第七話 深淵の扉
異形の影が消滅した後の静寂は、深く、重く、詩織の心を圧迫した。まるで、世界の音が消え去り、自分たちだけが、虚無の空間に取り残されたかのようだった。
裕太は、力を使い果たしたように、膝から崩れ落ちた。スマートフォンは、画面が割れ、青白い煙を上げていた。
「裕太!」
詩織は、彼を抱き起こす。
「大丈夫?」
裕太は、かすれた声で答えた。
「ああ、なんとか……。深淵への接続は、成功したみたいだ」
裕太は、震える手で、ポケットから小さな水晶の球を取り出した。それは、白銀雪が詩織に手渡した球体。中央に埋め込まれた紫色の石が、不気味なほど強く輝いていた。
「この石が、深淵の扉を開く鍵になる」
白銀は、二人の前に歩み寄り、水晶の球に手を伸ばした。彼女の瞳は、星明かりを受けて、異様な光を放っていた。
「深淵の力は、あなたたちを待っていたのです。さあ、共に、新たな世界の扉を開きましょう」
詩織は、白銀の言葉に、言い知れぬ不安を感じた。深淵の力は、確かに異形の影を消滅させた。しかし、それは、あまりにも強大で、未知なる力。
人間の意識を進化させる力。
永遠の命を与える力。
しかし、その力は、同時に、人間の心を蝕み、存在そのものを変容させてしまう力でもあるのではないか。
詩織は、裕太の顔を見つめた。彼の顔色は、まだ蒼白で、疲労の色が濃かった。しかし、その瞳には、好奇心と、強い決意が燃えていた。
「裕太、私たちは……」
詩織は、言葉を詰まらせた。深淵の扉を開くべきなのか。それとも、この場所で引き返すのか。その決断は、彼らの未来だけでなく、人類の未来をも左右するかもしれない。
裕太は、詩織の目を見つめ、静かに言った。
「詩織、俺は、深淵の真実を知りたい。俺たちはなぜか、何度も同じ時間を繰り返してきた。その意味を知りたい。そして、もし、このループから抜け出す方法があるのなら……」
裕太は、言葉に詰まり、拳を握りしめた。
「俺たちは、それを掴み取らなければいけない」
詩織は、裕太の強い意志を感じ、深く息を吸い込んだ。彼女は、首元のペンダントに触れ、その冷たさを感じながら、決意を固めた。
「わかったわ、裕太。私も真実を知りたい」
詩織は、白銀から水晶の球を受け取る。球体は、彼女の手に触れると、さらに強く輝き始めた。
白銀は、満足そうに微笑むと、二人を古代遺跡へと続く道に導いた。
「さあ、行きましょう。深淵の扉は、もうすぐ開かれます」
三人は、荒野を歩き始めた。頭上の星空は、どこまでも深く、美しく、そして、どこか冷たく感じられた。
古代遺跡は、近づけば近づくほど、その巨大さを増していった。石造りの柱や壁面には、複雑な文様が刻まれており、それは、詩織のペンダントと、水晶の球に埋め込まれた石と、同じ形状をしていた。
遺跡の中央には、巨大な円形の広場があり、その中心には、深い穴が開いていた。穴からは、青白い光が漏れ出し、周囲の空気を震わせていた。
「あれが、深淵の扉」
白銀は、静かに言った。彼女の瞳には、狂信的な光が宿っていた。
裕太は、予備のスマートフォンを取り出し、穴から放たれる光を解析し始めた。
「この光は、高密度に圧縮された情報で構成されている。まるで、この世界の全ての情報が集約されたような……」
裕太の言葉に、詩織は、再び恐怖を感じた。深淵は、あまりにも巨大で、未知なる存在。人間の意識が、深淵の力に触れたら、一体どうなるのだろうか?
「深淵は、全てを呑み込む。そして、全てを創造する」
白銀は、まるで詩織の心を読んだかのように、呟いた。
「深淵は、始まりであり、終わり。秩序であり、混沌。生であり、死。深淵は、全ての二項対立を超越した、絶対的な存在」
白銀の言葉が、詩織の意識を揺さぶる。
「深淵に触れることは、すなわち、神に触れること。そして、神となること」
白銀は、水晶の球を穴の上にかざすと、高らかに宣言した。
「深淵の扉よ、開け!」
その瞬間、穴から光が爆発的に噴き出し、詩織と裕太は、それに包み込まれた。