第五話 侵蝕する混沌
異形の影は、まるで地平線から湧き上がる黒い津波のように、ゆっくりと、しかし確実に近づいてきた。その姿は、絶えず形を変え、輪郭はぼやけ、現実の法則を無視するかのように蠢いていた。
詩織は、その異形を前に、体が硬直していくのを感じた。それは、本能的な恐怖。生命が、未知の理解不能な存在に対して感じる、根源的な畏怖だった。
裕太は、詩織の手を握りしめ、彼女の肩を抱き寄せた。彼の体もまた、微かに震えていたが、その瞳には、恐怖に屈しない、強い意志が宿っていた。
「詩織、大丈夫だ。俺が守る」
彼の言葉は、詩織の凍り付いた心を、少しだけ溶かしてくれた。
「あれは、一体……」
詩織は、掠れた声で呟いた。異形は、もはや地平線を覆い尽くし、空を暗く染め上げていた。その存在感は、圧倒的で、詩織は、自分が今にも押しつぶされそうな感覚に襲われた。
「深淵の守護者。この世界に秩序をもたらすもの。そして、深淵の力を求める者を拒むもの」
白銀は、静かに答えた。彼女の表情は、恐怖ではなく、むしろ、畏敬の念に満ちているように見えた。
「秩序? あんなものが?」
裕太は、白銀の言葉に、強い反発を感じた。秩序という言葉は、理性的で、調和のとれた状態を意味する。しかし、目の前の異形は、混沌そのもの。破壊と侵食の化身のようにしか見えなかった。
「人間は、深淵を理解することはできません。深淵は、人間の理性、常識を超越した存在。あの影は、深淵の一側面を表しているに過ぎません」
白銀は、異形から目を離さずに、語り続けた。
「深淵は、無限の情報と可能性の海。そこには、秩序と混沌、創造と破壊、生と死、あらゆる二項対立が、同時に存在しています。人間が深淵に触れようとすれば、その意識は、深淵の混沌に侵食され、存在の根源を揺さぶられるでしょう」
詩織は、白銀の言葉を聞きながら、首元のペンダントに触れた。ペンダントは、異形の接近と共に、熱を帯び、脈打つように輝き始めていた。
その時、詩織は、ペンダントの中に、何か別の存在を感じた。それは、温かく、懐かしい、そして、少しだけ悲しい、何か。
「詩織さん、恐れることはありません」
白銀の声が、詩織の心の奥底に直接響いてきた。
「あなたは、深淵の力を受け入れることができる。あなたのペンダントは、そのための鍵。深淵の力を解放し、あの影を退けなさい」
詩織は、白銀の言葉に従うように、ペンダントを空高く掲げた。ペンダントから、眩い光が放たれ、異形に向かって伸びていく。光は、異形の影に触れると、激しくスパークし、ノイズのような音を発生させた。
異形は、苦しむように体を震わせ、後退り始めた。
「なんだ、これは……!?」
裕太は、驚きの声を上げる。詩織自身も、自分のペンダントが、これほどの力を持っていることに、驚きを隠せなかった。
その時、裕太のスマートフォンが、けたたましい警告音を発した。画面には、膨大な量のコードが流れ、赤いエラーメッセージが点滅している。
「システムが異常を検知? 深淵がアクセスを遮断しようとしてる!」
裕太は、焦燥感に駆られながら、指先を素早く動かしてコードを入力していく。
「くそっ、間に合わねぇ……」
異形の影は、光の攻撃に苦しみながらも、再び前進を始める。
「裕太、早く!」
詩織は、ペンダントの光をさらに強く輝かせようと、力を込める。しかし、異形の影から放たれる圧力が、彼女の意識を押しつぶそうとしていた。
「詩織、俺にペンダントを渡せ!」
裕太は力の限り叫んだ。