6 執務室
ユノの心は、ロトの病が王国の貴族たちの強欲によって引き起こされたという事実に支配されていた。 もはや彼女の敵はヴァルカン帝国だけではない。王国の腐敗こそが、弟の命と、スラムの民の生活を脅かす真の元凶だった。
ユノは将軍としての「影」の役割を続けながら、密かにナディアから得た情報を整理し、利権の中心にいる人物を特定した。 それは、兵站担当であり、常にユノに最も強く反発していた――グレイブ中佐の所属する貴族連合だった。 彼らこそが、神鋼石の廃棄物をスラムに流し、黒曜熱を生み出した張本人であり、ロトの命を奪った元凶だった。
ザックは、ユノの変調に気づいていた。 彼女の瞳は以前にも増して冷徹になり、戦争そのものよりも、国内の「資源管理」や「兵站の透明性」に強い関心を示すようになっていた。軍議の場でも、敵軍の動向より補給の帳簿や鉱山の収支に目を光らせる姿は、かつてのフィオナ将軍とは明らかに異質だった。
「将軍、貴方は最近、軍事会議以外の議題に深入りしすぎています。貴方の役割は士気の維持と戦術の指揮です」
ザックは低い声で、しかし強く諌めた。忠誠心からの言葉であり、彼の瞳には焦りが宿っていた。
ユノは冷徹な表情でザックを見返した。
「士気の維持?戦いの根本原因を放置して、どう士気を維持するの?」
その声は氷のように鋭く、会議室の空気を張り詰めさせた。
「ザック、私はこの戦争に、誰も死なせない形で終止符を打つ。そのために、国の汚れた部分を切り捨てる必要がある」
ユノの言葉は、もはや「影武者」としての役割を超えていた。 彼女はただ戦場で兵士を導く将軍の影ではなく、王国の腐敗を暴き、根源から戦争を断ち切ろうとする「異端の剣」として歩み始めていた。
ザックはその瞳を見て、胸の奥に重い不安を覚えた。
*
ユノは、大勝利による国民の熱狂と、将軍への絶対的な信頼を利用することを決めていた。 次の軍事会議――重厚な石造りの会議室に、士官たちが整列し、蝋燭の炎が揺れる中、ユノは立ち上がった。
「先の戦いで、我が軍の備品の品質と兵站の管理に重大な瑕疵が見られた。これは、前線の兵士たちの命を危険に晒すものだ」
その声は冷たく響き渡り、室内の空気を一瞬で張り詰めさせた。ユノはフィオナ将軍の威厳を纏い、鋭い視線をグレイブ中佐に突き刺した。
「よって、私は将軍権限をもって、軍の備品調達と神鋼石関連の資源流通に関わる全ての監査を直ちに実施する。グレイブ中佐、貴方には全面的に協力してもらう」
会議室に衝撃が走った。 軍の備品監査は、貴族たちの莫大な利権の一つであり、誰も触れることを許されない領域だった。まして、戦争の火種である神鋼石の流通に将軍が直接介入するなど、前代未聞。士官たちはざわめき、互いに顔を見合わせた。
グレイブ中佐は激怒し、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「将軍!これは越権行為です!神鋼石の管理は宮廷の管轄であり、軍の出る幕ではない!貴方は、ご自身の体調不良で判断を誤っているのではないですか?」
その声は怒りに満ち、会議室の壁に反響した。中佐の言葉は、ユノの権威を揺るがそうとする挑戦だった。
「黙れ、中佐」
ザックが低く、冷たい声で制した。彼の手は剣の柄にかかり、鋭い殺気が漂った。室内の士官たちは息を呑み、誰も動けなくなった。
ユノは一歩前に出て、静かに、だが鋼のような声で続けた。
「私は兵士の命を守るためならば、どんな権限も使う。中佐、貴方が潔白ならば、監査を恐れる理由はないはずだ」
その言葉は冷徹でありながら、揺るぎない威光を放っていた。会議室の空気は凍りつき、誰も反論できなかった。ユノの視線は、まるで刃のようにグレイブ中佐を射抜いていた。
ユノの命令は強引だった。だが、将軍の威光と、先の勝利による国民の熱狂が士官たちを圧倒し、誰も反論できなかった。重苦しい沈黙が会議室を支配し、蝋燭の炎さえ揺れるのを止めたかのようだった。
ザックもまた、ユノの行動が将軍の地位と契約の危険性を高めることを理解していた。影武者が本来の役割を逸脱すれば、王国の秩序そのものが揺らぐ。だが今回は、彼はユノを制止しなかった。
(フィオナ様なら、この方法を選ばない。規律を優先したはずだ…だが、この国の根が腐っているなら、その根を断つこともまた、国を守る行為なのではないか?)
ザックの胸に、揺らぎが生まれていた。ユノの行動は危険だ。しかしその危険は、フィオナが守ろうとした「国」の存続そのものに繋がっているのではないか――そう思い始めていた。彼の忠誠心は、従来の「将軍への忠誠」から、「国を救う者への忠誠」へと、静かに形を変えつつあった。
一方、ユノの監査命令はすぐに効果を発揮した。 グレイブ中佐の陣営は慌てふためき、裏帳簿を焼き捨て、倉庫から証拠となる資材を密かに運び出そうとした。彼らの顔には恐怖が浮かんでいた。
「まさか…将軍がここまで踏み込むとは…」
「奴はただの飾りではなかったのか?」
彼らは悟った。ユノは単なる「影」ではない。自分たちの利権を脅かす『敵』になったのだ。
会議室の士官たちは沈黙を続けるしかなかった。誰もが心の奥で理解していた――ユノの刃は、帝国だけでなく、王国の腐敗そのものに向けられている。
そしてその瞬間、王国の中枢に潜む者たちの心に、初めて「恐怖」という名の影が差し込んだ。
*
ユノが監査を進めるにつれ、神鋼石の違法な廃棄物処理に関する具体的な証拠が次々と集まり始めた。 それは、ロトの病とスラムの汚染を結びつける決定的な証明であり、王国の腐敗を暴く刃そのものだった。
その夜。 ユノは執務室に灯る小さなランプの下で、次の手を打つ計画を練っていた。机上には地図と報告書、そして証拠となる帳簿の断片が散らばっている。彼女の瞳は冷徹に輝き、思考は鋭い刃のように未来を切り開こうとしていた。
――その時。
執務室の扉が、ゆっくりと、音もなく開いた。 闇の中から姿を現したのは、軍服を着崩したグレイブ中佐と、数名の貴族派の士官たちだった。彼らの顔は怒りと焦燥で歪み、まるで獲物を追い詰めた獣のような気配を漂わせていた。
「将軍、貴方にはあまりにも多くの『秘密』がある。そして、その秘密が我々の秩序を乱す」
グレイブ中佐の声は冷酷で、刃のように鋭かった。彼らはもはや、将軍の威光を恐れていなかった。勝利の熱狂も、兵士たちの忠誠も、彼らにとってはただの障害に過ぎない。
「残念ながら、この監査は、ここで終わりだ」
その言葉は、死刑宣告のように重く響いた。
ユノはペンを置き、静かに立ち上がった。 彼女の動作は落ち着いていたが、その瞳には冷たい炎が宿っていた。影武者としての仮面を被りながらも、彼女は今や王国の腐敗に立ち向かう「異端の剣」として立っていた。
執務室の空気は張り詰め、蝋燭の炎が揺れ、影が壁に踊った。 ユノの「影の将軍」としての命は、今、極度の危機に瀕していた。だが同時に――この瞬間こそが、彼女が真に「敵」を見据える時でもあった。




