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1 スラム街

エルムリア王国の首都の裏側――人々から「塵溜まり」と蔑まれるスラム街。 そこは王城の白亜の塔からは決して見えない影の領域だった。石造りの建物は互いに押し合うように密集し、細い路地は蜘蛛の巣のように絡み合っている。昼間であっても陽光は届かず、常に薄闇が支配していた。湿った空気には腐敗した食べ物と排泄物の臭気が混じり、諦めと絶望の匂いが人々の肺を満たす。


その陰鬱な空気の中、16歳になるユノは痩せ細った体を丸め、弟ロトの額に濡れ布を押し当てていた。彼女の指は震え、冷やす布もすぐにぬるくなってしまう。


まだ10歳のロトは熱にうなされ、荒い呼吸を繰り返している。唇は紫色に変色し、まぶたの下の瞳は焦点を失い、夢と現の境を漂っていた。これは「黒曜熱」――塵溜まりを蝕む謎の病の典型的な症状だった。発症すれば数日のうちに命を奪うと噂され、誰も治す術を知らない。


「ロト、もう少しだけ、頑張って。大丈夫、お姉ちゃんが必ず治してあげるから…」


ユノの声はかすれ、必死に希望を繋ぎ止めようとしていた。彼女の膝の上には、最後の望みを託して買った薬草の束が置かれている。盗みや危険な雑用で稼いだ銀貨をすべてはたき、裏路地の闇医者から手に入れたものだった。しかし、薬草は何の効果も示さず、ロトの熱はむしろ強まっているように見える。


銀貨の重みを失ったユノの手には、ただ冷たい虚無だけが残っていた。指先は震え、爪の間には古びた布の繊維が食い込んでいる。胸を締め付けるのは、弟を救えない恐怖と、自分の選択がすべて無駄だったという絶望。だが、その絶望の底でなお、ユノの瞳には消えぬ炎が宿っていた。


「お金、もっとあれば…治せるのに」


かすれた声が石壁に吸い込まれる。ユノは拳を振り上げ、苔むした壁に叩きつけた。鈍い痛みが骨を伝い、皮膚が裂けて血が滲む。だが痛みは、彼女の怒りと悔しさを少しも和らげはしなかった。


彼女の瞳は本来、鋭く機敏で、芯の強さを秘めていた。しかし今はただ、無力な炎が揺らめいているだけだった。燃え尽きる寸前の灯火のように、頼りなく、風に吹かれれば消えてしまいそうなほどに。


ロトの呼吸は浅く、胸は小さく上下を繰り返す。熱に浮かされた彼の唇からは、時折意味をなさない言葉が漏れ、ユノの心をさらに締め付ける。このままでは、数日のうちに命の灯が消えるだろう――その予感が、ユノの耳元で冷たい囁きとなって響いていた。



その夜。外は激しい雨が降りしきり、石畳を叩く水音が街全体を覆い尽くしていた。細い路地は泥と水でぬかるみ、行き交う人々は皆、頭を低くして足早に家へと戻っていく。


ユノは濡れた外套を抱えながら、必死に声を張り上げていた。


「誰か、誰か、助けてください!仕事をください!弟が死にそうなんです!」


彼女の声は雨にかき消され、返ってくるのは冷たい視線と罵声だった。


「うるさい!そんなこと知るか!」

「邪魔だ、どけ!」


人々は彼女を避けるように肩をぶつけ、冷たく追い払う。ユノの胸は締め付けられ、足元の水たまりに涙が混じった。


その時――。


「……おい、お前」


低く響く声が、雨音を切り裂いた。ユノは振り返る。


そこに立っていたのは、異質な存在だった。長身で、漆黒の外套に身を包み、腰には鈍く光る長剣を携えている。フードの影に隠れた顔から覗く眼光は、氷の刃のように鋭く、ユノがこれまでスラムで見てきたどんな人間のものよりも冷たかった。


その視線に射抜かれ、ユノは思わず息を呑んだ。雨の中でただ一人、彼だけが異様な静けさを纏っていた。


「お前、名前は…?」


低く、感情のない声が、暗い路地に響く。


「な、なんですか?!」


ユノは、唯一の武器である小さなナイフを構えた。


男はユノのナイフを一瞥し、まるで埃を見るかのように無視した。その視線は、真っ直ぐにユノの顔に注がれていた。


男――ザックは、内心で激しい動揺に襲われていた。 信じられない。目の前の少女の顔立ちは、決して「白銀の将軍フィオナ・リディアス」と同じではない。輪郭も、目の形も、声の響きも微妙に違う。だが、それでも――。


(雰囲気が、あまりにも似ている…)


雨に濡れながらも背筋を伸ばし、必死に誰かを求めるその姿。絶望の中でも消えぬ炎を宿した瞳。人々に罵声を浴びせられてもなお立ち上がろうとする気迫。 それらすべてが、ザックの記憶に焼き付いているフィオナの姿と重なって見えた。


(幼き頃のフィオナ様を、そのまま荒んだ街に投げ込んだら…きっと、こうなるのだろう)


ザックは思わず拳を握りしめた。忠誠を誓った将軍フィオナは今、命に関わる重傷を負い、秘密裏に療養している。彼女の不在は軍の士気を崩壊させ、王国を滅亡へと導きかねない。


あの夜、血に濡れた寝台の上で、フィオナはかすれた声を振り絞った。

『……探せ。…私に似ている女を……』

『お、囮にする、ということですか…?』

ザックは息を呑んだ。

『そうだ!』フィオナの瞳は、死にかけてなお鋭く光っていた。

『私がいるフリをさせを。兵たちの心を繋ぎ止めろ。王国を崩させるな!』


その言葉はザックの胸を焼き付け、彼の使命となった。彼は街中を探し回った。だが、フィオナのような高貴な気配を持つ者など、民衆の中には見当たらなかった。いたとしても、『囮になれ』と言う取引には応じるはずがない。半ば諦めながらも、最後の望みを託してスラムへ足を踏み入れたのだった。


――そして。


この少女――ユノは、将軍と同じ「気配」を纏っていた。顔の造作ではなく、立ち居振る舞い、声の奥に潜む芯の強さ。絶望の中でも消えぬ炎を宿した瞳。まるで影が重なるように、フィオナの存在を思い起こさせる。


ザックは動揺を押し殺すように、冷たい声を絞り出した。

「……弟の症状は…?」


雨音が石畳を叩く中、その言葉は重く、刃のようにユノの耳へ突き刺さった。


「熱が下がらない…」

ユノは震える声で答えた。濡れた髪が頬に張り付き、瞳には必死の光が宿っている。

「それよりも、あなたは…私に仕事をくれるってこと?」


ザックは一瞬だけ沈黙し、次いで低く告げた。

「一つ、取引をしよう」


そう言うと、彼は銀色の小瓶をユノの前へ放り投げた。瓶は雨に濡れた石畳に転がり、鈍い音を立てて止まった。


「なに、これ…?」


ユノが訝しげに拾い上げると、それは手のひらほどのガラス瓶だった。中には濃い紫色の液体が満たされ、街灯のわずかな光を反射して妖しく輝いている。まるで夜空の一部を切り取って閉じ込めたような、不思議な存在感を放っていた。


「それは、『極光の雫』。宮廷でのみ使用が許された、あらゆる熱病に効く特級の薬だ。お前の弟の黒曜熱にも効果があるだろう」


ユノの目は釘付けになった。黒曜熱の特効薬など、この世に存在しないと諦めていた。しかし、この小瓶からはただならぬ力と高貴さが感じられ、彼女の心臓は強く打ち鳴らされた。


「…治療を、してくれるの?」

ユノの喉が震え、声は雨に溶けるようにかすれた。


「いや。治療薬は渡す。だが、それは契約の一部だ」


ザックの声は無慈悲で、冷たい鉄のように響いた。彼の眼差しはユノを射抜き、逃げ場を与えない。


「我々は、お前を『影武者おとり』として使う。エルムリアの士気を支える白銀の将軍フィオナ・リディアスは、戦場で重傷を負った。この事実は国家機密だ。敵に知られれば、王国は崩壊する。――お前は将軍のフリをして、将軍の衣装を纏い、公の場に立ち、敵の目を欺くのだ」


雨音とともに響くその言葉は、ユノの運命を大きく揺さぶった。弟を救うための薬が目の前にある。しかし、その代償は、王国の影を背負うことだった。


ユノの顔から血の気が引いた。

「影武者…?そんなのできるわけがない…!」


声は震え、雨に溶けてかすれた。


「だが、取引だ」ザックは冷徹な目を向けた。

「我々は将軍の地位と命を守るため、お前を利用する。お前が将軍の影として働く限り、お前の弟は最高の薬と治療を受けられる。治療費は全て王国が持つ。だが、もしお前が逃げたり、口を滑らせたりすれば…」


ザックは言葉を切らず、冷たく言い放った。

「即座に弟への治療は打ち切られ、お前は国家反逆罪で処刑される。お前は『フィオナ様の命を守るためのおとり』でしかない。多分他に、弟が治療を受ける術はないだろう…」


冷たい雨の音だけが響く。ユノはロトのことを思い出す。彼は、今も痛みと熱に耐えている。彼を助けられる可能性が、目の前にある。しかし、それは己の命と自由と、尊厳を差し出すことだった。


胸の奥で、ユノは苦い思いに囚われた。――これは、体を売るのと同じことだ。自分の存在を、王国のために差し出す。自分の顔も声も、意志さえも、すべて「将軍」という仮面に奪われる。弟を救う代償として、自分自身を商品に変える契約。


ユノの指先は震え、小瓶を握る手に力が入った。紫の液体が雨に濡れた光を反射し、まるで彼女の運命を閉じ込めているかのように妖しく輝いていた。


「……弟を助けるために、私を売れっていうの」


ユノの声はかすれていた。しかし、その瞳にはまだ消えぬ炎が宿っていた。雨に濡れた髪が頬に張り付き、荒い呼吸の中で彼女はナイフをゆっくりと落とした。


カラン、と乾いた音が石畳に響く。ユノは拳を握りしめた。恐怖の色はもう消えていた。代わりに宿ったのは、弟への愛と、背水の陣に立つ者の覚悟だった。


「……わかった」


その声は、先ほどまでの震えを失い、静かで芯の通ったものになっていた。雨音に負けず、確かな響きを持っていた。


「取引をする。命がけで、将軍を演じる。ただし、条件がある」


ザックが眉をわずかに上げる。


「弟の病が完治するまで、絶対に治療を止めさせないで。そして、弟には私が何をしているのか、絶対に伝えないで」


ユノの言葉は切実で、しかし揺るぎない。彼女は自分の命を差し出す代わりに、弟の未来を守ろうとしていた。まるで自分の尊厳を売り渡す契約を結ぶかのように。


ザックはユノを凝視した。雨に濡れたその瞳の奥に、底知れぬ覚悟を見た。スラムの少女でありながら、その眼差しは戦場を生き抜く将軍のものと変わらなかった。


「……約束しよう」


ザックの声は低く、冷たいが確かだった。彼は外套を翻し、背後の闇へと視線を投げる。


「すぐに発つ。準備しろ」


雨音がさらに強くなる中、ユノは小瓶を胸に抱きしめた。冷たい硝子の感触が、彼女の震える指先に重くのしかかる。弟を救うため、自分を売り渡す契約を交わした――その瞬間だった。



ユノは急いでロトの元に戻り、震える手で瓶の栓を外す。紫色の薬液が滴り落ち、彼の唇へと注がれる。苦そうに顔を歪めたロトだが、やがて呼吸が少しだけ穏やかになった。熱に浮かされた胸の上下が、ほんのわずかに落ち着きを取り戻す。薬は、確かに効いている。


ユノはロトの頬を優しく撫でた。濡れた髪を払い、囁くように言葉を落とす。 「大丈夫だよ、ロト。お姉ちゃんと一緒に行こう」


その声には、決意と祈りが混じっていた。彼女はもう、後戻りできない。これから彼女は、全く異なる世界で、全く異なる誰かとして生きることになるのだ。


ユノは立ち上がり、スラムの部屋の窓から遠くを見た。雨に煙る闇の中、城砦の灯が揺らめいている。光り輝く将軍の城――その光は、ユノを救う契約の象徴であり、同時に彼女を飲み込む炎のようにも見えた。


その光を見つめるユノの瞳には、恐怖と希望、そして覚悟が交錯していた。弟を救うために、自分の尊厳を売り渡した少女。だが、その瞳はすでに「戦場に立つ者」のものへと変わりつつあった。


明日から、彼女は―― 「影の将軍」となる。

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