取り残された男。


(ザックを助けなきゃ…)


 ナディアはロトの容体を確認しながら、ユノに静かに言った。

「ロトはもう大丈夫。あなたはあなたの戦いをしなさい」


 ユノは深く頷き、ロトの手をそっと握った。

 その温もりが、彼女の背中を押す。


「ナディア、ロトをお願い。必ず戻るから」


「ええ。あなたも無事で帰ってきて」


 短い言葉の中に、互いの信頼が込められていた。


 ユノは診療所を出ると、夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 城の裏路地は静まり返り、遠くで警鐘の音がかすかに響いている。

 ザックが戦っている証だ。


 ユノは迷わなかった。

 向かうべき場所は一つ。


 ――本物の将軍、フィオナ・リディアスのところだ。

 王国の未来を左右する力を持つ人物。


 フィオナの秘密の療養室は、城の奥深く、限られた者しか入れない静寂の領域にあった。

 ユノはスラムで培った隠密の技と、将軍として学んだ城内の構造を組み合わせ、警備の目をすり抜けながら進んだ。

 廊下の影から影へ、階段を駆け上がり、封鎖された扉の裏を抜ける。

 その足取りは迷いがなく、まるで運命に導かれているかのようだった。


 やがて、城の最奥――重厚な扉の前に辿り着く。

 そこが、フィオナ・リディアスの秘密の療養室。


 ユノは扉に手をかけ、深く息を吸った。


(フィオナ将軍……、あなたに会わなければ、私は前へ進めない)


 ユノは静かに扉を押し開けた。



 部屋の中央――

 薄暗いランプの光に照らされ、フィオナ将軍は静かに横たわっていた。


 しかし、ユノの視線はすぐにその隣へ吸い寄せられた。


 そこには、血まみれで倒れ伏すザックがいた。

 胸元の軍服は裂け、深い傷から血が滲み出ている。

 彼の剣は床に落ち、握っていた手はまだ戦いの余韻を残すように震えていた。


「ザック……!」


 ユノは息を呑み、膝をついて彼に駆け寄った。

 その手は震え、声はかすれていた。


「大丈夫……ナディアがきっと……すぐに……」


 言葉は途中で途切れた。

 ザックの顔は蒼白で、呼吸はかすかに上下するだけ。

 彼がどれほどの敵を相手にし、どれほどの覚悟で自分を逃がしたのか――

 その事実が胸に突き刺さる。


 その時だった。


 静寂を破るように、部屋の奥から弱々しい声が響いた。


「……騒がしい」


 ユノははっとして振り返る。


 ベッドの上のフィオナ将軍が、ゆっくりと瞼を開けていた。

 その瞳は薄い光を宿しながらも、鋭さを失っていない。

 伏しているはずなのに、声には威厳があった。


 ユノはゆっくりと立ち上がった。

 そこには、自分が模倣し続けてきた――本物の将軍、フィオナ・リディアスがいた。


 影武者として演じてきた相手。

 王国の象徴であり、兵士たちの希望であり、そしてザックが命を賭して守り続けた“本物”。


 その存在が、今まさに目の前にある。

 ついに、影と本物が正式に対面した。


 フィオナはユノの顔をじっと見つめ、わずかに目を細めた。

 その表情は弱っているはずなのに、鋭い洞察と威厳を失っていない。


「……お前はザックの連れてきた『影』か」


 静かな声だったが、部屋の空気を震わせる力があった。


「ザックから聞いている。私の名を使い、規律を破り……そして大勝利をもたらした、と」


 フィオナの青い瞳が、まるで刃のようにユノを射抜く。


「なぜお前は規律を破った?なぜ、汚い戦術を使った?私が築いてきた立場を壊すためか?」


 その問いには、怒りよりも――悲しみが滲んでいた。

 フィオナにとって“規律”とは、兵士を守るための盾であり、王国の誇りそのものだった。


 ユノはそのことを理解した。

 フィオナは、戦場においても常に「正しさ」を貫こうとした。

 泥にまみれた現実を拒み、清廉な戦いこそが兵士の誇りを守ると信じていた。


 だが――その理想は、王国の腐敗の上に成り立っていた。


 ユノは一歩前に出て、震える声で叫んだ。


「理想だけでは、誰も救えません、将軍!」


 フィオナの眉がわずかに動く。


「あなたの理想は……貴族の利権という泥に塗れていたの!」


 ユノの声は怒りに震え、涙が滲んでいた。


「私は弟の命のため、泥水をすすって生きてきた。だから、泥の中で生きる人々の苦しみがわかる。

 あなたの“規律”は……スラムの民の命を、ゴミのように捨てていたの!」


 ユノは、神鋼石の廃棄物が黒曜熱を生み出していた真実を、貴族たちが利権のためにスラムを汚染していた事実を、そして戦争そのものが虚構であることを――怒りと悲しみを込めて、フィオナにぶつけた。


 部屋の空気が凍りつく。


 フィオナの顔から血の気が引いた。

 その瞳が揺れ、呼吸が乱れる。


「……そうか……」


 彼女は震える手で額を押さえた。

 高潔な将軍が守ろうとしてきた「王国」。

 その根が、内部から腐り切っていたという事実は――理想を信じてきた彼女にとって、耐え難い衝撃だった。


 ユノは拳を握りしめた。


 フィオナは長い沈黙のあと、ゆっくりと自らの胸元に触れた。

 その指先は震えていたが、彼女の声にはまだ将軍としての誇りが残っていた。


「私は……理想を守ろうとするあまり、現実から目を逸らしていたのかもしれない」


 その言葉は、フィオナ自身の心を刺すように重かった。


「私の信念は、兵士を守り、国を守った。だが同時に――貴族の利権を守る盾にもなっていたのだな」


 フィオナは、隣で血に染まったザックを見つめた。

 その瞳には、深い後悔と、優しい微笑みが混じっていた。


「ザックは……私の剣だ。だが今は、お前を守るために命を賭した」


 その声は弱いが、温かい。


「それはつまり、彼の忠誠が“規律”ではなく……お前の中にある“真の希望”に向けられたということだ」


 フィオナはユノをまっすぐに見つめた。

 その視線は、影武者を見ているのではなく、一人の戦士を見ていた。


「契約は終わった。お前は自由だ。もう将軍を演じる必要はない。……すぐに、逃げろ」


 だがユノは、迷いなく首を振った。


「逃げません」


 その声は、影武者のものではなかった。

 スラムで生き抜いた少女の強さと、将軍としての覚悟が宿っていた。


「私はロトを救うために、あの貴族どもを――そしてこの戦争を終わらせなければなりません。そのためには、あなたの“将軍の権限”が必要なんです」


 フィオナは驚いたように目を見開き、そして静かに微笑んだ。


「……分かった。ザックが選んだ道が、王国の未来へ続くのならば」


 フィオナは、弱々しい手でベッドサイドの箱を開けた。

 中には、白銀に輝く指揮章――将軍の象徴が眠っていた。


「影よ……光になれ」


 フィオナはその指揮章を、ユノの手にそっと置いた。


「この指揮章を持つ者は、将軍の権限を代行する。お前は今、『影の将軍』ではなく……私を継ぐ、“真の将軍”だ」


 ユノは指揮章を握りしめた。

 その重さは、金属の重さではない。

 ロトの愛、ザックの忠誠、フィオナの理想――すべてが詰まった重さだった。


 ユノは深く息を吸い、前を見据えた。

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