3 辺境の砦
軍事会議以来、ユノ――影武者としての「将軍」は、貴族出身の士官たちからさらに冷たい視線を浴び続けていた。特に兵站担当のグレイブ中佐は、会議の場で露骨に試すような質問を投げかけた後も、陰で執拗にユノを値踏みしていた。
「将軍は、やはり病床での療養が長すぎた。戦場の感覚を失われているのでは?」
「声は立派だが、どこか人間臭い。あれでは兵を従わせる威圧感が足りぬ」
士官たちのそんな陰口は、人を伝ってザックの耳にも届いていた。彼は黙って処理し、表情を崩さなかったが、内心では苛立ちを募らせていた。ユノの「人間らしさ」が、完璧な将軍像に亀裂を入れ始めている――それを誰よりも敏感に感じ取っていたのだ。
だが、ユノの行動は止まらなかった。兵士たちに声をかけ、彼らの疲労や不満を聞き取ろうとする姿勢は、士官たちの目には「将軍らしからぬ軟弱さ」と映った。ユノにとっては自然な振る舞いでも、王国の軍制においては異端だった。
そして、決定的な舞台が訪れる。ヴァルカン帝国との国境付近にある辺境の砦への視察――それは、将軍の健在を示すための大規模な演出であり、兵士たちに「まだ王国は揺るがぬ」という象徴を刻み込むための「完璧なショー」でなければならなかった。
ザックはユノに厳しく命じた。
「余計なことはするな。将軍の威厳を保ち、規律を褒めるだけでよい。兵士に近づきすぎるな。笑みも不要だ。お前は象徴であり、舞台装置だ。完璧な将軍を演じろ」
その声には苛立ちと焦燥が混じっていた。フィオナの不在を隠し通すため、この視察は失敗できない。ユノの一挙手一投足が、王国の命運を左右する。
ユノは黙って頷いたが、胸の奥では反発が渦巻いていた。
(規律を褒めるだけ?兵士たちをただの駒として扱えっていうの?…私は、そんな将軍にはならない)
砦への視察は、ユノにとって「影武者」としての試練であると同時に、彼女自身の理念を試される場となろうとしていた。
*
辺境の砦は、まさに疲弊しきっていた。 石壁にはひびが入り、雨風に晒された木製の門は軋みを上げていた。砦の兵士たちは、将軍の視察に備えて形式的に整列していたが、その姿は痛々しかった。顔色は悪く、目の下には深い隈が刻まれ、鎧は擦り切れ、剣の刃は鈍く光を失っている。彼らの背筋は伸びているようでいて、心の奥では折れていた。士気の低さは一目で分かるほどだった。
それでも士官たちは、ユノに向かってマニュアル通りの報告を並べ立てた。
「備品は充足し、兵士たちの士気は高揚しています」
「砦の防備は万全にございます」
その言葉は、ユノの目には完全な嘘に映った。兵士たちの疲れ切った瞳が、何より雄弁に真実を語っていた。
ユノは一歩前に出ると、士官の言葉を遮った。
「報告は結構。私は、自分の目で確認する」
その声は冷たく、だが揺るぎない響きを持っていた。整列していた兵士たちがざわめき、士官たちは一瞬言葉を失った。
ユノは将軍の優雅なローブを翻し、迷いなく兵舎へと足を踏み入れた。重い扉が開かれると、湿った藁の匂いと、疲労に沈む兵士たちの息遣いが広がった。
ザックと士官たちは顔を見合わせ、慌てて後を追った。彼らの表情には焦りと苛立ちが混じっていた。これは「完璧なショー」であるはずだった。将軍は威厳を保ち、規律を褒めるだけでよい――そう決められていたのだ。
だがユノは、その舞台を壊し始めていた。彼女の瞳は、兵士たちの疲弊を見逃さず、真実を暴こうとしていた。
ユノがまず気づいたのは、兵士たちの食糧の質だった。 木鉢に盛られた粥は水で薄められ、穀物は古びて酸味を帯びていた。兵士たちの頬はこけ、腕は細く、栄養失調寸前であることは一目で分かった。
「これは…水で薄められた粥。そして、穀物も古いものばかりだ。栄養失調寸前ではないか」
グレイブ中佐が慌てて口を開いた。
「将軍、これは規定通りの配給です!戦費節約のため、やむを得ず…」
ユノは中佐を冷たく睨みつけた。
「貴方はこの粥で、戦いに勝てると思っているのか?戦費の節約とは、戦力自体の切り詰めのことではない。私がスラムで盗みを働いたときでも、これよりマシなものを食べていたぞ」
その言葉に、場の空気が凍りついた。 「スラム」――「盗み」。将軍がそんな言葉を口にするなど、前代未聞だった。ザックと士官たちは一瞬息を呑み、互いに顔を見合わせた。
だがユノの洞察は、食糧だけにとどまらなかった。彼女は兵士たちの仕草、隠し持っている小さな家族の写真や手紙、そして彼らの会話の断片から、給料が滞り、家族への送金ができずにいることを瞬時に見抜いた。兵士たちの目に宿る虚ろな光――それは、スラムで幾度も見てきた「人間が絶望したときのサイン」だった。
もし本物のフィオナ将軍であれば、規律を盾に士官を叱責するだけで終わっただろう。しかしユノは、全く異なる行動に出た。
ユノは、同行していた国庫の担当士官を呼びつけた。
「緊急命令を発する。全兵士に対し、直ちに城砦の備蓄から新鮮な食糧を配給しろ。そして、ここ数ヶ月滞っている兵士たちの家族への送金を、直ちに前倒しで行え」
グレイブ中佐は血相を変え、声を荒げた。
「将軍!それは規定違反です!兵站の秩序が乱れます!」
ユノは一歩踏み出し、鋭い声で言い放った。
「秩序だと?秩序とは、士気が保たれて初めて成り立つものだ。飢えた兵士に、国のために死ねと命じられるのか?それこそが、秩序の崩壊だ!」
その言葉は広間に響き渡り、兵士たちの心に火を灯した。ユノは将軍の威光を最大限に利用し、命令を押し通した。
そして彼女は、疲れ切った兵士たちに向き直った。
「私がフィオナ・リディアスだ。貴方たちの苦境を、私は理解した。貴方たちは国の駒ではない。貴方たちこそ、この国の基盤だ。家族の心配は私がする。だから、安心して敵を打ち破ってこい!」
兵士たちの瞳に、わずかな光が戻った。誰もが驚き、士官たちは言葉を失った。ユノの言葉は、規律や命令ではなく「人間としての理解」だった。
ザックはその姿を見つめ、胸の奥で複雑な感情を覚えた。
士官たちは、ユノの型破りな処置と、その「スラム上がり」のような物言いに憤慨し、ザックに対して強く抗議した。
「将軍はそんな下卑た言葉を使わぬ!あれは将軍ではない!」
「将軍の理想を汚す行為だ!兵士に媚びるなど、恥辱だ!」
彼らの声は怒りに満ち、広間の空気を再び重苦しいものにした。だがその一方で、兵士たちの間には奇跡的な変化が起こっていた。
飢えと絶望の中にいた彼らの目には、「自分たちの現実を理解してくれた」将軍の姿が、まるで光のように映った。兵舎には久しぶりに笑い声が響き、兵士たちは互いに肩を叩き合い、将軍への感謝の言葉を口々に漏らした。
「将軍は俺たちを見てくれた…」
「やっと、俺たちの声が届いたんだ…」
「この人のためなら、戦える!」
その熱気は瞬く間に砦全体へ広がり、士気は一気に回復した。兵士たちの瞳には再び炎が宿り、疲れ切った身体に力が戻っていくのが分かった。
ザックは、静かにその光景を見ていた。
(規律を破った。フィオナ様ならば絶対にしないことだ。だが…)
彼の忠誠心と使命感は、ユノの行動がもたらした「結果」を無視できなかった。士気の回復は劇的であり、これが戦況を有利にするのは明白だった。兵士たちの心を動かす力――それは、冷徹な規律ではなく、ユノの泥臭い言葉から生まれたものだった。
ザックは士官たちに冷たい一瞥を投じ、低く言い放った。
「異論は聞かない。将軍の命令は絶対だ。…そして、結果を見ろ」
士官たちは言葉を失い、悔しげに唇を噛んだ。だが兵士たちの歓声がそれをかき消し、砦の空気は完全に変わっていた。
ユノは、兵士に向かって微笑んだ。それは将軍フィオナの高潔な微笑みではなく、スラムで生き抜いてきた少女の、無邪気な笑みだった。
彼女の「影」は、今、独自の光を放ち始めていた。 それは、王国の未来を変えるかもしれない――ザックはその可能性に、初めて震えを覚えた。




