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7 ザック

 ユノの執務室の扉が、背後で重く閉ざされた。

 その音は、まるで逃げ道を断つ鉄格子のように響いた。


 グレイブ中佐と数名の貴族派士官たちが、ゆっくりとユノを取り囲む。

 彼らの目には、もはや将軍への敬意も忠誠もなかった。

 あるのは、利権を脅かす存在を排除しようとする、むき出しの敵意だけだった。


「残念ながら、将軍」

 グレイブは口元に冷笑を浮かべ、わざとらしく頭を下げた。

「貴方は我々の命令を無視し、権限を乱用した。我々の判断により――療養を“継続”していただきます」


 その言葉は、丁寧な言い回しでありながら、実質的な拘束宣言だった。


 ユノは冷静さを装いながら、机の下で護身用の短剣を握りしめた。

「私が拒否したらどうする?」

 声は静かだが、内側では心臓が激しく脈打っていた。


 グレイブは鼻で笑い、顎を上げた。

「抵抗は無意味だ。我々は、貴方が本物のフィオナ・リディアスではないことを知っている」


 ユノの呼吸が一瞬止まる。

 士官たちの口元には、勝ち誇ったような薄い笑みが浮かんでいた。


「将軍の変調を不審に思い、秘密裏に調査を進めていたのだよ」

 グレイブはゆっくりとユノに歩み寄り、影が彼女の顔に落ちた。

「スラム育ちの小娘が、将軍の名前を借りて我々の利権を暴こうとは――笑止千万だ!」


 その声は、侮蔑と怒りと恐怖が混じった、濁った響きを持っていた。


 ユノの顔色が変わる。

 彼らはロトの病の真実を知っているわけではない。

 だが――ユノが偽物であるという、最も致命的な秘密を握っていた。


 その事実は、短剣よりも鋭くユノの胸を刺した。


 士官たちはじりじりと距離を詰め、出口を塞ぐ。

 ユノの背中に冷たい汗が流れた。

 影武者としての命が、今まさに断ち切られようとしていた。


「ご心配なく、将軍」

 グレイブは傲慢な笑みを浮かべ、ゆっくりとユノに歩み寄った。

「貴方を静かに軟禁する。貴方が我々の指示に従うならば――弟御の命も保証しましょう。もちろん、治療薬の供給は、我々の裁量ですがね」


 その言葉は、刃よりも鋭くユノの胸を刺した。

 ロトの命を人質に取られた瞬間、ユノの体から力が抜け、膝が震えた。

 彼女が命がけで勝ち取った勝利も、兵士たちの信頼も、ロトの命の前では何の意味も持たなかった。


 グレイブはその弱りを見逃さず、勝ち誇ったように顎を上げた。

「やはり“影”は影だ。本物の将軍なら、こんな顔はしない」


 その時――

 扉の外で、激しい衝突音が響いた。


「何事だ!」

 グレイブが苛立ちを露わに叫ぶ。


 次の瞬間、扉が轟音と共に蹴破られた。

 破片が床に散り、冷たい風が吹き込む。


 そこに立っていたのは、血にまみれたザックだった。

 廊下には倒れた警備兵たちが横たわり、ザックの剣先からはまだ血が滴っている。

 彼は中佐らがユノを狙っていることを察知し、迷いなく駆けつけてきたのだ。


「ザック!貴様、将軍を裏切るのか!」

 グレイブは驚愕し、剣を抜いた。怒りよりも恐怖がその声に混じっていた。


 ザックは無言でユノの前に立ち塞がった。

 その背中は大きく、揺るぎなかった。


「ユノ。逃げろ」

 低く、切実な声だった。

 命令ではない。懇願でもない。

 ただ、彼が守りたいものを守るための、真っ直ぐな言葉だった。


 ユノは驚き、ザックを見つめた。

 彼は常にフィオナ将軍への絶対的な忠誠を誓っていたはずだ。

 その彼が、今は自分のために剣を抜いている。


「な、なぜ…?将軍への忠誠はどうしたの!」

 ユノの声は震えていた。怒りでも恐怖でもない。

 理解できない現実への戸惑いだった。


 ザックは一瞬、苦しそうに目を閉じた。

 そして、ゆっくりと開いた瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。


「私の忠誠は、王国の秩序を守ることにあった。

 だが――貴族の利権のために国民が苦しみ、

 フィオナ様が守ろうとした兵士が駒として死んでいくのを見て、私は悟った」


 ザックは剣を抜き、鋭い切っ先をグレイブ中佐へ向けた。

 その動きには迷いがなかった。


「規律だけでは、国は守れない」

「貴様らは、フィオナ様の名を汚し、王国を内部から食い荒らす真の反逆者だ」


 そして、ユノへ振り返る。

 その瞳は、初めて彼女を“将軍”ではなく、“一人の人間”として見ていた。


「私の忠誠は――」

 ザックは静かに、しかし力強く言った。


「ユノ。お前が作り出す、誰も死なせない、新しい王国にある!」


 その宣言は、執務室の空気を震わせた。


 ザックは、かつて将軍フィオナを守るために鍛え上げた剣技のすべてを、今――ユノを守るために解き放った。


 執務室に踏み込んだ貴族派の士官たちは、最初こそ数の優位を信じていた。

 だが次の瞬間、ザックの剣が閃光のように走り、最前列の士官の剣を弾き飛ばした。


 金属音が火花を散らし、士官の腕が痺れ、剣が床に転がる。


「なっ……速い?!」


 ザックは返す刀で別の士官の喉元に切っ先を突きつけ、後ろ蹴りで背後から襲いかかった兵を壁に叩きつけた。

 その動きは、まるで影が舞うように滑らかで、無駄が一切なかった。


 彼は元護衛隊長――

 王国最強の盾であり、最も危険な刃でもあった。


 グレイブ中佐は激昂し、顔を真っ赤にして叫んだ。

「裏切り者め!貴様もろとも、偽将軍をここで処分してくれる!」


 怒号とともに中佐が突進してくる。

 ザックは一瞬だけユノを振り返り、叫んだ。


「走れ!急げ!ナディアのところへ行け!ロトを守るんだ!」


 その声は、命令ではなく――願いだった。


 ユノはザックの背中を見つめた。

 かつては冷酷な契約の管理者で、感情を見せない男だった。

 だが今、彼は自分の命を賭して、偽物である自分を守っている。


 剣を振るうたびに、ザックの背中が揺れ、血が飛び散る。

 それでも彼は一歩も退かず、ユノの前に立ち続けた。


 それは契約ではない。

 命令でもない。


 ――人としての信頼。

 ――ユノの正義への共感。

 ――そして、腐敗した王国を変えようとする意志への忠誠。


 そのすべてが、ザックの剣を動かしていた。


「ザック……!」


 ユノの目に涙が滲む。

 だが、泣いている暇はなかった。


 ザックが剣を振り抜き、士官たちの包囲に一瞬の隙を作る。

 その隙は、命を削ってこじ開けた、たった一筋の逃げ道だった。


「行けっ!!」


 ザックの怒号が、ユノの背を押した。


 ユノは涙を拭い、ザックが命がけで開けた道へと駆け出した。

 執務室の扉を飛び出し、廊下を走る。

 背後では金属音と怒号が響き、ザックがまだ戦っていることを示していた。



 ユノは城の裏路地を駆け抜けた。

 足音を消すように、影から影へと身を滑らせる。

 スラムで培った逃走術と、将軍の城で叩き込まれた機敏な動きが、今ほど役に立ったことはなかった。


 胸の奥では、ナディアの警告が何度も反響していた。

 ――ロトの命は、貴族たちの裁量ひとつで奪われる。


 その恐怖が、ユノの足をさらに速くした。


 秘密の治療所にたどり着いたユノは、扉を乱暴に押し開けた。

 湿った空気と薬草の匂いが鼻を刺す。


 ロトはベッドで静かに眠っていた。

 その傍らに立つナディアは、ユノを見るとほっと息をついた。


「ナディア!ロトは!?」

 ユノは息を切らし、声を震わせた。


「間に合ったわ、ユノ」

 ナディアは穏やかな笑みを浮かべたが、その瞳には緊張の名残があった。

「あなたが監査を始めた時点で、貴族たちが治療薬の供給を止める可能性を予測していた。だから…」


 ナディアはロトの枕元に置かれた小瓶を指差した。

 瓶の中には、淡く光を帯びた液体が揺れている。


「これは、神鋼石の廃棄物から私が抽出・精製した、完全な特効薬よ。

 ロトの病を“完治”させる、最後の薬」


 ユノの喉が震えた。

「これで…ロトは助かるの?」


「ええ。あなたは今日、弟を救える。そして――契約から自由になれる」


 ユノは震える手で瓶を受け取り、慎重に薬を注射器へ移した。

 ロトの細い腕に針を刺すと、彼の表情がわずかに緩む。


 その瞬間、ユノの胸に熱いものが込み上げた。

 弟の命を救うという、彼女の最も個人的で切実な願いが、ついに叶ったのだ。


 だが――


 ユノは手を胸に当て、深く息を吸った。

 達成感よりも、胸に広がったのは重い現実だった。


 外ではまだ戦争が続いている。

 ザックは命を賭して自分を逃がしてくれた。

 そして、ロトの病を生み出した貴族たちの利権は、今も王国を蝕み続けている。


 ロトを救っただけでは、何も終わっていない。


「私には、まだやらなきゃいけないことがある」


 ユノはロトの額にそっと口づけした。

 その温もりが、彼女の決意をさらに強くする。


 窓の外には、夜の闇と、遠くで燃える戦火の赤が揺れていた。

 その光景は、王国が抱える闇そのものだった。


 ユノは拳を握りしめた。


 影の将軍としてではない。

 偽物としてでもない。


 スラムの少女ユノとして――

 王国を救うための最後の戦いへ向かう覚悟を、彼女は静かに固めた。


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