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5 診療所

「裏路地の戦術」による勝利は、エルムリア王国に大きな安堵をもたらした。 ヴァルカン帝国軍は一時的に後退し、国境の危機はひとまず遠のいた。城下町では人々が通りに溢れ、白銀の将軍の名を叫び、勝利を祝う歌が響いた。民衆の間で「白銀の将軍」への歓声は最高潮に達し、兵士たちも誇らしげに胸を張った。


 しかし、城内におけるユノ――影武者への視線は、さらに複雑さを増していた。 末端の兵士は、彼女を「我々の現実を知る真の英雄」として崇めた。彼らにとってユノは、初めて自分たちの声を聞き、飢えや恐怖を理解してくれる存在だった。兵舎では「この将軍なら命を預けられる」という言葉が囁かれた。


 だが、貴族出身の士官や宮廷内の利権を持つ者たちは、ユノの行動を危険視していた。彼らにとってユノは、規律を破壊し、秩序を乱す「異端」であり、王国の伝統を揺るがす存在だった。勝利の事実を認めざるを得ない一方で、彼女のやり方は「王国の誇りを汚すもの」として、強い警戒心を抱かせた。


 特にグレイブ中佐を筆頭とする保守派は、ユノが会議の場でスラムの出自を匂わせたことに激しく反発していた。

「将軍が盗賊のようなことをするなど、前代未聞だ」

「これは精神的な変調だ。フィオナ将軍は病に侵され、正気を失っているのではないか」


 彼らは密かに集まり、ユノの行動を「将軍の威信を損なう危険な兆候」として記録し始めた。勝利の歓声が城下に響く一方で、宮廷の奥深くでは、ユノを失脚させるための陰謀が静かに芽吹いていた。


 *


 ユノは城の奥深く、重厚な石壁に囲まれた執務室でザックに詰め寄った。

「ねえ、弟の…ロトの様子はどうなの?治療に何か進展はあった?」


 その声には、将軍としての威厳ではなく、ただ一人の姉としての切実な願いが滲んでいた。


 ザックの顔は暗く沈み、長い沈黙の後に低く答えた。

「契約は続行中だ。勝利は治療を継続させるための担保だ。だが…」


 言葉を濁したザックの瞳には、迷いと苛立ちが交錯していた。彼は情報を渋った。ユノに将軍としての役割に徹してほしかったからだ。兵士たちの士気を支え、王国の象徴として立ち続けること――それが彼の使命であり、フィオナ将軍の影武者に課された唯一の役割だった。


 しかし、ユノの行動は違っていた。彼女はただ「影」を演じるためにここにいるのではない。ロトの命を救うという個人的な執念に突き動かされていた。勝利も戦術も、すべては弟の治療を続けさせるための手段に過ぎない。


 ユノはザックの沈黙を鋭く突き破るように言った。

「隠さないで。私は国を救うために戦った。でも、それ以上に…ロトを救うためにここにいるの。勝利が担保になるなら、次の戦いでも必ず勝つ。だから、今のロトの状態を教えて」


 ザックは拳を握りしめ、唇を固く結んだ。彼の忠誠心はフィオナに向けられていたが、目の前の少女の瞳に宿る執念は、彼の心を揺さぶっていた。


 ザックは結局、詳細を語らなかった。だがその沈黙は、ユノにとって答え以上のものだった。ロトの命はまだ危うい――だからこそ、彼女は戦い続けなければならないのだ。


 *


 その夜、ユノはどうしても弟ロトの容体を知りたいと願い、ザックに詰め寄った。

「お願い、医師に会わせて。ロトのことを、直接聞きたいの」


 ザックはしばらく黙したままユノを見つめていた。忠実な護衛として、彼は本来ならば将軍の影武者を危険に晒すような行動を許すはずがない。だが、ユノの瞳に宿る執念と切実さに抗えず、やがて低く答えた。

「…一度だけだ。誰にも知られてはならない。ついて来い」


 ザックの導きで、ユノは城の奥深くにある秘密の診療所へと足を運んだ。夜の闇に包まれた裏手の通路は湿った石壁に囲まれ、蝋燭の灯りも届かない。そこに、ナディア医師が待っていた。彼女の顔には緊張と沈痛が浮かんでいた。


 ユノは息を詰め、すぐに問いただした。

「ロトの病は治るの?あの薬は効いている?」


 ナディアは目を伏せ、重い声で答えた。

「『極光の雫』は黒曜熱の進行を抑えているわ。でも…完治ではない。そして、ユノ、あなたの弟の病は、普通の熱病ではないの」


 ユノの心臓が強く脈打つ。ナディアは懐から血液サンプルの記録を取り出し、顕微鏡で見た光景を語り始めた。

「私はロトの血液から、微細な金属結晶を発見したの。この結晶の成分は、非常に珍しい古代鉱物の構造と酷似している。正確に言えば――神鋼石しんこうせきを加工する際に排出される、極小の廃棄物よ」


 その言葉が落ちた瞬間、外の空に雷鳴が轟き、ユノの耳元を震わせた。

「神鋼石…?」


 神鋼石――それは、ヴァルカン帝国が資源と技術を求めてエルムリアに侵攻する、戦争の全ての原因となっている古代技術の遺産。王国と帝国の血で血を洗う争いの根源。


 ユノは息を呑み、ザックの横顔を見た。彼の表情は硬く、何かを知っているようだった。だが、彼は何も言わず、ただユノとナディアの会話を見守っていた。


 ナディアは、さらに衝撃的な真実を告げた。

「神鋼石の採掘権は、現在、宮廷内のごく一部の貴族の利権となっている。彼らは採掘量を増やし、利益を独占するため、本来であれば立ち入り禁止区域に投棄されるはずの廃棄物を、安価な処分方法としてスラムの近くの地下水路に流していたの」


 その言葉は、夜の闇よりも重くユノの胸に落ちた。黒曜熱――それはエルムリア王国の内部に巣食う腐敗が生み出した病だったのだ。ロトの命は、国を守るはずの貴族たちの金銭欲と非道によって脅かされていた。


 ユノの全身に、激しい怒りが込み上げた。

「私は…弟の命を奪おうとした貴族たちのために、命がけで将軍を演じていたというの…?」


 その声は震え、怒りと絶望が入り混じっていた。彼女は弟を救うために将軍の「影」となった。しかし、その契約の裏には、自分たちスラムの人間を道具や廃棄物として扱う、王国の冷酷な真実が潜んでいたのだ。


 ナディアはユノの肩にそっと手を置いた。彼女の瞳には深い憂慮が宿っていた。

「ユノ、この真実は、将軍であるあなた、あるいはフィオナ様でさえ、公にすれば消されるほどの国家機密よ。知らなかったことにして、契約を続けるべきだわ。あなたが声を上げれば、弟だけでなく、あなた自身も命を失うことになる」


 ユノは唇を噛み、拳を震わせた。怒りは燃え盛り、だがその炎の奥には恐怖が潜んでいた。自分が戦ってきたものは、帝国ではなく、王国の内部の腐敗だったのだ。


 ザックは黙って二人のやり取りを見守っていた。彼の表情は硬く、だがその瞳にはわずかな揺らぎがあった。忠誠心に縛られた彼でさえ、この真実の重さを理解していた。


 夜の静寂の中、ユノの心には新たな決意が芽生えつつあった。弟を救うためだけではない――この腐敗を正さなければ、スラムの人々も、兵士たちも、未来を奪われ続ける。


 ザックは、ユノに鋭く警告した。

「勝手な真似をするな。この契約は、貴様の私的な感情で揺るがしていいものではない」


 その声は冷たく、忠誠心と怒りが混じっていた。ザックにとってユノはあくまで「将軍の影」であり、フィオナの威信を守るための駒に過ぎない。


 しかしユノは、フィオナ将軍の凛とした態度を真似て、まっすぐにザックを見返した。だが、その瞳の奥には、もはや単なる影武者の従順さはなかった。そこには、弟ロトを奪った腐敗への復讐心と、スラムの民を救う使命感が静かに燃え上がっていた。


「分かっている。私は、契約を守る」


 ユノの声は落ち着いていたが、その響きには揺るぎない決意が込められていた。彼女は理解していた――ロトの病の真の原因は、戦争の根源である神鋼石の利権に繋がっていることを。つまり、この戦争を終わらせることこそが、弟とスラムの民の命を救う唯一の方法だった。


 ユノの「影の将軍」としての使命は、もはや変わっていた。 それは単なる「将軍の命を守る囮」ではなく、腐敗した利権構造と戦争の真実を暴き、破壊するための「剣」へと変質したのだ。


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