第3話 嫌な予感がする
七月十五日。
次の日の朝。
優太はその後朝起きると、すぐさま昨日の夜の記憶が彼の脳内を駆け巡る。いまだに夢心地であり、あれが本当にあったことなのか、と半信半疑であるままだった。しかし、あの天の上の存在であった千堂萌音と話せたことは十分に注目すべきことだった。
しかし、同時になぜ彼女があんなところにいたのか、その謎だけは未だ謎のままで、優太の中でずっと引っかかっていた。
優太はそんな複雑な心中で制服へ身を包む。そのまま彼は一階の居間へ移動する。
階段から降りると、すでに制服を着た誰かが食卓で朝食をとっていた。
その正体は磯野優太の妹、磯野由乃である。中学三年生であり、可愛らしい顔をした可憐な少女である。
「あぁ、、おは・・おう」
あくびをしながら優太は挨拶をする。
「・・・おはよう」
そう聞こえるかどうか怪しいラインの小さな声で挨拶を返す。彼女の視線は下を見つめたっきりであり、優太には一切目線は合わさない。
「おい、挨拶する時ぐらい目を合わせろよ。他人にやったら失礼だと思われるぞ」
そう優太が由乃に諭しても、彼女はそのまま黙々と食パンをサクサクと食べている。
「なあ由乃、人の話ぐらい少しはな・・・」
「うるさい」
由乃は平坦なトーンでそういうと、席を立ち近くに立てかけてあったバッグを手にし玄関へと早々と向かった。
一人残された優太は冷蔵庫へ向かった。玄関の扉が開く音が聞こえると、優太はキッチンから「気をつけろよ〜」と声をかけた。もちろん、返事が返ってくることはなく、ただ扉が閉まる音が数秒に響いてきた。
ちょっとしたパンを取り出し席へつく。
「にしても、この頃反抗期か知らんがあいつどんどん口聞かなくなってきたな。兄ちゃんからすれば成長も感じるし、同時に悲しさも・・・」
そんな一言を少し大袈裟に口元を押さえながらボソリと呟いた後、朝食を済ますや否や、すぐに優太も立ち上がり鞄を取って家を後にした。
優太は自転車をこぎながら、またしても昨日の夜の出来事を思い出していた。
「マジで昨日はえぐかった。でもやっぱり彼女があんなところで寝ていたのは気になる。一人夜の学校で何かよからぬことでもしようとしていたのか・・・」
優太はあらゆることを考えながらも、昨日の出会いについて笑みをこぼさざるを得なかった。
徐々に昨日と同じ道を進むと、他の生徒たちもちらほら見受けられるようになってくる。
桜坂高校は地元では屈指の進学校であり、地元の方でも誇りとして受け取られている学校だ。そして、いちばんの特徴はその自由度だ。髪染めなどももちろん許されており、屈指の進学校とは一見見分けがつきにくい。それもあってか、ちらほら見受けられる生徒の髪色も、さまざまなグラデーションが描き出されている。
校門に着くと、これまで以上に多くの生徒が行き交っている。彼にとっては見慣れた風景であり、人が動くという意味では変動的だが、彼にとってはそれは固定された景色である。とはいえ、どこか今日だけは何か特別な景色に見える。今までの、彼女と話したと言う経験がない時に見えた光景とは一線を画しているように。
・・・なんだって、俺はあの千堂萌音と話したんだぞ。これは他の者たちと一線を画す何よりの事実だ。
そんなことを優太は考えていた。本格的に夏に入ったこともあり、校門付近は人混みもあり非常にむさ苦しい気分に襲われる。
優太は自転車をとめ、玄関へ向かおうとしたその時。
「おーい、優太。相変わらず死んだような目を・・・って、え?」
後ろから元気よくそんな声をかけられる。
優太は後ろを振り返る。
「え、お前どーしたんだよ。今日はいつもと違って変に生を感じるぞ・・・」
そこには茶髪の男子、小野原和樹がいた。
「おい。いきなりなんて事言うんだ。俺は至っていつも通りだ」
「いや、違うな。明らかに顔が意気揚々としているぜ」
さすが、俺の親友だ、そんなことを心の中で思いながらも優太は案外自分が顔に出るもんなんだと自分を改めて思う。
優太は彼と共に教室へと向かう。
「お前、昨日何かあったのかよ」
そんなことを和樹は前を向きながら優太にいう。思わず、その鋭い指摘に優太は眉間に皺を寄せてしまうが、昨日の萌音の言葉、他言無用を思い出すと、いくら彼にとっての親友とはいえ気が引けるようにも感じる。とはいえ、彼と共有したい、そんな感情も決して少なくなかった。
「ま、まあ、何もなかったということでもない」
「は〜ん。ま、深入りはせんでおくわ。どうせ、お気に入りのエロ漫画を見つけたみたいな低俗なレベルの話だろーし」
「おい、さすがに俺のことをみくびりすぎだ」
「んじゃ、また後でな」
和樹はそういうと、優太とは反対の方向の教室へと向かった。優太も、そのまま二年E組の教室へと入った。
そこにはいつもと変わらない風景があった。すでに多くのクラスメイトがおり、朝からも賑やかな話し声で満たされていた。教室に入るまでは、まだやる気はあっても、こうして教室のいつもの光景を目の当たりにすると、どこかそのやる気が削がれる感覚に襲われる。
優太はその喧騒とした教室に少し眉を顰めながらも、窓際の隅の席へとつく。ふと教室の反対の方を見ると、特にその教室の中でも異彩放つ存在がいた。いわゆる「陽キャ」と呼ばれる集団だ。
「ってかさ、昨日のブペスバ見た?ガチえぐかったよな?」
「わかるー。私、それ初回から見てたからその分さらに面白かったー」
「え、桜ちゃんってブペスバ古参勢?」
「そうだよ」
「ああ、それなら俺だってそうだぜ!」
そんな会話が、彼の意思に関わらず耳に次々と入ってくる。特段、特別な会話ではないのだが、優太とはまた対照的な口調であったことは言うまでもない。その明るい軽い口調は、いかにも彼らの性格、立ち位置を教えてくれるようなものだ。
そして、まるで先ほどの伏線回収かのように、この集団も髪色はかなり明るいものだ。特に、金髪がその多くを占めていた。
しかし、その集団の中でも特に存在感を、話しすぎないがしかし醸し出している者がいた。
「翔吾は見た?」
「ごめん、俺昨日用事があって見れなかった」
岡野翔吾。
彼の存在はイケメンバスケットボール部部長として、言うまでもないほど学校中に轟いており、運動神経と共に人柄の良さも相まって人気者の中の人気者であった。無論、そんな彼がいわゆるクラスの中でも中心人物になるのは何も不思議なことではなく、優太から言わすれば、同じクラスとはいえ全くの別世界の人間である。
彼はグループの中でも中心的であり、何より陽キャの異常な金髪率のなか、翔吾は驚くほど澄んだ黒髪であった。逆に、その平凡さが彼をさらにクールにさせていた。
死んだ目をしながら、そのグループを意味なく見ていたのだが。
「はーい、席に着いて〜」
優太はその騒がしい教室の中、ただ自分の机に座り、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいたのだが、教室の扉が開くと担任である赤坂遥が入ってきた。
その声に、一同は少々話しながらも、名残惜しそうに自分の席へと戻った。
今まで騒々しく各々が自由意志に基づいて騒いでいたのだが、その声かけ一つで多くのものがその意思を曲げることに、どこか優太は面白みを感じる。
しかし、それは例のグループにとっては例外のようだ。
「ほら、そこ、早く座りなさい」
「うい〜す」
そう軽いノリで返事をする。
優太がちらりとその後ろの方を見ると、例の集団は各々の席へ名残惜しそうに戻っていく。
「じゃあ、早速はじめましょうか」
そう軽い口調で言うと、ホームルームが滞りなく進められた。
その間、優太の意識は朦朧としていた。
彼の眼前には、夜の綺麗な夜空が映っていた。満月がただ孤独に、いや孤高にポツンと浮かんでおり、その輝かしい、だが繊細な月光が夜を照らす、そんな夜を。
ふと、足元を見てみた。すると、そこには、その美しい月光に照らされた、「彼女」が目を瞑って横たわっていた。まさしく、その景色は、優太が昨日見たはずのなんともいえない奇妙な光景だ。
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「・・の、その、磯野!・・・磯野優太!!!」
その瞬間、そんな大きな声と共に彼の意識は完全に覚醒し、再びこの変哲もない教室に戻された。
「・・はい・・おはようございます・・・」
そんな脈絡もない彼の返事に、教室は思わずくすくすと言う笑い声に包まれる。
「何がおはようございますよ。朝イチから寝てるんじゃ、1日持たないわよ」
再び、ホームルームは続行した。今度ばかりは、優太も意識をはっきりとさせていた。実際、それが話を聞いていると言うことを意味しているかどうかは別問題であるが。
「じゃあ、これで今日の連絡は終わりね。一日、がんばろ!!」
そう明るく言い放ったのち、ついにホームルームが終わった。みんな一斉に席を立つ中、優太もトイレに行こうと席を立とうとした。しかし、その時だった。
「ああ!言い忘れてたけど、磯野は、昼休み職員室に来てちょうだいねー!聞きたいことがあるから」
その時、優太はその彼女の口から発せられた空気の振動を右から左へと、耳を通そうとした。しかし、ちょうどその振動が電気信号に変えられ、耳を通り抜けた後の脳に達し情報が読み解かれた時、優太の立とうと上がった腰の動きは静止した。
「・・・・・・ん?」
困惑している彼をよそに、遥は颯爽と教室を後にしていた。