国家は企業では無い
国家は企業ではない。
それは憲法が最初に交わした約束であり、国民への「厳粛な信託」だ。
しかしこの二十余年、日本の羅針盤は公共の福祉から利益最大化へとすり替わってきた。
小泉構造改革からアベノミクスまで──成長と効率の呪文は、暮らしに何をもたらしたのか。
憲法、政策史、そして日常の温度を手がかりに、“本当の名前”を呼び戻す旅が始まる。
2025年8月29日 purana
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「国家を企業のように扱うなんて、まるで『ハリー・ポッター』の魔法省が利益最優先で闇に傾くみたいだ」——そう感じるのは大げさでしょうか。けれど現実の日本政治では、この二十余年、「利益最大化」という呪文が繰り返し唱えられてきました。小泉純一郎・竹中平蔵の構造改革からアベノミクスに至るまで、国家の羅針盤は、憲法が定める「公共の福祉」から、企業が掲げるべき「効率と利益」にすり替わった。私はそう見ています。
その思想の転位は、政策の優先度を変え、三権分立の歯止めを弱め、教育や労働の現場にまで浸食しました。若い人の価値観から「公共の福祉」が薄れ、助けを求めることすら「甘え」と呼ばれる。ブラック環境の蔓延は、どこか遠い政治の話ではなく、私たち一人ひとりの生活の温度を確実に下げています。
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1|憲法が語る「厳粛な信託」と公共の福祉
日本国憲法は、国政が「国民の厳粛な信託」によって行われ、その目的は国民がその福利を享受することだと明言しています(前文)。個人の尊重と幸福追求(13条)、生存権と社会福祉の向上(25条)は、その中心に据えられています。財産権(29条)も保障されますが、「公共の福祉に適合」するよう法律で定められる、という留め金がある。
ここから導ける当たり前の結論はこうです。国家の目的は国民全体の福利であり、利益最大化は国家の思想ではない。
企業が利益最大化で動くのは自然です。けれど国家がそれを最上位に置いた瞬間、憲法が定めた目的と手段は逆転します。憲法の他条文でこの立場を否定できるか? 私はできないと思います。むしろ、公共の福祉を軸に「バランスせよ」と命じているのが憲法の全体像です。
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2|小泉・竹中の「呪文」と、アベノミクスの通奏低音
2000年代初頭、小泉内閣は規制緩和・民営化・市場原理の徹底で「改革なくして成長なし」を掲げました。理屈は明快です。非効率を削り、競争で活力が生まれ、全体が豊かになる——その後、アベノミクスは金融・財政・成長戦略の三本の矢でこの路線を継承します。
しかし「上を潤せば、やがて下に滴り落ちる」というトリクルダウンは、日本では堰で止まりました。内部留保は積み上がり、非正規は増え、地域の体温は下がる。そこで本来、国家は堰を壊す仕組み(再分配・独占規制・透明化・罰則)を整えるべきでした。国民の福利を約束した以上、「滴り落ちない」現実を放置するのは、厳粛な信託への背信です。
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3|三権分立のうわべ——「紙の正義」と政治の都合
司法は条文に忠実であるがゆえに、穴のある法律のもとでは現実の不正を裁けない。立法は行政に従属しがちで、行政は政治的配慮のもとで「抜け道」を残す。こうして、
1.現実で不正が起きる
2.司法は現行法の範囲でしか動けない
3.行政・立法が改正するが穴が残る
4.同じ不正が繰り返される——という循環が固定化される。
この回路の中心には、「利益最大化」という国家向きではない思想が、政策判断の物差しとして据えられている事実があります。
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4|左・右・中道から見た「利益最大化」
•左派の視点:新自由主義は格差と不安定雇用を拡大し、25条の生存権を侵す。トリクルダウンは機能せず、公共サービスの後退が地域を弱らせた。
•右派の視点:成長は福利の前提だ。規制緩和は活力を生み、職業選択の自由(22条)や財産権(29条)も憲法が認める。効率は善であり、国家の持続可能性のためにも必要。
•中道の視点:市場と福祉のハイブリッドこそ現実解。公共の福祉(12・13条)と成長は二者択一ではなく、均衡の設計が要る。国家は「利益最大化」ではなく、社会的最適を目指すべきだ。
私の結論は中道に近い。ただし順番と基準が肝心です。憲法が基準(公共の福祉)で、成長は手段。 ここを取り違えた瞬間、国家の羅針盤は狂います。
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5|なぜ「利益最大化」が“正義”に見えたのか
•歴史的必然:バブル崩壊後の長期停滞で、「効率」が救いに見えた。米国流の新自由主義が“即効薬”として輸入され、制度に組み込まれた。
•文化的背景:勤勉・節約・同調を尊ぶ社会では、「自己責任」と「成果主義」の物語が受け入れられやすい。助けを求める声は「甘え」と翻訳されやすい。
•政治・行政の構造:長期政権・官僚主導・与党多数で、成長指標(GDP・株価)が政策評価の“分かりやすいスコア”になった。
•教育とメディア:成功物語が可視化され、失敗の社会的原因は不可視化される。若い世代ほど「福利=甘え」の物語を背負わされた。
結果、目的(公共の福祉)よりも手段(効率・利益)が“正義”の衣を着た。
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6|あなたの暮らしに降りかかる影
教育現場では、競争が過剰に強調され、支援は「自己責任」の壁に跳ね返される。職場では、効率やKPIが人間の回復力を奪い、ブラックな慣行が「努力」の名で正当化される。地域では、公的サービスの縮退が孤立を深め、若者は将来像を描けず、心を病む。——これは統計の話ではなく、生活の温度の話です。
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7|反論に応える——成長は悪ではない、ただし順番が違う
私は成長を否定しません。成長がなければ、再分配も持続しない。問題は順番と規律です。
1.目的と手段の再接続:公共の福祉(憲法)を目的に、成長・効率はそれを達成する手段として再設計する。
2.滴り落ちないなら流す:再分配・独占防止・賃上げルール・公益課税など、堰を超えて水が流れる仕掛けを制度化する。
3.規律と透明性:政治資金・公文書・利益相反の厳格な開示と罰則。三権分立の実効性を、人事・予算・監査の独立性で担保する。
4.教育の再定義:自己責任だけでなく、相互扶助は社会の合理性だと教える。支援は投資であり、甘えではない。
5.現場の復権:自治体・学校・職場の裁量を回復し、現場から福祉と成長の両立を作る。
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8|「呪文」を解く
国家は企業ではありません。国家は、国民の厳粛な信託を受け、公共の福祉を実現するために存在します。もし国家が「利益最大化」の呪文に囚われ続けるなら、それは憲法の精神からの逸脱であり、私たち主権者への背信です。
魔法省が闇の呪文を破る方法は、物語の中ではシンプルでした。本当の名前を呼ぶこと。
私たちの現実でも同じです。
「公共の福祉」という、古くて強い名前を呼び戻す。
選挙で、職場で、家庭で、日々の会話で。政策を測る物差しを、利益から福利へと戻す。
それは遠回りに見えて、最短の道です。なぜなら、憲法という「最初の約束」は、最初からそこにあったのだから。
——purana
国家を企業にしないために、私たちは何を選び、何を守るのか。
答えはきっと遠くではなく、日々の言葉や行動の中にある。
「公共の福祉」という古くて強い名前を呼び続けること──それが、この物語の終わりであり、はじまりでもある。