第八話 データの洪水
深淵の扉が開かれた瞬間、世界は光に飲み込まれた。眩い光は、単なる視覚現象を超えて、詩織の意識そのものに直接流れ込んでくる。それは、言語化できないほどの膨大な情報、概念、記憶、感情の奔流。まるで、宇宙開闢のビッグバンを、脳内で追体験しているかのような感覚だった。
詩織は、裕太の手を必死に握りしめていた。彼の手の温もりが、唯一の現実の証。深淵の情報洪水に呑み込まれ、自我が溶解してしまうのではないかという恐怖が、詩織を襲う。
どれほどの時間が流れただろう。光が収束し始め、周囲の風景が徐々に形を成し始めた。そこは、白い光に満ちた、無限に広がる空間だった。
足元には、雲のように白い床が広がり、どこまでも続いている。頭上には、何もない。ただ、白い光が、あらゆる方向から降り注いでいる。その光は、柔らかく、温かく、詩織の心を包み込む。
詩織は、ゆっくりと手を離し、恐る恐る白い床に足を踏み出した。足裏に不思議な感触が伝わる。それは、柔らかく、弾力があり、まるで雲の上を歩いているかのようだった。
裕太は、詩織よりも冷静に、周囲を見回していた。彼は、予備のスマートフォンを取り出し、起動を試みたが、こちらもすでに画面が割れていた。
「ここは、一体……」
裕太が、呟くように言った。彼の声は、この広大な空間に吸い込まれるように、小さく、弱々しく聞こえた。
その時、二人の背後から、白銀雪の声が聞こえた。
「ようこそ、深淵へ」
白銀は、深い緑色のワンピースを翻しながら、二人に近づいてきた。彼女の表情は、高揚感と、狂気の熱意に満ちていた。
「深淵は、情報と意識の海。あらゆる可能性が、ここに存在しています。そして、あなたたちは、深淵の力に触れることを許された、特別な存在」
白銀が水晶の球を掲げると、白い空間が波打ち、空間に歪みが生じた。歪みは、みるみるうちに拡大し、そこから、様々な風景が浮かび上がってきた。
詩織がかつて見た夢の中の白い部屋。
霧ヶ峰高校の教室。
賑やかな都市の風景。
荒廃した廃墟。
そして、見知らぬ惑星、異形の生物、抽象的な幾何学模様……。
「これは……」
詩織は、息を呑んだ。白銀は、満足そうに微笑む。
「深淵には、あらゆる世界、あらゆる時間、あらゆる可能性が存在しています。それらは、すべて、情報として、ここに蓄積されている。アカシックレコードと呼ぶ者もいるでしょう」
白銀は、詩織に歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。
「詩織さん、あなたには、深淵の力を感じ取ることができるでしょう。あなたのペンダントは、深淵と共鳴し、あなたに、深淵の叡智を与えてくれる」
詩織は、白銀の言葉に、再び、あの温かく懐かしい感覚をペンダントの中に感じた。しかし、それと同時に、強い不安、そして、抗いがたい誘惑も感じていた。
深淵の力。それは、詩織にとって、希望であり、同時に、恐怖でもあった。
「さあ、詩織さん。深淵の力を受け入れ、新たな世界を創造しましょう」
白銀の言葉は、甘く、そして、恐ろしい誘いの言葉だった。