2 王都
未明。
激しい雨が止んだばかりの泥道を、ユノはザックに連れられて歩いていた。足元の泥は重く、靴底を奪うように絡みつく。スラムから城砦へと続くその道のりは、まるで光と闇の世界を分ける境界線のようだった。背後には腐敗と絶望の街、前方には白銀に輝く要塞――ユノにとっては近づくことすら許されない「別世界」だった。
将軍が療養する城は、エルムリア王国の中心部にそびえ立つ巨大な石造りの要塞。夜明け前の薄闇の中でも、その城壁は冷たく光を反射し、スラムの全てを見下ろしていた。ユノの目には、それは救いの象徴であると同時に、「敵意に満ちた別世界」として映った。城壁の高さは、彼女の生きてきた世界との隔絶を象徴していた。
重厚な城門をくぐると、ユノはすぐに豪華な一室へと案内された。そこは、スラムの小屋とは比べ物にならない広さと清潔さを誇っていた。壁には繊細な刺繍の布が掛けられ、床には柔らかな絨毯が敷かれている。空気には香木の匂いが漂い、ユノの鼻腔を満たした。彼女にとっては、すべてが異質で、息苦しいほどの高貴さだった。
「弟は、どうなるんですか…?」
ユノが不安に尋ねると、ザックは無感情に答えた。
「心配するな。契約は守る。弟は既に秘密の診療所に移送された。医師が付き添っている。だが、お前が将軍としての役割を放棄すれば、治療は即座に停止する」
その言葉に、ユノの胸は一瞬安堵で満たされた。ロトの治療が進んでいる――それは確かに救いだった。だが同時に、その命が完全にザックの手中にあることを思い知らされ、背筋が冷たく震えた。弟の未来は、彼女の選択と行動に縛られている。
ユノは拳を握りしめた。豪華な部屋の中で、彼女の心だけが泥にまみれたままだった。
*
特訓は、休憩を挟むことなく始まった。
「将軍は、歩き方一つで士気を高める。背筋を伸ばせ」
「将軍は、戦況を冷静に分析する。感情を殺せ。その瞳に怯えを映すな」
ザックの声は冷たく、容赦がなかった。彼の指導は、まるで鋼鉄の鞭のようにユノの心身を打ち据えた。
ユノは、フィオナの話し方、筆跡、好む紅茶の銘柄、戦場での口癖に至るまで、細部にわたって叩き込まれた。言葉の抑揚、視線の配り方、指先の動き――すべてが「将軍らしさ」を形作る要素として徹底的に模倣させられた。疲労困憊で倒れそうになるユノに対し、ザックの態度は一切変わらず、冷徹な命令が続いた。
「将軍フィオナ・リディアスは、完璧な英雄だ。お前は、その完璧な『影』でなければならない。お前という『偽物』が立つことで、フィオナ様の栄光が傷つくようなことは、絶対に許されない」
その言葉は、ユノの胸に重く突き刺さった。彼女は自分が「弟を救うための生贄」であることを改めて思い知らされる。
ザックの厳しさは、愛するフィオナの地位を守るという使命感から来ていた。彼にとってユノは、あくまで将軍の命を繋ぐ「道具」に過ぎない。しかし、ユノの仕草や、時折見せる芯の強さが、フィオナの面影を呼び起こすたびに、ザックは胸の奥で自己嫌悪に苛まれた。
(このスラムの小娘を利用し、将軍の威光を穢しているのではないだろうか…)
その葛藤を隠すために、ザックはさらに厳しく、冷徹にユノを扱った。命令の声は鋭さを増し、休息の余地は与えられなかった。
ユノは全身の痛みに耐えながら、鏡に映る自分を見た。将軍の衣装を身に着けた姿は、まるで誰かの皮膚を無理やり被せられているような、強い不快感を伴っていた。肩にかかる白銀のマントは重く、胸を締め付ける鎧は冷たく、彼女の存在を押し潰すようだった。
それでもユノは、拳を握りしめた。弟を救うために、自分を偽り続けるしかない。 その瞳には、痛みと屈辱の奥に、消えぬ炎が宿っていた。
*
その頃、別の場所にある秘密の診療所。厚い石壁に囲まれた地下室は、外界から隔絶され、灯されたランプの光だけが淡く揺れていた。湿った空気の中、女医ナディアはロトの診察を続けていた。
彼女は、ロトが服用する「極光の雫」の作用に目を見張っていた。
「この薬、確かに効いている。しかし…」
ロトの呼吸は以前より安定し、熱もわずかに下がっている。だが、ナディアの医師としての直感は、何か異常を告げていた。彼女は血液サンプルを採取し、顕微鏡の下に置いた。
レンズ越しに見えたのは、不可解な物質だった。一般的な病原菌やウイルスではない。細胞の隙間に、微細な結晶が散らばっている。
「これは…微細な金属結晶?しかも、既知の鉱物ではない…」
ナディアは息を呑んだ。結晶は淡く光を放ち、まるで生きているかのように形を変えていた。自然界のものではない。まるで、どこかの古代技術の副産物のようだった。
彼女の脳裏に浮かんだのは、エルムリア王国とヴァルカン帝国の戦争の原因となった古代技術の遺産――「神鋼石」。その採掘現場で発生する廃棄物が、人体に入り込んだのではないか。
「まさか…この病は、熱病ではなく、神鋼石の影響…?」
ナディアの背筋に冷たいものが走った。もしそれが事実なら、ロトの病は単なる感染症ではなく、王国の存亡に関わる秘密そのものだった。彼女は顕微鏡から目を離し、ロトの寝顔を見つめた。幼い少年の命が、古代の遺産と戦争の闇に巻き込まれている――その事実に、ナディアは震えを覚えた。
ナディアは、ザックの古い知り合いだった。若き頃、戦場で負傷兵の治療に奔走していた時に彼と出会い、その冷徹な忠誠心と揺るぎない意志を知った。以来、彼女はザックに一定の信頼を寄せていた。だが同時に、医学者としての倫理観を強く持ち続けていた。
(まさか、国の英雄であるフィオナ将軍の裏側で、こんな非人道的なことが行われているなんて…)
顕微鏡の下で光る結晶を見つめながら、ナディアは唇を噛んだ。ロトの病は単なる熱病ではなく、王国が隠し続けてきた「神鋼石」の影響によるものかもしれない。もしそうなら、この治療契約はただの医療行為ではなく、国家の秘密を覆い隠すための「人身取引」に等しい。
ユノは弟を救うために、自らを売り渡す契約を結んだ。だがその背後には、王国の暗部が潜んでいる。フィオナ将軍の影武者として利用される少女の運命は、弟の命と同じく、王国の都合に握られているのだ。
ナディアは胸の奥で葛藤を覚えた。ザックに忠実であるべきか、それとも医師として真実を告げるべきか。彼女の指は震え、顕微鏡のレンズを外す音が静かな診療所に響いた。
ナディアは深く息を吐いた。忠誠と倫理の狭間で、彼女自身もまた、王国の闇に巻き込まれつつあった。
*
数日後。ユノは完璧に将軍フィオナの姿を装い、初めて士官たちが集う軍事会議の場に立たされた。
広間には重厚な地図と戦況報告が並び、鎧を纏った将校や貴族出身の士官たちが列席していた。彼らの視線は一斉にユノへと注がれる。だがその眼差しは、尊敬や忠誠ではなく、「将軍という地位」を値踏みする冷たいものだった。まるで彼女の一挙手一投足を監視し、欠点を探し出そうとしているかのようだった。
ユノは背筋を伸ばし、ザックに叩き込まれた通りの立ち居振る舞いを演じた。声の抑揚、視線の配り方、指先の動き――すべてが「将軍らしさ」を模倣していた。士官たちはその完璧さに一瞬騙されながらも、どこか違和感を覚えているようだった。
特に、兵站責任者のグレイブ中佐は、露骨に将軍を試すような質問を浴びせてきた。
「補給線が断たれた場合、兵士をどう動かす?」
「敵が民間人を盾にした時、どう判断する?」
「兵糧が尽きた際、兵士を見捨てる覚悟はあるか?」
ユノは冷静に、模範的な回答を返した。
「補給線が断たれた場合は、予備の備蓄を分散させ、兵士の士気を維持する」
「民間人を盾にされた場合は、被害を最小限に抑えつつ、敵の意図を見抜く」
「兵糧が尽きる前に、必ず補給路を確保する。それが指揮官の責務だ」
ザックに教えられた通りの言葉を選び、表情を崩さずに応じる。だが、内心は沸騰していた。
別の士官が冷笑を浮かべながら言った。
「結局、兵士は消耗品だ。補給が尽きれば、駒を捨てるしかない」
「そうだ。兵士は王国の盾であり、犠牲は当然だ」
冷酷な言葉が飛び交うたびに、ユノの胸は締め付けられた。彼女にとって兵士は「駒」ではなく、命を持つ人間だった。スラムで生き抜いてきた彼女には、命の重みを軽んじる彼らの態度が耐え難かった。
(彼らは人を数字でしか見ていない…私が演じる将軍は、こんな冷たい存在なの?)
ユノは拳を握りしめ、必死に感情を押し殺した。
会議が終わり、重苦しい空気が解けた後。広間を出て、二人きりになった瞬間、ユノは将軍の仮面を脱ぎ捨て、ザックを鋭く睨みつけた。
「士官たちは、兵士たちをチェスの駒としか思っていない。命を数字で計算して、犠牲を当然だと口にする。私だったら…あんな冷たい真似は絶対にしない!」
ザックはその反抗的な目をまっすぐに見返した。
「お前はただの囮だ。お前の意見など必要ない。将軍を演じることに集中しろ。余計な感情を持ち込むな」
「いいえ!」ユノは声を荒げ、拳を握りしめた。
「私はただの囮ではない。私はロトを救うためにここにいる。そして、ロトの命が懸かっている限り、この役割を全うするわ。でも、将軍として立つのなら、私のやり方で立つ。彼らの駒に、私も、そしてあの兵士たちもさせない!」
ザックは眉をひそめ、低く言い放った。
「甘いな。戦場では理想など通用しない。兵士は盾であり、犠牲は戦略の一部だ。お前の感傷は、王国を滅ぼす」
ユノは一歩踏み出し、ザックに食い下がった。
「違う!兵士は人間よ。誰もが必死に生きようとしている。命を駒にするような戦い方は、必ず破綻する。私は、兵士たちを守る!」
その強い決意を前に、ザックは言葉を失った。彼女の瞳には、フィオナ将軍の高潔な理念ではなく、スラムで生き抜いてきた泥臭い「命への執着」と「正義」が宿っていた。
(こいつは、危険かもしれない…)
ザックは胸の奥で、初めてわずかな動揺を覚えた。




