星の加護クズおじさん生活保護ほしがる
約一年前のことである。
天地神明、キリスト、仏陀、それに加えその他諸々それっぽいもの軒並み全てに誓って必ず守ると、この命をかけて必ず守ると、そう心に固く固く決めていた、その対象たる冬美と二人の娘(姉の夏緒と妹の春子)が出て行った。そして、タノスケは一人ぼっちになった。
タノスケは生粋のアル中で暴言とグズりの常習犯。おまけにマッチングアプリを駆使した重度の浮気性でもあり、では浮気するからには金はあるのかといえば慢性不治の金欠病で、そのくせ労働意欲も就職意欲も、家事意欲までも完全に皆無、さらには日頃から上から目線でアレコレ言う醜癖をもっているのにも関わらず極めての低脳(高校生時代、唯一受けた模試の結果は群馬で下から二位)にできているのである。だから言ってみれば、その薄汚れた心身を酒と凶暴性と面倒臭さと性欲と堕落とアホでもって佃煮みたく煮つめて出来上がった男、それがタノスケという男なのである。
なので畢竟、これから筆を進めるわけだが、そんなものはどう取り繕いながら書いたって所詮、佃煮野郎によるザレ言タワ言の羅列にすぎないものになる。そういう下賤ものにならざるを得ないのである。だからこんなの書く方も読む方も紛れもなく人生の貴重な時間をムダにするだけの、つまりそれは最も反生産性的な、命の無駄遣いそのものとなること必定の沙汰なのである。
というわけで話を進めるが、妻子に捨てられたタノスケは、家に一人ぼっちの生活をおくっていた。起きている間中ずっと酒を呑んでいる。体重も増え、肌も荒れ、外見ばかりでない、内面までもがますます醜くボロボロになっていた。 不安とさみしさに身を悶えながら、タノスケはつくづく失敗したと思う。冬美に見捨てられるようなことはせず、大人しく生活していればよかったと思う。逃した魚はシロナガスクジラだった、というやつだ(そんな諺はないが)。
そも、タノスケは〝愛の星〟の下に生を受けている。ゆえに、実に愛情深い、宝玉のごとき輝きを発する男である。ただ、その深すぎる愛情が自分へと向かってしまい、自己愛にまみれたウザ過ぎる承認求めムーブとなったり、また時には、その深い愛情が博愛へと向かってしまい、マッチングアプリを駆使した色妖怪ムーブとなって現れたりしてしまうことが、タノスケ自身、実に玉に傷心地といか、玉砕心地というか、握り金玉の大悔恨心地だというのである。
振り返ってみると、妻冬美が自分の元を去ったのは、それは本人から確と聞いたわけではないが、おそらくは先に述べたそれら、タノスケの愛情を誤作動させた二つの醜悪ムーブが因となったのだと思う。そして、共にしていた生活の中での様々な感触から推察するに、おそらくは、ほとんど九割方、主要な因は、色妖怪ムーブの方にあると思われる。
━━恐るべし! 恐るべし! 性欲、恐るべし!━━
性欲とは本当に恐ろしい、脳を狂わせる、人生を狂わせる恐ろしいものだ。怯えながらタノスケはそう思う。
今から思うと、冬美ほど素晴らしい女性はいないと思うし、マチアプで出会った女性たちほどタノスケにとってくだらない女性たちはいなかった。そりゃあ、マチアプの中にもまともな女性というのは大量にいるだろうが、ふざけた、舐めきった態度が滲み出ているタノスケを相手にするようなマチアプ内女性なぞ、揃いも揃ってロクなものではなかったのである。
例えば、自称二十才だがどうみても四十才くらいのカップ焼きそばとメロンソーダしか受け付けないという超絶偏食の女とか、日本人にしか見えないのに自称ブラジル人でいつもカーニバル疲れしてるとアピってくる太りすぎのあまりにもリオディジャネイロな女とか、ビッゲストな乳輪周りの毛が剛毛で長すぎて絡まり合いまるでいくつもダンゴムシのように丸まって黒光っている天然黒数珠系の女とか、挙げればキリがない、ほんとに、マジでほんとに、唯の一人としてロクな女性はいなかった。
それなのに、とタノスケは考える。なんであんな奴らのために大事な大事な妻である冬美との時間を犠牲にして、散々ぱら今となっては無駄打ちとしか思えぬ汚液連射の醜愚行をしでかしてしまったのだろう。そして何故それらを隠しきれず軒並み全部冬美にバレてしまったのだろう。これはほんとに決して取り返せぬ痛恨の失態である。
ところで、今何気なく、そして当然のように冬美のことを〝妻〟と呼称したが、実はタノスケと冬美、正式な夫婦ではない。また、夏緒と春子のことも〝娘〟と呼んだが、実はこの二人もタノスケの正式な娘ではない。タノスケと冬美は内縁の関係であり、夏緒と春子は冬美の連れ子なのだった。
タノスケが冬美に出会った時、冬美は三才の夏緒と零才の春子を抱えたシングルマザーだった。出会って程なくして優しく寛容な、しかも余裕に十人並みを超える可愛らしい容姿の冬美に心底惹かれ、終生この三人を養っていく決意をタノスケは固めたのだった。もちろんその時、籍も入れ、法的にも正式な夫婦親子になろうとしたのだが、障壁として立ちはだかったのが冬美の両親だったのだ。
冬美の両親は、父親が社長で、社員百人規模のプレス加工工場を経営していた。この規模の企業を何十年にも渡り維持発展させていくことは並大抵のことではないとの話をどこかでタノスケは聞いたことがあったが、どうやらその話はその通りの面があるようで、その並大抵でない長の経験の中で冬美の父は、そしてついでにその父を近くで支えていた冬美の母の方も、人間の本質を見抜く眼力を備えたようだった。そしてその眼力の正当を自分たちで心底から信じ、また、その眼力による見極めの成果が会社をここまで維持発展させたという自負が、その信を堅固強靱に補強しているのだった。当時はその眼差しに大変な反発をおぼえたものだが、今となっては冬美の両親の心眼はタノスケには一家をなす度量も資格もないと見抜いていた、真実を捉えた慧眼であったと平伏し認めざるを得ないが、しかし
「……入籍に反対されたよ」
と、いつもは向日葵のような明るい冬美が一転、暗い顔でそう告げてきた時は、タノスケ自身は入籍などしてもしなくてもどちらでもいいと思っていたくせに
(にゃろう。よくもこのポテンシャル傑物の僕を見くびりやがったな。社長だかなんだか知らねえがたかだか社員数十人の小汚ねえプレス工場じゃねえか。そんなのその辺で芋けんぴ売ってる屋台のオヤジと一つもかわるところがねえや。だいたいよお、プレスと言えばこの僕なんだわ。なんと言ってもよお、小学生の頃兄ちゃんにプロレス技であるボディプレスの手ほどきを受けたほどの僕なんだからなあ。何なら今度よお、ご自慢のプレス工場の中でよお、二人まとめて僕のボディプレスでペシャンコにプレスしてよお、二人仲良くお陀仏ポンて具合にさせてやってもいいんだぜえ?)
なぞ、心中で毒づいてやったものだ。
ちなみにボディプレスを教えてくれた兄ちゃんというのは次兄のことで、タノスケは群馬のギリ関東平野に含まれない町で男ばかり三人兄弟の末っ子として生を受けた。長兄は今や他県で立派に社会に適合して生活しているのだが、この次兄というのは二十年以上、実家で引き籠もっている。引き籠もる前の次兄は読書家でジャンルにとらわれず沢山の本を読み、面白いものはタノスケにもすすめてくれたりした。そして、その本の中にプロレスの技を解説した本があり、数々の技の中でボディプレスだけが何故かカラー写真で載っていて迫力抜群であったことからタノスケはその技に強いに憧れを抱いたのだった。
「兄ちゃん、僕この技やりたい!」
次兄は運動が苦手だったのだが弟の要望を聞くと一つ息を大きく吸い込み、すぐに家中の座布団を集め始めた。そして、重ねた座布団の横に椅子を持ってくるとその上に立ち、ボディプレスの練習を始めたのだった。見様見真似で何度かやったが次兄は全くもって上手くできなかった。
「タノスケ。俺がコツ摑んで教えてやるからな。ちょっと待っててな」
その言葉は少年タノスケの胸に温かった。本来はこういう時、自分もやる自分もやると出しゃばる質のタノスケなのだが、この時ばかりは重ねられた座布団から一メートルほどのところにちょこんと体育座りに座り、ドシン! ドシン! と何度も繰り返される次兄の奮闘を鼻を赤くしながら嬉しげに見つめ続けたのだった。
思い返してみると、タノスケには似たような温かな記憶が次兄との間にいくつもある。そのためか、社会に適合できた長兄よりも、適合できなかった次兄の方が、タノスケは好きなのである。
実はその次兄だが、タノスケの一家が崩壊した影響では断じてないのだが、タノスケの元を冬美夏緒春子が去ったあの日から半年ほど経った頃、自室で亡くなっているのが発見された。発見したのはタノスケの母であった。
何十年もゴミで埋め尽くされた部屋で生活とも言えぬ生活をたてていた次兄に対しタノスケは亡くなるまで何一つ手を差し伸べていなかった。むしろ、次兄に父母の注意が向いている状況を利用し、遊興費に不足したときなぞは暗躍して実家の金に手を付けるという泥棒まがいムーブまで繰り返していた。そして、何ならこの次兄が引き籠もっている状況を幸いにすら感じたことすらあった、実に薄情な冷血動物なのである。
タノスケにとって次兄の苦しみはどこまでも次兄の苦しみだった。だから当然に自分の胸と次兄の胸は全くの別物と思っているし、あの日、少年タノスケの胸が温かくなったとき次兄の胸はどうだったのか、その辺の想像力はタノスケには無いのであった。冬美も、タノスケのこういう心根を、共に暮らした九年間、ずっと見つめていたのかもしれなかった。
んな話はいい。
ともかく、である。
そういう経緯で習得した大切な技を、入籍に反対した冬美の父母に、どこまでも娘を庇護したいだけの冬美の父母に強かにくらわせることを想像し、タノスケは今にもヨダレを垂らしそうな引きつった笑顔になるのであるが、ふいにこのような顔になるような男だから冬美の父母に入籍を許されなかったような気が、ちょっとするのである。
まったく、思い返すと辛くなることばかりである。
一人ぼっちの家の中、タノスケは呑み続けた。お金がないのに、呑み続けた。先のことなど考えられなかった。脳を麻痺させていなければ生きていられない心地だった。現実逃避ではない、生きるための緊急手段として呑み続けた。
しかし、体はどんどんボロボロになるし、金も残り少なくなってくるし、それでいよいよダメだと思ったとき、フラフラヨボヨボ、タノスケの足は区役所へと向かっていた。区役所に行って生活保護受給の相談をしようと思ったのである。
五体満足で、酒で衰えたとはいえ、回復させればまあ最低限の体力にも問題なし。障害や重い持病も無し。働き盛りだから年齢の問題も無し。さらに、世には慢性的に人手不足に悩む業界もあるとかで、とすならば、そもそも求人がないという問題も無し。つまり無いのはタノスケの労働意欲のみということになる。
こんな状況で果たして生活保護の対象になるのだろうか。純粋純朴可憐なタノスケにはその辺りの事はまったく分からなかった。とにかく区役所へ行き、生活保護制度の詳細な説明を受け、自身の状況を照らし合わせねば何も分からぬと、率直実直な生真面目タイプのタノスケは素直にそう思ったのだった。
だが、もしかしたら、と不安がよぎる。もしかしたら担当者に
━━そのへんで野垂れ死ね━━
とか、そいう感じの心ないことを言われ、制度の説明すら受けられずに追い返されるのではないか。タノスケは心中、実に心細い気持ちで区役所への道を歩いていた。
その道すがらだった。一台のトラックが、歩道に車体を大きく乗り上げ、歩道の大部分を塞ぐかたちで堂々と停まっていた。歩行者が使えるのはようやく一人が通れる程度の幅である。 これにタノスケは、さすが〝ベイビー(社会の希望)の星〟の下に生を受けているだけあって即座に〝グズり〟を発動、憎々しげな、実に狭量な顔になり、禍々しい気持ちでもって心中毒づいた。
━━もしもよお、このすっかり狭くなった歩道を歩いている途中によお、向こう側からよお、自転車がよお、超猛スピードでよお、脇見運転しながら来たらどうするってんだ! そんなことになったよお、この社会にとって大事な大事な、社会の希望たる僕はよお、轢かれて挽肉になってよお、挽肉でえーす、なんてことになってしまうだろうがよお!━━
実際は、狭いところを歩行者が通っていたなら、そこにあえてそんな猛スピードで、しかも脇見運転しながら突っ込んでくる自転車というのはそうそうはいるものでもないが、この時タノスケはそういうことがある可能性を自身の中で異常に膨らまして、それは十分実際にあり得ることだとして大いにグズったのだった。そも、多くの場合、歩行者を確認するれば自転車は止まってくれるだろうし、止まらないにしても、徐行し、多少窮屈でも譲り合いながら進めば何も問題ないのは明らかである。だがしかしである。このタノスケという、このグズりの名手は、一旦グズりだすともはやグズりたいこと自体が目的化しているフシもどこかに確かにあり、被害妄想いっぱいに自分が轢死体になった姿を想像し、んで、それに全身全霊恐怖までし、目の前に停車するトラックに対し、おぞましいまでの怨念をドロドロ膨らましていったのである。
見ると、そのトラックの荷台は少し開かれていた。それで積載の荷物が瞥見できたのであるが、荷台には一人暮らしではあまり買わなそうな大型テレビや大型冷蔵庫が段ボールの中に収まった新品の状態で積まれていた。
ふいに横、少し離れたところから若い男女の話し声がした。そして、その会話の中から突如、二人の実に幸せそうな笑い声が花のように咲いた。
それに心和むどころか、狂的な嫉妬を覚えたタノスケは、すぐに声の方を向いたのだが、二人はタノスケの視線には気づかず、見つめ合い、笑い声をたてたままである。そのうちに男性の方の笑い声は自身の笑顔に収まるかたちで消え、女性の笑い声だけが続いたのだが、聞いていてそれはまさに、鈴を転がしたような、とでも表現したくなるほど軽やかで屈託のない、きっとあらゆる邪気をもすり抜け、そして全てを肯定しそうな、そんな感じの、真の華やかさを供えた笑い声であり、思わずタノスケは息をのんだ。
そして、息を飲んだまま見上げれば、そこは新築の、ちょっと高級そうなマンションだった。そのマンションのピカピカの入り口の前に、その若い男女はいたのだ。おそらくは入籍を済ませ、親や親類縁者みんなから祝福され、よしこれから共に生活を始めようという完全無欠の夫婦なのであろう。
希望が噴出していた。温泉とか原油とかが地から噴出するように、その夫婦が立つその場所から、希望が噴出していた。タノスケは先ほど自分のことを〝社会の希望〟だとか思ったことを思い出し、この夫婦と自分を引き比べ、死にたくなった。
そこに突然マンションの扉が開き、作業員姿の男が三名ほど出てきたのだが、その三名はその希望に輝く夫婦に軽く会釈し、夫婦もそれに笑顔で応えると三人とも笑顔になりトラックへと向かっていった。若夫婦も実に嬉しそうな顔で荷下ろしの作業を見守っている。
これで事情は全てわかった。このトラックはこの夫婦のためにここに停まっていたのだった。重要な用事のために区役所へご足労中であるこの尊いタノスケの通行を遮り、大いに邪魔をしてくれているこの大迷惑トラックは、この華やかな若夫婦の華やかな新生活で使われる各種家電を、二人の新築高級マンションへと運び込むために今ここにこうして停まっているのだった。
タノスケは卑屈に背を丸めると、この夫婦からも、そしてトラックからも顔を背け、この糞トラックのせいですっかり幅が狭くなった歩道を伏し目のままズンズン進んだ。猛スピードですり抜ける自転車などが実際に現れ、実際に糞トラックのせいで事故に遭いたいと、そう願いながらズンズン進んだが、自転車はおろか、歩行者すら対向に進んで来ず、タノスケは何不自由なくトラックの横を抜けた。
━━もの足りねえ━━
タノスケはトラックの横を抜け、そこからさらに十メートルほど進んだところで立ち止まり、キッと振り返ると、トラックを睨み付け、十分に邪眼の呪いを浴びせかけた後、目を閉じ、手を組んだのだった。それはまるで信仰歴五十年を超える敬虔な信者が神に祈るときのような、至誠極まる、神聖とすら言いたい姿だった。そしてタノスケは祈った。
━━そこに隕石が落ちますように━━
念入りに祈ると、実は〝孫子の星〟の下に生を受けている関係で案外だが心憎いほどにクレーバーなところがあるタノスケはすぐと気持ちを切り替え、再び戦略的成功を摑むべく、すなわち生活保護を受けるべく、区役所に向かって歩き出したのだった。
区役所の保護課は七階にあった。エレベーターを出ると、壁に貼られた〝保護課〟と書かれたプレートが示す方向へ歩を進めた。受付カウンターが見えたところで、その手前三メートルほどのところで、案内係だろうか、待ち構えるようにして立っていた女性職員に呼び止められた。年は二十台後半くらい、髪は茶色で化粧っ気はないが、可愛らしい顔をしていた。ただ、やけに目は鋭かった。
「現在保護を受けている方ですか?」
その言葉の響きとさらに鋭くなった目つきから、こちらが歓迎されていないことがわかった。タノスケは、自分の話を全肯定だけでもって聞いてくれ、常に優しくしてくれる女性ならば、どんなに(は、言い過ぎだが)顔の作りが悪くても、その女性のことは優秀でかわいいくエロいと認識する。対して、自分に乱暴な言葉をぶつけてきたり、嫌悪や排他の雰囲気で威圧してくる女性は、どんな顔の作りがよくでもタノスケにとってそんなの最底辺の糞ドブブス糞なのである。
瞬時にその女性職員のことが嫌いになったタノスケは大変不快になり、なんだがひどくグズりたい気分になった。タノスケは〝ベイビーの星〟の下に生を受けており、その影響で、不快を感ずるとどうしたって大いにグズってやりたくなるのである。
それに加え、これは相手が自分よりもパワーが劣りそうな場合限定だが、グズりの中でおもいっきり乱暴な言葉遣いでもって相手の自尊心を傷つけてやりたくもなるのである。
「ああ? 現在保護を受けている方かあ? 何でそんなこと聞かれなきゃならねえんだ? ああ? 教えねーよ。ああ? なんだその腐った汚え顔つきはよお、ああ?」
女の鋭い目に軽侮の色が混ざる。そして女は、タノスケのその言動のレベルと、タノスケが身に纏っている安物ダルダルの服と履いている安物ボロボロのサンダルを見て何らかの確信を抱いた模様。そしてきっぱりと拒絶の言。
「それだとこちらでは対応が難しいですね」
一気に大きくなったその女性職員の声に反応し、受付カウンターの向こう側にいた十人ほどの職員が一斉にタノスケの方を見る。皆四十過ぎの男性で、スーツをピシッと、まるでこちらを威迫するようにピシッと着ている。目は一様に置物の目のようで、お前など眼中に無いといった風情。
鋭い、女の切りつけるような目と、無機質な、男達の無関心な目、その二種類の連動。それは長年に渡りこのフロアで効果抜群ゆえに何度も何度も繰り返され、研ぎ澄まされ、いつしか伝統芸よろしく集合的無意識に支えられるかたちで荘厳さまで備えるほどに昇華された連動のように感ぜられた。
そして、その連動に圧倒されたタノスケの胸には、忽ち原始的な、たとえば群れから追い出される動物が感じるような深い深い悲しみが広がり、今にも子どもみたいにえんえん泣き出したい絶望心地。
だがしかし、寸前のところでタノスケは耐えた。何故と言えば実はタノスケ、〝昭和の頑固オヤジの星〟の下にも生を受けており、人前で泣くなんていう、そんな不様を晒すなんてことは断固絶対に拒否りたい質なのである。だからこの時タノスケは泣く代わりに、自身の内部に渦巻いているその真っ黒陰性の絶望心地を吹き飛ばすべく、ケツを突き出し、ぶぶぶ! 盛大に放屁した。
想定外事態にフロアは静まりかえった。その静寂の中で、ピチョン、両の目より流れた大粒の涙が、サンダルの上に落ちた。安価をうりにする、よく知らない海外メーカーのものを三割引セールの時に買い求め、五年以上毎日のように履いているから底の溝も一本も残ってなくてツルツル。だから雨の日に履くとたいそう危険な、だけどタノスケお気に入りのサンダルだ。そのサンダルの上に、涙が落ちたのだった。
乾いている場所に涙が落ちてもピチョンなどという音はしない。こういう音がするということは、どうやら先ほど引っ越しのトラックを見たとき我知らず涙は流れていて、それが雫となって落ち、すでにサンダルは十分濡れていたと思われる。その濡れていたところに再び涙が落ちたものだから、このような音がしたのだとタノスケは思った。
とするならば、とタノスケは愕然とする。自分は泣き顔のままこのフロアに到着していたのだ。明らかに不幸の底で喘ぐ顔で登場していたのだ。それにも関わらずこんなにも冷たい対応を受けたのだと知った。
んで、いよいよタノスケはもう耐えられない心地になり、尻尾巻いて逃げるべく回れ右、一目散にエレベーターへと駆け出した。しかし、その時意外にも背後から
「お待ちください!」
というだいぶ年配の男性の、おそらくは職員の中でも立場がかなり上の方の人の声が聞こえた。一連のタノスケの言動を見て、そこに保護の必要性を感じたがゆえに慌てて呼び止めたような、そんな感じだった。しかし、改めて言うが、この時タノスケはまだ〝ベイビーの星〟の加護によるお得意のグズりを発動中であったし、一連の冷遇によって負った深い孤立感の傷、その現場からとにかくすぐにでも逃げたかったし、また次々と流れ落ちる涙を見られたくないという昭和頑固オヤジ的な気持ちもあり(ベイビーなのかオヤジなのか分からないが)、ともかくその職員の呼び止めの言を聞いても止まるどころか逆に足を速め、ちょうど開いていたエレベーターに飛び込むように乗り込んだのだった。そして、ゾンビの群れから逃げる人みたいに慌てふためいた態で〝閉〟ボタンを連打して扉を閉めると、行き先の階数ボタンもよく見ずに急いで押し、エレベーターが下降を始めると、情けなくその場に崩折れたのだった。
ふと見上げると、エレベーター内、レストランのメニューが貼ってあった。この区役所は最上階にレストランがあるらしい。唐揚げ丼や焼き魚定食、うどんやラーメンなどの写真が見えた。高速道路のパーキングにありそうなレストランだ。つまらないレストランだ、と思った時、その下に貼ってあったもう一枚のメニュー表が目にとまった。これは一階にある喫茶店のもののようだった。障害をもっている方達によって運営されている喫茶店で常時、種類豊富なクッキーが置いてあり、今月のオススメコーヒーは〝モカ〟とのことだった。
忽然とタノスケはあることを思い出した。冬美との入籍を許してくれなかった冬美の両親のことである。もしも入籍が許され、入籍して冬美と正式な夫婦になっていたならば、法的な拘束力に辛うじて守られるかたちで今自分はこんな孤独の底で絶望していなかったのではないかと、問題の本質を考察する重心が大いにズレた大いに無体なことを考え、するとむらむらとタノスケは怒りの炎に包まれていった。
タノスケが思い出した怒りのエピソードは、タノスケが冬美の両親の信頼を失う原因となったエピソードの一つである。その種のエピソードはおそらくは百以上あるが、その中の一つを〝モカ〟というワード、あともしかしたら〝障害〟というワードに導かれ、忽然と思い出したのである。
はな、それはタノスケが冬美と付き合い出して半年ほど経った頃のことだったと思う。夏緒も春子もほんとに小さかった。春子など、歩くのさえおぼつかない、それくらい小さい頃だった。
その日、タノスケは春子と夏緒の三人で歩いて三十分ほどのところにある冬美の両親の家に向かっていた。春子はベビーカーに乗せ、夏緒はそのベビーカーの後ろに後付けで付けた子どもが立ったままのれるステップの上に立っていた。冬美は家事を片づけてから来ると言って家に残った。
「お父さんとお母さん、なんだかとっても張り切ってたよ。お肉も、いいお肉注文したみたい」
そう言って冬美は笑顔で送り出してくれた。この日、冬美の父母は庭でバーベキューをやろうと声をかけてくれていたのだった。
春子と夏緒がキャッキャと笑っている。
二人からしてみれば祖父母の家に着くと、着くなり春子と夏緒はベビーカーを飛び降り、祖父母の家の中へ入っていった。すぐに家の中から祖父母が盛大に歓迎する声が聞こえた。
この頃はまだ冬美と付き合い始めて半年くらいだったからタノスケの性根や能力が先方にはバレていなかった
家からは冬美の笑顔満開の父親だけが出てきた。冬美の母は、孫達と家の中で何やら準備するとの由。
冬美の父親と会うのはこれで会うのは三度目である。父親はさらにその笑顔を盛大にバージョンアップさせながら、タノスケをバーベキュー会場であるこの家の庭へと案内してくれた。そこにはバーベキューグリルやキャンプ用のテーブルや椅子などが、倉庫から出したばかりなのだろう、まだ組み立てられていな状態で乱雑に積まれていた。
様子をみるに、なんだか父親は愛する娘である冬美の新しい彼氏となった男との時間を、何か特別な時間として噛みしめている風情を醸していた。表情だけでなく発散する雰囲気も友好的かつにこやかな全肯定のもので、それは幼い子どもを二人抱えたままでシングルになってしまった娘の、その前途を深く心配していた矢先、助け船の到来よろしく現れたタノスケに対し、品定めの必要よりもむしろまずは感謝の念を送る必要を感じているからなのかもしれなかった。
タノスケはまずはテーブルと椅子の準備に取りかかった。父親に設置場所を尋ね、指示された場所に折りたたまれているテーブルと椅子をこの父親とともに運び、父親はタノスケの背後あたりで何やらグリルの金網などをいじりだしたが、タノスケはそのままテーブルと椅子を広げていく作業に取りかかった。だが、タノスケはその構造をよく見分しないで乱雑に広げたものだから、テーブルを広げているとき指を可動式のパーツにちょっと挟んでしまい、
「あっ、痛!」
なぞ言ってしまった。しかし、それは怪我などではなく、ちょっと皮膚が赤くなる程度のダメージであったのでそのまま六脚あるキャンプ椅子を広げる作業に取りかかったのだが、ここでも構造をよく見ないで作業をするものだから動くパーツに指を挟み込み、再びの
「あっ、痛!」
なる言をはいてしまう。しかも、そのまま続けた、本日二脚目となる先ほどと全く同じ構造の椅子を広げる作業でも、また同じ失敗を繰り返し
「あっ、痛!」
と言ってしまったのだがこの時、割合大きな自分のその声を感じながら、ふと、自分は何故今背後から労りや心配の言葉をかけられていないのだろうとの疑問が湧き、その疑問にすっぽり捕らわれてしまう。んで、さらに考えてみると、少なくとも実際に流血を伴う怪我をしたか否かについて確証を持てるのは今手元を直に見られる自分だけであるのだから、ならば咄嗟に、大丈夫? などの心配の声が背後よりかけられてもよさそうなものなのにと思えて仕方がない。で、そう思うと、やおらタノスケの背中のセンサーはどこまでも鋭敏になっていく。
すると、タノスケのその鋭敏になったセンサーは確かに背中に冷たいものを感じるのである。タノスケは振り返るのが恐くなり、どうしたものかと思いながら、広げようと手にしていた三脚目となるキャンプ椅子をまじまじと見つめていたのだが、こうしていても仕方がない、恐る恐る、今度はわざとあえての指挟みを慣行し、再再度の
「あっ、痛!」
なる言を発してみた。そして次の瞬間、タノスケは小動物のような素早さで振り返ってみた。だが、そこにはタノスケが心配したような冷たさや堅さは微塵もなかった。そこには先ほどタノスケを迎え入れてくれた時とまったく同じ暖かさとやわらかさがあった。それは瞬時に作り出せるような質の雰囲気ではないと思った。するとタノスケは心底からの安堵をおぼえ、気を取り直して四、五、六脚目のキャンプ椅子を広げていった。そして、バカなタノスケは
「あっ、痛!」「あっ、痛!」「あっ、痛!」
同じ失敗を繰り返したのだが、しかし今度の痛みの独り言ちは安心して放つことができた。
しかし、その独り言ちの連発が終わった時、タノスケの背中には凍った暗闇が接触しているような感覚が、確かにあった。確かに、あまりにもリアルにあった。しかし、とりあえずタノスケはこれを風邪気味だとかそういう因によるものだと思った。バカなタノスケは脳天気にそう思った。
んで、テーブルや椅子、そして焚き火台やバーベキューグリルの準備は済んだ。大きなクーラーボックスには氷水が張られ、たくさんのビールや酎ハイが浮かんでいる。
「冬美、遅いねえ」
冬美の父親が時計を見ながらそう言った。心配して、もしくは寂しくてそう言ったというより、知的な話題には少しも着いていけず、雑談的などうでもいい感じの普通の話題をいたずらに若干ゲスな話題方向に変換させて卑しく笑い、自分の話に自分で悪ノリに乗りまくる、そんなタノスケとの時間を持て余し、その無聊を少しでも薄めようとして言ったように聞こえた。
「もうすぐ着くと思いますよ。溜まった洗濯と風呂掃除をして、それから衣替えをしたら来ると言ってました。そんなの一時間もかからないでしょうから」
タノスケの言葉を冬美の父親はピクリともせず聞いた。それだけの家事が一時間で終わるのかという疑問が父親の中に生じたようだった。そして膨らみ、その内圧が高まる疑問を、父親はその皮膚を固く硬化させることによって内部に押しとどめたようで、特に顔の皮膚が硬かった。
同居開始からずっとタノスケは家事の一切を冬美に押しつけていた。だから、家事にどれだけの労力と時間がかかるのをタノスケはまるで知らなかった。
冬美は朝から夕方までフルタイムで働いている。働いているのは家から車で二十分ほどの距離にある障害児施設である。肉体だけでなく色々と心労もあるようで、帰宅した冬美からそこに通う子どもや保護者の話をよく聞くが、聞いていて本当に大変そうだと思う。
で、それはいいのだが、冬美が働いているその間タノスケは何をしてるのかと言うと、酒を呑んだり、マッチングアプリをいじったり、色々と忙しくしているが、大抵は寝ていることが多い。夜中にゲームをやったりネットフリックスやユーチューブを見たりしていて眠いのである。というわけで、というのもないものだが、タノスケは家事は一切やらず、すべて冬美に一任しているのである。
言い訳に聞こえたら恐縮だが、タノスケは〝出来る上司の星〟の下に生を受けている男なので、信頼し、すべてを任せることができるのである。出来ない上司ならばこうはいかないだろうと舌なめずりに表情を歪めながらタノスケは考える。出来ない上司というのは得てして、自分がやった方が早いし間違いがない、という実に浅はか千万な理由でなかなか任せるということができないものだ。タノスケに言わせればそんなのは相手への信頼が足りないラブに欠けた愚行だし、相手を育てる気がない、これまたラブに欠けた蛮行なのである。タノスケはそんなラブ足りねえことは絶対にしない出来る上司気質の男なのである。
そうなのだ。タノスケは〝ラブの星〟の下にも生を受けているのである。ゆえに、絶対ラブ至上主義の男なのである。人間の行いうる言行、そのすべての根底にはラブがあるべきで、ラブ足りねえことは決してあってはならぬというのがタノスケの信念なのである。命にかえても絶対に死守すべきと考えるタノスケの超越至極的パーフェクト信念なのである。
冬美の父親は依然としてちょっとうつむいている。そして、カチカチとやたらに百円ライターを鳴らしている。一瞬火がつき、すぐに消え、また一瞬火がつき、消える。
冬美の父親の視線の先にはジェル状の着火剤がある。これは透明なアルコール性のジェルで、大変によく燃え、炭に火をつけるときに大いに活躍するものである。それは歯磨き粉が入っていそうなチューブ容器の中に入っていて、横倒れに置かれている。蓋はタノスケの方を向いている。あり得ないことだが、もしも突然何か重いものが降ってきてチューブ容器の上に落ちたなら、きっと蓋は飛び、中のアルコールジェルは勢いよく飛び出してタノスケの全身にかかるだろう。そして更に不運が重なり、何かの拍子で、今冬美の父親の手元でカチカチ明滅を繰り返している小さな火がアルコールジェルまみれのタノスケに接触したならば……、もしもそんなことがあったならば……。
うつむいていた冬美の父親はふいに空を見上げた。そして熱心に、何かを願うように、空を見つめた。
何か手違いでもあったのか、午前中に配達されるはずの肉が未だ届かず、冬美も所用(というかタノスケが散らかしに散らかした部屋の掃除や、タノスケが深夜から明け方にかけ発揮しただらしない鯨飲馬食癖の後始末や、タノスケが洗濯に出せばいいのに出さずにバックの中や部屋の隅やらに溜め込んだ汚れものの洗濯や、稼ぎもなく味も分からないくせに卵は平飼いじゃなきゃダメだと言うタノスケの言に従い最寄りのスーパーよりも倍以上も遠いところにあるスーパーまで買い出しに行くなどの諸々の家事)が長引いていてまだこちらに着いていないこの状況では炭に火を付けるのはまだ尚早な雰囲気だし、そうすると冷えたビールの栓を抜くのもまだ出来ぬのも道理。んで、とすると、この父親の先程来より続くやけにニコニコした笑顔と数々の親切な行動に引き続き徒手空拳で晒され続けることになるわけだが、しかしそれはちょっとタノスケにはえらく心理的に負担なことに思われ、断然ノーサンキュー心地なのであった。
なぜといえば、タノスケはこの終始ニコニコ笑顔の父親がその親切で思いやりのある言動の最中ふいとこちらへ振り向ける細目の一瞥に晒される度、心底からの怖気をふるってしまうからなのである。確かにその細目は一見するとニコニコ笑顔に使う表情筋の動きに合わせてベリーベリーナチュラルに出来上がったもののようにも見えるが、しかし、タノスケの目にはそれは完全に人為的に巧みに調整されたものにしか見えず、その細い目の瞼の隙間から放たれる視線は明らかに閃光のような、牙突の視線なのだ。
その牙突の視線の威力はは、タノスケには直観的リアル実感として分かるのだが、間違いなくタノスケレベルの処世術というか、擬態というか、心根隠蔽シールドではちょっと手に負えないレベルの貫通力を有しているのだ。もしもタノスケが何かでほんのちょっとでもしくじり、思わずピョンと一瞬でも尻尾を出してしまったなら、それはもう引っ込める間もなく、冬美の父親はその尻尾を一瞬のうちにグイと引っ掴み、引っ張り、タノスケがどんなに逃げを決め込もうとも圧倒的剛力でもって引っ張り上げ、いとも簡単に軽々宙に釣り上げ宙ぶらりんにするだろうとタノスケには思われるのだが、こうなればタノスケの四肢は惨めにも宙でバタバタ空を掻き、そして掴まれた尻尾の根元にあるウンカスまみれの肛門は哀れ無残に天空に向かって盛大に露出し、神々へ、あるいは自身を守護する星々へ大々的に晒すことになるのだ。そんな妙にリアルで確信めいた予感が、冬美の父親と過ごしていると身の内よりせり上がってくるのを感じ、タノスケは実に落ち着かないのである。
今更ながらだが冬美を抜きに一足早く来たのは失策であった。家に残って家事を頑張る冬美の人としての優秀さに劣等感を覚えるはめになるよりか、春子と夏緒を少しでも早く祖父母に会わせたいとの至極もっともな口実のもと、一足早くバーベキュー会場に来て肉を焼き焼き酒を呑んでいる方が利口だとタノスケは考えたのだが、考えが浅かった。大いに誤算だった。一緒に連れてきた春子と夏緒が一向に庭に出てこず、どうやら嬉々として家の中で祖母と何やら準備作業をしているようだが、これも誤算だった。春子も夏緒もまだ保育園児である。準備する上で、いかなる戦力にもならないとタノスケはそう決めつけていたが、それは間違いだったようだ。今思い出したが、二人は保育園でも賢いとか、お手伝いを頑張るとか、よく保育士さんからお褒めの言葉を頂いていた。
(さすがは僕の遺伝子は受け継がず、聡慧なる冬美の遺伝子を受け継ぐ春子と夏緒だなあ)
思わず本心から感嘆の吐息を漏らしてしまったタノスケだが、その弛緩したどこか温かい思いとは裏腹にまたぞろいつもの自分棚上げ式の怨念へと続く妄想をしてしまう。
もしも、今春子と夏緒が庭に出ていて、自分たちの祖父たるこの牙突の視線の主に、それはもう鬱陶しいくらいに纏わり付いていたなら、きゃつも孫にメロメロの隙だらけの小汚いだけのジジイにきっとなり下がり、そうなればタノスケもこんな居心地の悪い思いはしなかっただろうし、それにそうなればまだ炭に火はつけられず肉を焼けないのは変わらないとしても、春子と夏緒の連携によって作られた隙をつくかたちでおもむろに柿ピーでも一袋開け、悠々と勝手気まま風情に一本目のビールの栓を抜きコップにコポコポ、一足早く一人で呑み始めるというアル中冥利につきる展開も十分にあり得たのである。
だが、ここここに至ってはその展開も望めない。家の中からは絶え間なく春子と夏緒の幼い嬌声が聞こえてくる。お手伝い好きな二人のポテンシャルもさることながら、よほど冬美の母が準備作業を子どもでも楽しめるものへと上手く加工したのだろう。さすがは孫娘たちを愛する祖母プレゼンツのタイムだ、恐るべし、ということであるし、また、さすがは冬美の母君だ、ということでもあるだろう。
冬美、春子、夏緒がいないこの状況で、冬美の父親と二人きり、しかももはやバーベキューの準備とて何一つやることはなく、手持ち無沙汰も手持ち無沙汰。しかもこの状況、向かい合っているわけではなく、斜向かいで、体の方向も相対からは外れたかたちで座っているのだが、これまで自身の経営する工場に雇用するため数百人、いや、きっと千人を有に超える人間を面接してきた、間違いなく具眼の士であるところの冬美の父親と二人きりというこの状況。ふいに牙突の視線で切りつけてくるこの父親と二人という状況。
開放的な庭にありながら、そしてどこまでも透き通った青空の下にありながら、そしてまた、先ほどからずっと酸素濃度が高そうなそよ風も吹いてはいるが、タノスケは窒息しそうだった。
こうなってくると、〝サラブレットの星〟の星の下に生を受け、自分棚上げ野郎と逆恨み女郎の汚濁に腐りきった血を親馬の血のごとく受け継ぐタノスケはだんだんと冬美に対し腹が立ってきた。
━━にゃろう、この庇護すべき僕を敵地に一人放置して、なにを家でダラダラやっていやがるんだ!━━
との完全に自分棚上げ式の逆恨みの罵声を心中で吐き出すと、ドロドロしたものがタノスケの身の内で黒く沸騰した。
たとえ春子と夏緒がここにいなくても、冬美さえここにいてくれれば、冬美の父親がいかに強力な牙突の視線を向けてこようとも都度冬美の影にサッと退避できるし、あるいは、まだ焼く肉は届かなくとも遊びで炭に火をつけてキャッキャと談笑イチャついて誤魔化すことだってできるのだ。もう、それはもう何だってできるのだ。どうにでもこの腐り切った心根を誤魔化すことができるのだ。そうなれば冬美の父親に悪感情を抱かせることなくこの会を終えることができるのだ。
もしも深刻な悪感情を抱かせてしまったなら、きっと冬美の父親は、
━━冬美はどうしてこんな男を選んだのだ? 冬美は心の病気なのか? 病院に連れていくべきか?━━
と煩悶し、当然に決して二人の仲を認めてはくれないだろう。それはマズい。実にマズいのだ。なんとしてもタノスケはこの会を無難にやり過ごしたいのだ。
この、表向きは楽しむだけの交流バーベキュー会、しかし、実のところ(ここに到着後、牙突の視線をくらって気づいたことだが)この会の主な目的はタノスケという新しき冬美の配偶者候補にして春子&夏緒の父親候補の品定めにあるのだ。
この会はそんなふざけた、完全にこちらを舐めきった会なのだ。
しかし、そんな気に入らぬ会ならばとっとと帰ればいいではないか、とのタノスケらしい考えも幾度も浮かんでいた。だが、そう簡単に椅子を蹴るようにこの場を去れない真摯な事情がタノスケの側にもあるのだ。もちろん、愛する冬美を育ててくれた人だからという純粋素朴な理由も一%未満くらいはある、確とあるのだが、そんなのは実はほとんどどうでもいい理由で、九十九%以上を占めるタノスケにとり大事な大事な理由は、金である。
冬美はフルタイムで仕事をしているが、障害児施設での勤務で、給料は高くない。しかし、実に意外なことに、最近冬美、春子、夏緒、タノスケの四人で住み始めた家の初期費用の全ては冬美が出したのだった。当初タノスケは、
「僕が出すよ」
と胸を叩いて完爾と笑い、暗に感謝を要求し、さんざん感謝の言を言わせて気持ちよくなった後、指切りまでして約束していたのだが、契約支払いの段になって、酒やらタバコやらギャンブルやら女性関係やらで、すなわち自身の欲望のために散財した結果空いてしまった大穴がどうしても埋められず、結句、一円も払わなかったのだ。しかし、冬美も預貯金はほぼないと言っていたのに、支払いの時、どこから捻出したのか全額をポンと支払ったのである。
しかもである。話はそこで終わらない。無事に契約が完了して四人で住むことになったその家というのは小さいながら横に駐車場がついていたのであるが、そこにちょうど駐められるサイズの小型ファミリーカーまでも冬美はポンと購入したのである。しかも新車でである。
これらの展開を目の当たりにしたタノスケはピカチーンときた。なぜなら、実はタノスケ〝名探偵の星〟の下に生を受けており、タノスケの前にはすべての真相が明らかにならざるをえないからなのである。
名探偵タノスケが推理するに、これは間違いなく、これらの金の出所は、冬美の両親である。
「真実はいつも一つ!」
そう絶叫すると同時、タノスケは盛大にヨダレを垂らした。〝テイスティーな星〟の下に生を受けているタノスケは、目の前に大好物を置かれるとこうして大量にヨダレを垂らしてしまうのである。この時の、その大好物というのは、冬美の両親のスネである。
そも、タノスケの大好物は何かというと、〝親のスネ〟なのである。親のスネをかじったときのその美味しさをタノスケは誰よりも知っており、また誰よりもスネかじりというものを追求してきたとの自負を密かにふとこる男なのである。
そんなタノスケをして、不動産契約と新車購入の時点ではまだ会っていなかったが、冬美の両親、ことに社長業をしているという父親の出現は、いや、正確に言うならば、この父親のスネの出現は、向後何に変えても死守すべきとの闘志を掻き立てる目くるめく魅惑の体験であったのだ。
だから、タノスケはいかに気まずくとも、今後も存分にスネをカジカジ味合わせていただくため不機嫌に臍曲げてこの会場を去るなんてわけにはいかないというのである。まったく、なんとこのタノスケという男は、〝自制心の星〟の下に生を受けた、自己統御の権化のような、不屈一徹、男の中の男であろうか。
「ナノスケー!」
夏緒の声がした。この時夏緒はまだ四才である。舌が十分に回らず、タノスケをナノスケと呼んでいた。
夏緒の姿を見てタノスケはギョッとした。夏緒は人差し指に絆創膏を巻いていたのだ。
「ど、ど、どうした!」
タノスケは狼狽した。
「はさんだー」
みるみるタノスケの顔は青ざめる。
「大丈夫か? 見せてみろ!」
夏緒はポカンとしている。後ろから春子の手を引いた祖母が現れた。
「タノスケ君、大丈夫ですよ。ちょっと挟んだだけですから。血も出てないし、ちょっと赤くなっただけ。指も動くしね」
そう言って祖母は夏緒に笑いかけた。夏緒もそれに自然に応える。しかし、そんな穏やかな光景を見てもタノスケの心は平常を取り戻せない。実はタノスケ、〝ミニマリストの星〟に生を受けており、その心までも極めてミニマムに出来ており、そのミニマムな小心からいかに皆が大丈夫と言っても、実際に自分の目でその怪我の加減を確認するまでは気が落ち着かない性分なのだ。んで、重ねて見せろ見せろと言うと、冬美の母親もタノスケのしつこさに折れた雰囲気を発し、夏緒もしぶしぶ巻いてもらったばかりの絆創膏を剥がしにかかった。それを覗き込むようにタノスケは顔を夏緒の手元に近づけたが、それにつられて祖母に手を引かれていた春子も顔を近づけてきて、そのまだ一才の柔らかな肌を感じると、幼児の肌の美しさとその脆弱さが胸に染み、すると、四才だが春子と同じ幼児であることに変わらぬ夏緒の怪我の加減への心配が更にマシマシ心地。
夏緒が絆創膏を引き剥がし、そこに顕わになった傷は、たしかに祖母の言う通り〝赤くなっただけ〟のようにも見えた。だが、絆創膏の内側の、傷に当たっていた白い布地の部分に、うっすらとだが血が滲んでいるのを確認したタノスケは、
━━糞ババア! 出血してるじゃねえか!━━
という憤怒が噴き上がり、その激情に押し出されるようにして心配が心の限界点を突破した。んで、思わずタノスケは絶叫した。
「腐って切断になるかもしれねえぞ!」
まだ言葉の分からぬ春子はポカンとし、父母はそんなわけないだろうと呆れ顔、しかし、一定言葉の分かる夏緒は恐怖に顔を強ばらせた。
タノスケは夏緒を今にも泣き出しそうな情けない顔で睨めつけたまま凝視した。この光景に父母の顔はみるみる曇っていき、互いに顔を見合わせて表情で何やら合図を送り合っている模様。これはどうやら父母が人が不意に暴露した人間としての器サイズを見たことを互いに確認し合う所作にも思え、すなわち、自分一人の心の中で包んでおられずに他者を巻き込む形で不の感情を伝染させ、その伝染が完了したのを相手の表情で確認し、もって自身の心の安寧を謀るという屈折心理かつ姑息な小者ムーブ、しかもその相手はわずか四才の、庇護すべき女児であることを考え合わせ、わずかこの一幕でタノスケという男の器のほどが知れたとの思いから父母を互いに顔を合わせたのだった。
夏緒が泣き出した。祖母は夏緒をタノスケから引き剥がすようにして抱き込むと、
「だいじょうぶ。すぐに治るよ」
と優しく告げ、祖父もかがみ込み、優しく夏緒の頭を撫でる。何を感じたのか、春子も祖母に抱かれるべく祖母に駆け寄ると、祖母も片手を広げ、春子を胸に抱く。祖母の胸に夏緒だけでなく春子もおさまったところで、更にその上から祖父が抱擁。まさに愛の肉団子状態。タノスケのつけいる隙は一ミリもない。
途端にタノスケは居心地の悪さを感じた。父親といるだけでも居心地悪かったのに、この状況ではもう無理だと思った。誰かに保護して欲しいと思った、もちろん、それは冬美がいいのだが、今すぐとはいかない。今すぐに誰かに保護して欲しい心地だった。
━━ったく。保護犬とか、保護猫とか、そういう活動してる人がこの家の前の道を通りかからねえかなあ。んで、保護タノスケ活動をしてくれねえかなあ━━
しかし、こんなのは願っても詮無い願いである。仕方ない、冬美が来るまでここを離れようと思った。そこでタノスケはここに来る途中にコンビニがあったことを思い出し、
「ちょっとアイスコーヒーでも買ってきます」
と告げた。
すると、冬美の父親が財布を出し、そこからカードを抜き取るとタノスケに差し出した。
「タノスケ君、これで買っておいで」
受け取り、仔細に見分すると、このカードはタノスケが今から行こうとしているコンビニと同系列のコンビニのみで使えるカードで、前もって入金しておく式のカードであった。それはおそらく、たとえば千円入れれるごとに、その使途があらかじめ同系列のコンビニのみに限定される代わりに五十ポイントとか、そのくらいの、お金同等に使用可能なポイントが付与されるというケチ臭いもの。
〝自由の星〟の下に生を受けているフリーダムタノスケに言わせれば、ちょっとポイントがもらえるとか、その程度のことのために、金の使途を予め決められるという、いわば他者に未来を決定されるなんてことは、愚行愚挙の最たるもの、最低最悪のことである。不自由の強制の中に自ら喜んで飛び込んでいくというのは、バカ臭ささの極みで、タノスケはそれに対し猛烈に軽侮の念を感じた。
ゆえにならば、タノスケはそのカードを冬美の父親に突き返したのかと言えば、そんなことするわけはなく、内心、前述の通りに大いに蔑みながらも、しかし大袈裟に押し頂くようにしてから雀躍心地で自分の財布へとそのプリペイドカードを入れたのだった。
んで、春子と夏緒を祖父母に託し、一人コンビニに向かって歩き出したタノスケであるが、この時グッドアイデアが浮かんだ。他人の金なのだ。だからこの際、普通のアイスコーヒーではなく、いつもは飲まない高級なモカの方を買うことにしたのである。んで、そんな深謀を胸にふとこり、我が叡智に感服しながらいざそのコンビニに行ってみるのだが、狙いの商品を入れる、氷入りプラカップが置いてある冷凍コーナーを見ると、普段はレギュラーサイズとラージサイズの二つがあるのに、その日はたまたまラージサイズが品切れだったのである。当然タノスケは他人の金ゆえ、ラージサイズを買おうとしていたのでプンスカ心地。んで、見ると、いつも買っている普通のアイスコーヒーはレギュラーサイズもラージサイズもあるが、これではいかんのである。いつもは貧乏人ゆえに注文が憚られる高級モカアイスコーヒーの、しかもラージサイズを他人の金で注文してやりプチ贅沢を断行するというラグジュアリーな計画が崩壊するのである(後から考えれば、通常サイズのモカアイスコーヒーを二杯買えばよかったのだが、タノスケにはそんな機転はなかった。機転と呼ぶほどのことではないが)。
さっきまで愉快円満な心地であったのに、こんなにして一瞬で自分を奈落の底へたたき落としてくれたところのこのコンビニのあまりの不手際に、タノスケは
━━怪しい外国企業にでも買収されちまえ!━━
と心中で吐き出すが、その怒り排出方法では十分ではなく、自身の中で怒りがたちまち内圧を高め、排出先を求めて渦巻いているのを感じると矢も楯もたまらず、
━━あの冬美んとこのクソオヤジがいけねえんだ!━━
と心中にて当て付け罵倒。
んで、続けて思い出されるのは、自分にとってモカがどれほど大事かという話。
タノスケは田舎育ちゆえ、喫茶店というものは架空ファンタジーなもので、現実世界には存在しないと思っていた。そう思っても仕方の無いような寂れた土地で十八まで育ったのだ。そんなタノスケが東京に出てきて初めてドトールに入ったのはいつだったか、ともかくその時に頼んだのがモカで、そのモカは、今から思えばココアとのブレンドだったのだろう、やけに粉っぽいというか、舌にザラザラとしたものだったのだが、その時一緒に店に来ていた、バイト先で知り合い仲良くなった東北かどこか田舎出身の同年の男に決して安く見らてはならない一心で、
「この粉っぽさがいいんだ。このザラザラ感がモカの味わいだなあ」
なぞ、じっくりモカを啜りつつ陶然とした顔つきでもってタノスケは知ったかをかましてやったのである。で、それを聞いたその東北の田舎者は少し訝しそうな顔をしたが、タノスケに続いてモカを啜り、たしかに舌の上に粉っぽい感触を感じると、何かを閃いたときにするような表情になったのだが、それがまたそいつの顔の田舎風味を濃厚にしたから、関東出身とはいえ端も端で東北と何も違いがないような田舎出身のくせにタノスケはそいつに対しいやらしいまでの圧倒的優越感を感じたのである。
という、優越の輝きに彩られた華やかな栄光の思い出がタノスケにはあるのである! だから、(というか、かなり道理が崩壊したような話ながら)タノスケにとってモカはとても大事なものなのである! もちろん、モカが粉っぽいなどというのはてんからの間違いで、嘘八百、流言流布もいいところだが、そういう瑣末な事情はタノスケにとってはどうでもいいのである。自分が優越の快楽を感じたという事実こそが大事なのである。ともかくモカ最高!
んで、そんなかなり強引なモカ祭り上げ思考の果て、しかし現状はモカのラージサイズが買えぬものだからタノスケはだんだんと、手に持つこのプリペイドカードにより己が純情を弄ばれているような感覚に陥り、ついにはこの元凶カード(元凶はタノスケだが)の持ち主たる冬美の父親に
━━あの糞オヤジが悪いんだ!━━
との当て付け思考へと着地したのだった。
すると、こんな益体もない多大な苦痛(実際は普通のアイスコーヒーのラージサイズとモカアイスコーヒーのレギュラーサイズのどちらを選べばいいか迷っているだけの些細な苦痛だが)を味わわされている無垢なる自分には、この際どんな横暴な権利をも備わっているような心地になってきた。
んで結局、モカアイスコーヒーのレギュラーサイズを買い、味わうことなく一気に飲み干してやったが、しかしそれでは気が収まらず、店内に戻ると、棚に残っていた好物のハムチーズブリトーを三個カゴへと買い占め投入し、次に、いつもは絶対に買えないハーゲンダッツを、その時あった全ての味、バニラと抹茶とストロベリーをカゴへとコンプリート投入し、その勢いと言ってはなんだが、ちょっとエッチな雑誌を読み捨て覚悟であるだけすべてをカゴへとありったけ投入し、さらに、そういえば災害時とかのためにスマホの充電用の大容量モバイルバッテリーが以前から欲しかったのを思い出し、それを探すと難なく見つかったから、その棚の奥まで強引に手を差し込むと一気に乱暴に手を引き、四個、カゴへと根こそぎ投入したのである。そして、これはもちろん言わずもがなだが、その支払いはすべて冬美の父親からもらったプリペイドカードである!
んで数日後、何のことはない、当然にタノスケのその行為はバレ、冬美経由で丁寧だがずいぶんと含みのある〝確認〟の連絡があったが、その時はちょうどマチアプで知り合ったとある女性といい感じになりかけていたおりで色々と隠し事にまみれて大変気苦労を重ねていた時だったのでそんなアホみたいな〝確認〟は心底から面倒臭く、うっちゃっておいたのである。んで、その不誠実が当然必然に作用し、先方のタノスケの人間性への不信はさらに高まり固まる方向へと導かれていったというわけなのである。
下降するエレベーターの中、そんなことをタノスケは思い出し、なんだが、もう何をどうしても冬美と夏緒と春子は自分の元に戻ってこないような、そんな痛切な予感に打ちひしがれた。
だが、今思い出したそのモカエピソードは、実は冬美が自分に愛想を尽かした理由の一%も構成していないと思う。
冬美がタノスケに愛想を尽かした、その殆どの因はマッチングアプリにあると思う。むろんこれはタノスケの自己分析によるものだし、その他にも多数の因があり、それが累積してこの度の大破局の因となったのであろうが、しかし、大らかにして天女のごとき気質をもった冬美は、表面上はマチアプ以外の不満をタノスケには言ったことがなかったのである。
タノスケは健康なのにも関わらず、稼ぎのすべてを冬美に依存し、しかも子供たちの保育園のお迎え(これも保育園児のとき限定の二三年だけの話で、しかも可愛い保育士さんに会いたいというのをその主たる動機として行っていたものだが)以外の家事、すなわち買い物や食事の支度や洗濯や掃除や登園登校の準備など、その他一切の家事を当たり前の顔をして冬美に押しつけていたにも関わらず、冬美は一言の小言も言わず、実に幸せそうな笑みをその可愛らしい顔に湛えながら、ニッと笑うと矯正もしていないのに並びの綺麗な歯を大きく見せ、周りに幸せを振りまきながら生活していたのである。
その冬美の歯の白き美しき顔は、タノスケが「ちょっと失敬」なぞ言いながらナチュラルムーブで実に自然にチョコとコーヒーとタバコ三箱とビール二本とチューハイ六本とちょっと贅沢なおつまみ分の五千円札を毎日のように冬美の財布より抜き取る、その姿を見ている時も、少しも陰ることがなかったのである。
そんな根っからの聖女としか思えない冬美も、タノスケがマッチングアプリを利用して色妖怪ムーブを繰り返すことだけは許せないようで、その汚液放出の痕跡を見つけるたびに
「お願いだからやめて」
と目にいっぱい涙をためて言ったのであった。それに対し、タノスケは毎回床に額を擦り付けながら謝罪し、心を入れ替えるむね神に誓うのだが、その誓いは一度も守られなかった。
しかし、これは言い訳かもしれないが、タノスケは〝愛の星〟の下に生を受けており、愛を求める女性がいればどうしても愛さずはにはいられない男なのである。そういう愛情深き男なのである。しかし、そんな弁解を試みても仕方ないことである。
ともかく、んなわけで、言ってみれば全ては身から出たサビ方式というやつで、家族(冬美、夏緒、春子)が出ていくという大悲劇に見舞われたのだった。
一家を度重なる浮気癖のために崩壊させ、その後も酒に溺れて自分の心や行動や金に関するあらゆる問題から逃げ回っているくせに、〝大悲劇に見舞われた〟なぞ、被害者ぶった物言いもないものだが、仮にそのように批判されても、その批判により心に羞恥沈痛を覚えるには、一定の知能が必要なのである。
これは前にもちょっと書いたことだが、タノスケの知能は群馬で下から二位なのである。痴能ならば誰よりも高いタノスケであるが、知能となると、高校生時代唯一受けた模試において群馬で下から二位と判定されているのである。群馬で下から二位というのは、神奈川で下から二位とか東京で下から二位よりも、もっとずっとずっと悪いことだとタノスケは思っている。そしておそらく、件の模試においてタノスケの下、すなわち群馬最下位をとった者は、どこの誰だか知らぬが、もう死んでいると思う。万が一、生きているとしても、人権を完全に剥奪されたうえで無人島にでも抛擲されていると思う。
んな話はいい。
いつエレベーターを降りるんだ。
全然話が進まない。
しかし、エレベーターはいまだ指定された階には到着していない。タノスケの思索は続いた。
降下するエレベーターの中、タノスケは金玉がムズムズした。そしてその金玉から連想してつくづく思うのだが、ともかく、すべての元凶はマッチングアプリにあるということである。
タノスケという男は、とにかく何かにつけて愚図るし、イキるし、嘘つきだし、一片の感謝の心もないし、何が嫌といって努力が一番嫌いだし、しかもバカ面の知ったかぶりで、しかもどケチでど水虫で、しかもまるでチンポジの定まらぬ、そんな本当にどうしようもない男のくせして自分の遺伝子を後世に残す本能に突き動かされ、極めての極めての極めての多淫多情。だから重度のマッチングアプリ依存症になった悲しき男である。
そして、それよりも悲しい存在は、もちろん冬美である。浮気されたということもそうだが、実はそれだけではない。実は冬美はそのマッチングアプリの決して安くない月々の使用料を知らぬ間に支払わされていたのである。
タノスケは、六才年下の冬美に対し嘘をついて、冬美の口座から毎月自動引き落としにしてもらっていたものなのである。で、告白するとその時ついた嘘とはだいたい次のようなものである。
「今はよ、今は申し訳ないんだけどよお、今は何も仕事をする気が今は起きねえんだわ。ほんと申し訳ねえ。障害児施設で働くお前の給料が高くないのも知ってる。春子のオムツが取れたとはいえ子育てに色々金がかかってるのも知ってる。僕の酒代タバコ代お菓子代が家計を圧迫してるのも知ってる。それはもう全部が全部承知済みのことなんだわ。だから衷心より本当に申し訳ないと思っているんだわ。でもよお、ここは一つ心を鏡のようにまっさらにして考えてみて欲しいんだわ。長い人生よお、働きたくない、そういう時もあるってもんだぜえ。そういう時によお、むしろそういう時にこそよお、支え合ってこその夫婦ってもんだぜえ。もっとも、お前のご両親に反対されて籍は入れられてねえから本当の夫婦ではないんだが、でもよ、僕は、僕とは冬美は〝本当以上の夫婦〟だと思っているんだわ。法律でどうのこうのとか、役所の手続きとか、親類の支持とか、そういうのは僕の中の〝本当以上の夫婦〟の定義にはまったく入っていないんだわ。どこまでも僕と冬美、そして、血はつながっていなが心はつながっている我が愛しの娘たる夏緒と春子が〝本当以上の夫婦〟だと、そう思うのならば、それはもう誰が何と言おうと絶対に〝本当以上の夫婦〟なんだわ。こう見えても僕は〝愛妻の星〟の下に生を受けているからそのあたりの真理は人類史の中で余裕で五指に入るくらいに知っているんだわ。んでよ、ここで相談なんだけどよお、僕よお、英語を勉強したいと思っているんだわ。そりゃあよお、確かに中学時分、この話は先にお前にも話したことがあるから知っていると思うがよお、中二の終わりくらいの頃だったか、ABCを最後まで言えなかったのはクラスで僕一人だけだったわ。Cのあと、どうやってXYZまで辿り着くものだか、ハッキリ言ってそれが僕の思春期最大の謎だったわ。頭のいい、医者とか外資系勤務とかコンサルとかを親にもつクラスメイトはその頃よお、宇宙の端はどうなってるのだろうかとか、地球が存在することに意味はあるのだろうかとか、そこに意味が無いのであれば人間をどう価値づけたらいいのだろうかとか、そういう、僕に言わせりゃあ下痢便以下の価値しかない最低の謎に煩悶していたなあ。んで、そういう奴らは軒並みうちの次兄になついていたなあ。僕の家に遊びに来るとよ、一旦は僕の部屋に入るんだけど、ものの数分で次兄は在宅してるかどうか聞いてきてよ。んで、次兄がいると分かるとすぐに次兄の部屋に遊びに行っちまうんだ。そんでいつもそのまま次兄と楽しく談笑を始めてしまうんだ。その頃の次兄はまだ引き籠もってなかったから、部屋の中はたくさんの書物があったけど、まだ数人が座るくらいの場所はあったんだな。んで、その時俺はよ、自分の部屋で一人寂しくゲームしてよ、でも気になって次兄の部屋を覗きに行ってみるんだけど、覗きながら話を聞いても、次兄を中心になんだか全然分からない事を話してやがるんだ。俺は余計寂しくなってよ、扉の隙間から長い風船とか飛ばし入れてやったりするんだけどよお、狙いは外れて、中では全然パニックにならないんだわ。寧ろさっきまでの話し声がやんで静まりかえってよお、んで、少ししてから扉が開くんだわ。んで、その扉からよお、優しい笑顔の次兄が登場してよお、タノスケも入れよって、こういう時の俺はいつも半泣きで走って逃げるのを知ってるくせによお、そんな優しいことを言ってくれるんだ。
……そんな話はいいんだけどよお、ともかくよお、話は戻るけどよお、僕にとってはABCがどうやってZで終わるかの謎の方が謎だったんだわ。まあ、そんな謎は今から思えば単に勉強すれば解決できたことなんだがね。当時の僕にはそんな解決法はまるで思いつかなかったんだわ。またく若気のいたりだわ。ってなわけだからよお、そんな僕にいきなり英語を勉強したいなんて言われ、お前がそうやって眉ひそめたくなる気持ちも分かるよ。実によく分かるよ。でもよお、耳の穴をかっぽじって聞いてくれ。実は僕、〝坂本龍馬の星〟と〝渋沢栄一の星〟と〝ユリウス・カエサルの星〟の下に、トリプル同時に生を受けているところがあって、先見の明がすごいんだわ。その僕の類い希なる先見の明によると、これからの時代、英語が大事なんだわ」
「そんなの、ずいぶん前から言われてることだよ」
眉をひそめながら、ボソッと言った冬美の言は聞こえぬフリしてタノスケは続ける。
「でよお、僕、英語を身につけて次の仕事に活かしたいんだわ。もちろん、次にいつどんな仕事をやるのか、その職種すら決まってねえし、その辺の見通しは今はまったく立たねえ。けどよお……」
「類い希なる先見の明があるなら見通し立つんじゃないの?」
「まあ、お聞きよ。んで、やっぱ英語なんだわ。ハッキリ言って英語なんだわ。アーユーの塩焼き?」
「……アーユーアンダースタンド? でしょ。訂正難易度が高すぎる言い間違いはしないでよ」
眉をひそめながら、ボソッと言った冬美の言は聞こえぬフリしてタノスケは続ける。
「でよ、ついに本題に入るんだけどよお、この英語アプリの使用料を毎月引き落とす手続きをしてください! このとおり!」
這いつくばり、小一時間ほど拝むような懇願を繰り返し、なんとか手続きしてもらったのだが、実を言うと、この時タノスケがうまうま冬美に契約させたのは英語アプリなどではなく、後に依存症となる、そして色妖怪ムーブにとって必須のツールとなる、件のマッチングアプリだったのである。
チン!
エレベーターが止まり、扉が開いた。
保護課で取り乱し、ゾンビにビビり散らかしムーブでよく確認もせずに階数ボタンを押してしまったようだ。扉が開いた先は、区役所の出入り口がある一階ではなく、地下一階だった。
目に飛び込んできたのは〝図書館〟と書かれた何やら自立式の看板みたいなもの。その横のドアは解放されていて、そこから図書館独特の静けさと本の匂いが流れ出てきた。
ほぼ文盲のような人生を歩んできたタノスケではあるが、区役所の地下に図書館があることは以前から知っていた。区役所に来ると正面メインの出入り口の横にはいつもカレンダー式の、日にちの上に◯×を書いて図書館の開館日と閉館日を知らせるポスターみたいなのがが大きく掲示されていたし、また、タノスケがよく通る道にある区役所地下二階駐車場に続く車専用の地上入り口にも、間違って車が入庫するのを防ぐためであろう、その日、図書館が閉館している場合には、大きく〝図書館閉館〟と書かれた看板が設置されているのをよく目にしていたからだ。それらが目に入るたび、タノスケは図書館がここにあることを認知はしていたというわけだ。しかし、生まれてからこの方、つまり四十を過ぎた現在に至るまで実に長きにわたり、ほとんどというか全く本など読まずそれで少しも不自由など感じずに、むしろ本の影響を受けぬ独自路線を歩んでいるとのへんな自負とそれに伴うへんな開放感すら感じながら生きてきたのである。つまり、と言っては短絡接続の感があるが、しかし本当のことなので言うと、タノスケは〝オリジナリティの星〟と〝フリーダムの星〟という二大巨星の加護を同時複合のダブル的に受けており、そんな大器を地でいくタノスケにしてみれば、いかに大々的にそこに図書館があるなぞ知らされてみても、そんなのは馬の耳に念仏式の馬耳東風も馬耳東風なのであった。
━━僕にとって、この世界に図書館ほど無用なところはねえわな━━
扉が開いた勢いで、すでに二三歩エレベーターから出てしまっていたタノスケであるが、踵を返して再びエレベーターに乗り込もうとした。しかし、踵を返そうとしたその瞬間、ド派手な掲示が目に飛び込んできて、タノスケはピタリとその動きを止めた。
〝モモ〟
図書館の解放されている入り口を入ってすぐ右横に児童書コーナーがあり、そこに今月のオススメ図書を知らせる、盛大にデコられた大きな掲示板があった。
その掲示板には、その中心に書名である〝モモ〟という字がカラフルに書かれ、それを取り囲むようにキャッチコピーやら簡単な説明やらが書かれていた。そしてその下には、おそらくは〝モモ〟を読んだ子ども達の感想の類いであろう、二十枚くらい、同形式の紙にそれぞれ個性的な子ども達かわいらしい文字が踊っていた。 何の気なしにそれを眺めながらタノスケは思い出す。
小説というものを一冊も読破したことのないタノスケではあるが、過去に一度だけその読破というやつを試みたことがあった。
あれはタノスケが小学生時分のことであった。二つ離れた次兄があの時中学生であったことは覚えているから、タノスケはおそらく小学校の五年か六年だっただろう。
何故に小説を読む気になったのか、その詳細な理由は忘れてしまったが、おおかた夏休みや年末年始の休みなどの長期の休みに出された宿題とかそういったことだろうと思う。だが、そう予想を立ててみても、どうも腑に落ちぬ思いがタノスケの内部に湧き上がる。というのは、長期休みに出される宿題なぞ、その休みが始まった初日に
━━一切やらない!━━
と決意するのが毎度お決まり恒例のタノスケサマームーブだったからである。であるならば、読書感想文の宿題をキッカケにして小説読破の意欲を漲らせたとの推察はまったくの的外れやも知れぬが、しかし、そこのところは今回問題の中心ではないので頓着せずにおこうと軌道修正的に賢くタノスケはそう思い直した。
これは自画自賛などではゆめゆめないが、このようにタノスケは思考が横に逸れそうになっても、そこから強引にでも中心に戻す意志と技術を持ち合わせている男前なのである。実はこのタノスケという男、今まで言っていなかったが〝プロボーラーの星〟の下にも生を受けており、その制球技術の高さもさることながら、それより何より、ガーターなぞ真っ平御免(ガーターベルトは大好き)の質に出来ており、もっと言えば、これは後年仇となり結局は自身を大変苦しめることになるのだが、このタノスケという男は、穴があったら利き腕の指をどうしても突っ込みたいという、そういうピンクな衝動にかられる質なのである! なんそれ!
こんな感じで語っていると、なんだ所詮タノスケという男は軌道ブレブレの蛇足生えすぎ色乞食野郎ではないか、と思う人もいるかもしれないが、それは早とちり系の腐れ讒言癖というもので、そんなこと思うヤカラは一刻も早く死ねばいいのであり、ここで言いたかったのはそういうことではなく、つまりタノスケという男の真の姿は見ていると思わずクラクラするほどに〝至誠〟である、ということなのである!
んで、その至誠の姿に打たれたのであろう、小学校高学年くらいの時、ある日突然に小説読破をこころざし、半ば強引にオススメ本を所望してくる文盲の弟に対し、それこそタノスケよりも純粋至誠に悩みに悩み抜き、しかもそれだけ悩み抜いた末、これだ! との渾身の思いでもって棚より引き抜いたくせに、その手にした本を渡す段になっても逡巡が収まらず何やらモゾモゾしている、傍目にはただの不様、しかしタノスケの目には実にお有りがてえ様を晒しながら次兄が差し出してくれたのが、今タノスケが目の前にしている今月のオススメ図書、〝モモ〟だったのである。
ふいに、
━━次兄は、もういないのだ━━
との悲しみがタノスケの胸に広がる。そして、あの日、何故に自分は本を読もうとしたのだろう、何故に文字に親しまない自分のような者でも最後まで読み切れて楽しめる本はないかと相談したのだろうと、その問いをぶつけられる相手はもうこの世にいないのだとの思いが胸に広がり、悲しみの濃度が上がっていった。
次兄は、次兄だけが見ていた次兄の世界と共にこの世を去った。ゴミの山に囲まれ、次第に衰弱していく次兄に対し、タノスケはただの一度も手を差し伸べることはなかった。なぜ自分は、大好きな次兄対しに何もしなかったのか。なんて自分は薄情なんだ、次兄が可哀想だと思う。目に涙が溜まる。
ふらふら、無意識のうちにタノスケは図書館の中へと入った。その時、スタッフの何人かはタノスケのその異様な様子に注目していたようだが、タノスケはそんなことに頓着しておられぬ心地。
図書館に入ることも何十年ぶりのことだった。最後に入ったのは、小学五年か六年の頃。小説を読破してみようと志したのと同じ頃だ。小説を読破しようとした理由は忘れたが、図書館に入った理由は鮮明に覚えている。気に入らない同級生(女子)に喧嘩を売って、返り討ちにあったのだ。その女子は隣のクラスだった。体格のいい女子で、当時ガリガリに細かったタノスケと比べると横綱と新弟子くらいの違いがあった。しかしタノスケは、当時観ていたバトル系アニメの影響があって、体も細いし、格闘技経験もないくせに、しかし自分の渾身の必殺パンチを当てれば相手は吹っ飛ぶと思っていた。そういう描写が当時アニメで多かったのだ。んで、ある日その女に教科書を破かれ堪忍袋の緒が切れたのでその女を廊下に呼び出し、衆目の中で叩きのめしてやろうとしたのだ。だが、女の顔目がけて放ったタノスケの渾身の一撃は、女の頬あたりでペチンと貧相な音をたてただけで、少しも女のダメージを与えられていないようだった。前口上もなく、ほぼ不意打ちのタイミングで放った全力の一撃だったのに、女は取り乱す様子もなく冷たいナイフのような目でタノスケを見、
「痛いなあ!」
と言うなり、圧倒的重量攻撃をタノスケに仕掛けてきた。タノスケはこれに耐えきれずあっという間に転がされた。そしてそこから間髪入れず、女はヤクザ映画で出てきそうな念入りな足蹴をタノスケに見舞い、タノスケはその圧倒的暴力の前に為す術なく、そして一瞬の隙をつき遁走したのだが、その遁走し、身を隠した先というのが学校の図書室だったのである。その重量ブスは追ってこなかったが、無残に返り討ちにあった同級生のその後のすべて観察しようとキラキラした目で後をつけてきたヤジ馬野郎どもが十数人いた。これに対しタノスケは、自分は敗走して図書室に逃げ込むのではなく、たまたま図書室に行きたいから向かっているのだと思わせたかった。だから自分の後に金魚の糞のようにくっついてくるそいつらを取りあえずは無闇に追っ払うわけにもいかず、そのまま一緒に図書室に入り、その辺の図鑑を適当に手に取ると、四人がけの席についた。そして、追跡者たちに下から目に溜まった涙をまじまじと観察されながら、いつポタリと落ちるだろう、落ちないかな、との期待を感じながらタノスケはページをめくったのだった。
まったく、思い出したくもない恥辱の経験であるが、それがタノスケにとり図書館(図書室)に入った最後のことだったのだ。
苦い思い出に口元が引きつるタノスケであったが、しかし、その思い出により、連想的にタノスケは夏緒と春子のことを思い浮かべた。
━━あの、自分をボコボコにしてくれた横暴な女児と、夏緒はほぼ同じ年なんだなあ。夏緒は外で男子をボコすなんてこと決してやっていないだろう。本当に優しい子なのだ。春子も同じだ。暴力性のカケラもない、いつも笑っていてお笑い芸人が大好きな、元気いっぱいの子だ。僕は、本当にあの二人の親で良かった(現在は一家解散中で親業をこなすことができない状況だが)━━
我知らず歩を進め、いつの間にか図書館というものに、数十年ぶりに体を入れたタノスケは黒板横の特設棚から〝モモ〟を抜き出し手に取ると、これまた数十年ぶりにページを開いたのだった。
思い出が蘇る。小説を読んでみたいから選んでくれとのタノスケのお願いに、その時次兄が随分とアレコレ親身に悩んでくれた結果渡されたのが〝モモ〟であったのだ。
しかし、ふいにタノスケの顔は顰め面に変じた。ふと次兄に対して申し訳ない気持ちになったのである。あの日、散々労力と時間をかけて次兄が選んでくれ、タノスケに手渡す時にも、更にタノスケにとって良い本はないかと迷っていたのだろ、どこか自信のなさそうな逡巡の手つきで渡してくれた渾身の一冊だった。タノスケにとっては次兄が語ってくれた〝あらすじ〟や〝世間の評判〟などより、次兄のその手つきによって、なんだかズシリと価値が注入されたような感覚になり、嬉しくて
「ありがとう! 僕この本読むよ!」
と言い、次兄がにんまり笑顔になったことを覚えている。
で、結果的には、一ページも読めなかったのだ。読んでいて退屈で退屈で死ぬかと思ったのだ。完全なるコテンパン式の挫折であったのだ。
そのタノスケが挫折した姿を見ても次兄は何も言わなかったが、しかしさすが冷血タノスケといえど次兄に対し申し訳なく思ったし、あんなに意気込んだくせに実にあっけなく散った自分にも我ながら情けないしで、だからそのことを思い出し、思わずタノスケは顰めっ面になってしまった。顰めっ面のまま、タノスケはページを開く。開きながら、やはりまた次兄のことが思い出される。長兄は立派な人で、両親の自慢であり、今は一家をなし仕事をこなし立派に社会の役にたっている。しかし、次兄は二十代後半で部屋に引き籠もりはじめ、先月亡くなるまでの約二十年、ゴミ山の中で生活とも呼べぬ生活をたてていた。次兄は学生時代より、脳内を世俗の価値観そのままに塗り固められた両親から見れば〝無駄なことばかり考えている子〟であり、はっきり言えば軽侮の対象ですらあり、常にその存在の価値を十分には認められていなかった。これを、次兄が大好きだったくせに卑怯極まるタノスケは利用したのだった。両親の蔑みの眼差しが次兄に向くことで、自分に対し同種の視線が向く回数が減るし、たとえ向いたとしてもその視線の強度が次兄との比較効果でだいぶ減じるので、タノスケは恩知らずにも我が利得としてそれを都度好意的に利用したのである。
モモの一ページ目に目を落としながら、あの日、あんなに懸命に次兄が選びすすめてくれた本を、自分は一ページも読まずに、いや、読めずに放り出してしまったことをタノスケは思い出していた。そのことが今でも、何十年経ってもタノスケの胸にしこりとして残っている。
だから、これはしこりを取りたいという思いなのか、それとも自分の成長を感じたいという思いなのか、自分でもよく分からないが、ともかく気合いを入れ、タノスケは〝モモ〟を読み始めた。
そして、意外にも、というか、当然の結果として、今回もまたタノスケは一ページも読めず、挫折したのだった。
━━つ、つ、つ、つまらなすぎる━━
と思った。何だか非常に次兄には申し訳ないが、つまらなすぎる、つまらなすぎて死んでしまう、と思った。
タノスケはそっと本を棚に戻すと、
「……次兄と僕は全く違う人間だわな」
そう寂しく、実に寂しく呟き、しかし、そこからそそくさと図書館をあとにすることはなく、そのまま、図書館の奥へと歩をすすめていった。それは、次兄が愛した図書館という場所をこの機会に少しは見てまわり、そこがいかに自分とは無縁な、居心地の悪い場所であるかとこの全身で感じ、感じながら次兄に思いを馳せたい、そう考えたからだった。
児童書、健康関連の本のコーナーを抜け、心理学や自己啓発の本を左手に見ながらさらに奥へと進む。するとだんだん経済や政治に関する本が多くなり、更に進むと、照明が十分に届かないどん詰まりの奥を形成する書棚があり、そこにはこの前亡くなった次兄が愛した思想関係の本があった。
多くは文庫版になったものだった。茶色く変色はしていたが、良く言えば綺麗だと思えるほど、有り体に言えば閑古鳥感を漂わせながら、それらは整然と棚に収まっていた。一冊手にとってみると、それは十分古いのに、手垢も付いておらず、角も、まるで新書のようにシャープに保たれていた。
その、聞いたこともない書名の、分厚く、文庫のくせにずしりと重そうな本を見つめながら、タノスケはつぶやいた。
「こんなもの……なんで」
次兄の顔を思い浮かべていた。
次兄は無意識のうちに自分にくだらない謎を与えたとタノスケは考える。他の近しい家族はというと、父は筋金入りの物質主義を、母は嫌悪と渇望を、長兄は籠絡することの得意を、共に暮らした時間の中で、いつの間にか染み込ませるようにしてタノスケに与えた。
「こうして考えてみると、まったくロクな家族じゃあねえなあ。こりゃあ、僕の不幸も、元を辿ればすべて家族に起因するわな」
との一人言を口元を歪めつつ侮蔑を込めて吐いた。
とはいえ、とタノスケは思う。とはいえ、父も母も長兄も、自室に引き籠もりゴミに埋もれて死にそうになっている次兄に、手段としてはもしかしたら間違っていたこともあるかもしれないし、また、世間体とか、自分のプライドを守るためとか、経済的損得とか、そういう感じの自己利益を求める心も一部根底にはあっただろうが、にしても、手を差し伸べていたことは事実だ。必死に手を差し伸べていたことは事実だ。
それに引き比べ自分という男は、とタノスケの胸はまた忸怩たる思いに塞がる。
━━自分は、大好きな、いつも優しかった、恩ある次兄に手を差し伸べないばかりか、その苦境をむしろ奇貨として金銭的利益を得てきた。
もしもあなたたち父母が自分に対し一層の金銭的扶助を行わないのであれば、もしかしたら自分も次兄のようになるかもしれませんよと、平生は何事につけ適切なさじ加減というものを知らないくせにこんな時ばかりは超絶微妙のさじ加減、匂わせ加減を見事に披露し、もって父母を心底の恐怖の谷へと躊躇なく突き落としたのだ。そして、それは同時に、父母の心身の健康を害するほどの多大なストレスを与えることでもあるに違いなく、そうなれば間接的に次兄をさらに苦しめることになるのに、そんなことは一向気にも留めず、タノスケはその恐喝まがいな手法により父母から更なる金銭的援助を引き出してきたのである。
「根っからの寄生虫体質だね」
そういえばタノスケはこれまでの人生、多くの方に、そんなご指摘を数多く頂いてきた。直接的にそう言われたこともあるが、多くは発散する大呆れの雰囲気と冷えた目と片方だけ歪んだ口元でもって非言語的に指摘されてきた。そして、その度ごとに、〝愛の星〟の下に生を受けているタノスケは、そんな愛のない相手に憤慨し、そんなクズは心の中で不幸が訪れますようにと呪いをかけるように祈り、その上で絶交してきた。そうやって絶交して、どんどん交友範囲を狭く、世間を狭くしてきた。そういう、次々怨念の呪いを発しながらの世間削減ムーブでもって生きてきたのだ(どこが〝愛の星〟の下に生を受けているんだ、という話ではあるが)。そして、そのムーブの際は決まってこう毒づいてきたものだ。
━━ふざけんじゃねえ! この僕が寄生虫なんかであるものか! ほとんどの寄生虫は宿主を殺さないが、僕は違う。僕は父母という宿主にあたるものを過剰に苦しめ、殺そうとすらしてるじゃないか! しかも、その宿主にあたる者の愛する者まで一緒に…… こんな寄生虫があるものか!━━
そう毒づくと、さすがにすっと肩を落とし、
━━……寄生虫よりヤベえじゃねえか━━
とも付け加えるのであった。そして顔は醜く自嘲に歪む。そしてその顔がふいにガラスか何かに映ることがあると、タノスケはまざまざとその顔を凝視し、ここに、この顔に全てが表現されているような感を抱くのだった。まさに完璧な表現だった。完璧な表現は現実を超えるほどの力を持ち、タノスケに迫ってくるのだった。
図書館のどん詰まりに立ちすくみ、ここは空気も澱んでいるのか、タノスケは呼吸に困った。 目の前には本棚。次兄の愛した本が、たくさんある。タノスケはそれをバカ面のまま見つめる。図書館の静寂と、本の匂い。そして目にはいっぱいの涙。
タノスケは、本棚に整然と収まる難しい本を目の前に、少しでも次兄を理解した気持ちがあるのに、これらの本はとても自分には読めないだろうと思った。先ほど児童文学である〝モモ〟すら一ページも読めず、放り投げるように挫折してしまったことを新鮮な痛みとして思い出していた。
三十年以上ぶりに〝モモ〟を開いたタノスケは、実はかなりワクワクしていたのだった。昔は脳の発達が未熟で一ページも読めなかったが、今なら、きっとそうとうに成長したであろう今なら、きっと楽しく読めるだろうと思っていたのだ。そして、この〝モモ〟を読み、深く味わったならば、次兄はこの本の何に感動したのかが知れ、それにより次兄のことを今よりかは少し多く理解できるようになるとタノスケは予感していたのだ。それがあの体たらく。相変わらずの一ページ挫折。
タノスケは拳をぎゅっと握った。理解したくても、自分のせいでできないというこの事実が、もしかしたらと、冬美春子夏緒のことを思い出させる。もしかしたら、自分は、九年も家族同然に暮らした、心底から愛しいと思っているあの三人を、自分のバカさが因となり全く理解できておらず、それが、一家離散という(離散というか、タノスケ一人が捨てられたのだが)大悲劇が招いたのではないか。
タノスケの頬に、涙が伝った。
━━こんな不浄な空間、もう出よう━━
タノスケは、この図書館という、タノスケにとっては不浄の空間を後にすべく踵を返した。
自分の能力では読むこともできない本に囲まれていることほどくだらないことはないし、そんなことに劣等感を感じながら吸い込む空気ほど不浄なものはない。
まったく今日も散々な日だとタノスケは思った。冬美と春子と夏緒が出ていって心が非常につらく、まあ仕事をしないのはそのせいではなく、前々からの習い性というか、そんな感じの我が惰弱のよるものではあるのだが、ともかく生活していくうえでお金が足らないので、ちょっと生活保護の恩恵に授かれるかどうか伺いをたてようと、そう思い立って家を出ただけなのにもう踏んだり蹴ったりである。
来る途中で幸せそうな新婚カップルを目にして猛烈な嫉妬、区役所の保護課では散々な扱いをされ屈辱の汚泥に涙、んで、こうして今いる図書館でもうっかり児童書コーナーにあった、今思えばほとんどトラップとかわるところがない本につかまり無闇に絶望の底にたたき込まれた。嫉妬、屈辱、絶望の三連続攻撃をくらった気分だ。まったく何て日だ。
タノスケはもう尻尾巻いてここを出て、んで、ここから五分ほどのところにあり、何度か行ったことのあるあの安居酒屋に入り、しこたま呑もうと思った。
とりあえずホッピー黒とコロッケを注文するのだ。ホッピーは注文する時、ダメ元で
「焼酎多めでお願い」
と言うのだ。この一言によりもしかしたら通常よりも少し多めの焼酎がグラスに注がれるかもしれない。それを期待して、つとめて笑顔で、全身に決して憎めないコミカルな雰囲気を漂わせながら注文するのだ。これにより店員さんをして規定量より多少多く焼酎を注ぐことは何ら悪辣なことではない、むしろそれは愉快滑稽な善なる振る舞いであり、世にも積極的に歓迎される事柄なのだと錯覚させるのだ。
そしてコロッケである。あの店ではコロッケが百四十円で、しかも必ず揚げたてが出てくる。揚げたてはそれだけでご馳走だ。揚げてから時間が経った高級スーパーで売ってる高級コロッケよりも、安物だとしても、揚げたてのコロッケの方が旨いことはもはや世の道理だとタノスケは思う。負け惜しみだろうが何だろうが、それが宇宙を貫く揺るがぬ不動の道理である。
そんなコロッケを割り箸で汚らしく十分割くらいにするのである。んで、そこにソースをビチャビチャにかけてツマミとするのがタノスケスズタイルなのである。ここの最寄り駅の近くにはちょっと高級志向のスーパーがあり、そこには高級食材を使った、小さいくせに一個三百円くらいする高級なコロッケが売っているのをタノスケは見たことがある。その高級コロッケを思い浮かべながら、ソースびちゃびちゃの安物コロッケをつまむのである(もうすでに先ほど述べた宇宙の道理が歪んでいる感があるが)。んで、ハイペースでホッピー黒を腹に流し込みながら、こう独り言ちてやるのである。
「あんな、値段だけは高えよお、油がまわって冷えきったどうしようもねえ残飯同様のくだらねねサクサクよりもよお、断然こっちのサクサクだわな。なにせこっちは揚げたてでよう、ソースをこんなにもかけられたってのに、そのソースの奥に〝決して失われねえサクサク〟があるんだわ。この〝決して失われねえサクサク〟こそが、凡百の高級志向に毒された、ここ神奈川の勘違い田舎者(タノスケこそど田舎出身なのだが)には分からねえ最高の贅沢、至高の旨味、真の美食なんだわ。なんと言ってもよお、この僕はよお、美食にはうるさいんだわ。そりやあ、自分が〝テイスティーの星〟の下に生を受けているということも幾分影響しているんだけどもよお、それよりもよお、実はもっともっと本質的な話なんだわ。つまりこの僕は、どうやらそも〝アフロディーテの星〟の下に生を受けているんだわ。だからよお、揃いも揃って卑屈な面つきをした世の自称美食家達がまったくもって精通していない美食の本質、すなわち〝美〟というものに、この僕は精通しているんだわ。そんな僕の埒外レベルの超越的な卓越極まる見識によればよお、美とは〝決して失われぬもの〟なんだわ。つまりよお、この両眼窩にすっぽり神眼が収まってる僕の目にはよお、あの安居酒屋でイートインで食す百四十円の大きいコロッケの方が、高級店でテイクアウトする小さい三百円のコロッケよりも、紛れもなく美食に映るのさあね。……でもよお、それにしてもよお、〝決して失われぬもの〟と言えば、冬美の温かさだなあ。冬美とも、あの安居酒屋に何度も行ったなあ。今から思えば、どうしてもっと僕は冬美に優しくしてやらなかったのだろうなあ。冬美を失ってもいまだに残るものが、僕にはどうしても真実に感じられる。散々隠れてマチアプやって色々な女性と関係して、ほんとよく分かった。冬美ほど素晴らしい女性はいない……」
ハイペースでホッピー黒を腹に流し込みながら、こう独り言ちてやるのだとその内容を考えていたら、結局冬美のことを思い、意気消沈。もう残る力もなく、タノスケはまさに這々の体で出口へと向かった。
その時、今から思えば、奇跡としか思えない出会いがあった。タノスケの目が、ある本の背表紙に止まったのだ。それは、出口まではあと二十メートルほどの地点だった。現代文学の本棚の前だった。
『苦役列車 西村賢太』
この時、なぜタノスケは手を伸ばしたのか。それまでの経緯を考えると、今でも全く分からない。
タノスケは本を手に取ると、読み始めた。
タノスケは衝撃を覚えた。次々と文字が、目ん玉に貼り付いてくるのだ。
あっという間に本の世界に入った。
そしてそれが読み終わると、ヤクが切れたジャンキーのような手つきで次の、西村賢太の著作を手にとった。そしてまた貪るように、まさに貪るように、読んだ。
タノスケは床に座り込んでいた。スタッフはそれを注意しなかった。厄介な人だと思ったからではなかった。
次々とタノスケは読んでいった。
差し込む日はオレンジ色になり、閉館を告げるアナウンスが流れた。
アナウンスは聞こえなかった。タノスケは読み続けた。
「貸し出しカードを作りましょう」
見かねたスタッフが声をかけてくれた。
開館時間は終わっているのに、スタッフはカードを作り、借りられるだけ限界の冊数、本を貸してくれた。
十冊、西村賢太の本を十冊、タノスケは借りた。
スタッフがくれた紙袋にそれを詰め、持ち手は使わず、抱いて、タノスケは歩き始めた。