第九話 沈黙する図書館
白い光に満たされた深淵の空間は、静寂に支配されていた。風もなく、音もなく、ただ、白い光が、永遠に降り注いでいる。それは、まるで、宇宙の始まり、あるいは終わり、もしくは、その両方をも包含するような、人間の感覚では捉えきれない、壮大な無の時間だった。
詩織は、白銀から受け取った水晶の球を握りしめ、深淵の力と対峙していた。ペンダントから流れ込む温かい感覚。水晶の球から放たれる、冷たく鋭い光。二つの力が、詩織の体の中でせめぎ合い、彼女の意識を揺さぶっていた。
「深淵は、全ての情報と意識の源。それは、すなわち、神と言えるでしょう」
白銀は、白い空間を見渡しながら、詩織に語りかけた。彼女の目は、狂信的な光を宿し、深淵そのものに魅入られ、恍惚とした表情を浮かべている。
「神……?」
詩織は、白銀の言葉に、かすかな恐怖を感じた。神という概念は、人間にとって、あまりにも巨大で、理解を超越した存在。深淵は、本当に神と呼ぶべき存在なのか。
「神は、死んだとニーチェは言いました。しかし、それは、人間が認識できる神が死んだということ。深淵は、人間の枠組みを超えた、真の神。そして、私たちは、深淵の力を得ることで、神へと近づくことができる」
裕太は、白銀の言葉に、眉をひそめた。彼の思考は、白銀の哲学的な言葉ではなく、あくまでも、論理と情報に基づいていた。
「深淵が神だとしたら、あの影は何だったんだ? 神の守護者か?」
裕太は、消滅した異形の影のことを、白銀に問いただす。
「あれは、深淵の意志が、形を成したもの。深淵は、完全なる混沌。秩序を嫌う。人間が深淵の力に触れることを、深淵は望んでいない。だからこそ、あの影は、あなたたちを排除しようとした」
白銀は、冷静に答えた。
「しかし、あなたは、深淵の力を受け入れる素質を持っている。あなたのペンダントは、深淵との橋渡し役。深淵は、あなたを通して、この世界に顕現しようとしている」
白銀は、詩織の手を取り、水晶の球を彼女の胸に押し当てた。
「さあ、詩織さん。深淵の力を受け入れなさい。そして、神となり、この世界を導きなさい」
詩織は、抗うことができなかった。水晶の球から放たれる光が、彼女の体全体を包み込み、意識が深淵へと引きずり込まれていく。
その時、裕太が詩織の手を掴み、彼女を引き寄せた。
「待て! 詩織!」
裕太の言葉と共に、二人の意識は、白い空間から引き離され、別の場所に転送された。
そこは、見渡す限りの本棚が並ぶ、巨大な図書館だった。天井は高く、アーチ状になっており、無数のステンドグラスから、柔らかな光が差し込んでいる。
本棚には、古今東西の書物が、整然と並べられている。歴史書、哲学書、科学書、文学作品、宗教書、あらゆる分野の知識が、ここに集約されていた。
詩織と裕太、そして白銀雪は、図書館の中央に立っていた。裕太は、周囲を見渡し、困惑した表情で尋ねる。
「ここは、どこだ?」
白銀は、静かに答えた。
「深淵の図書館。深淵に蓄積された、あらゆる情報にアクセスできる場所」
裕太は、近くの書棚に近づき、背表紙に書かれたタイトルを眺めた。
「シュレーディンガーの猫」「ゲーデルの不完全性定理」「多世界解釈」「意識のハードプロブレム」
見覚えのあるタイトルが並ぶ。それらは、裕太がかつて興味を持って調べていた、量子力学、数学、哲学、脳科学に関する書籍だった。
「なぜ、こんな場所に……」
裕太が呟くように言うと、白銀は、微笑みを浮かべて答えた。
「深淵は、あなたの意識を読み取り、あなたに必要な情報を提供しているのです」
詩織は、本棚に近づき、一冊の本を手に取った。それは、「ツァラトゥストラはかく語りき」ニーチェの代表作だった。
詩織は、本を開いて思い出す。
「神は死んだ」
その言葉が、詩織の心に、深く突き刺さった。