第二話 崩れ始める日常
白銀雪先生の「永遠回帰」についての講義は、詩織の心に深い爪痕を残した。授業が終わっても、彼女の言葉が頭の中をぐるぐると回り続け、まるで思考のループに囚われたかのようだった。
詩織は、グラウンドの隅にあるベンチに座り、首元のペンダントを無意識に触っていた。夕暮れの光が、水晶を淡く輝かせる。いつもなら、その輝きを見つめていると心が落ち着くはずなのに。
「詩織、大丈夫か?」
裕太が、詩織の隣に腰を下ろした。彼の表情には、詩織を心配する気持ちが滲み出ている。
「あの授業、何か引っかかるんだよな」
詩織は、裕太に、授業中に感じた違和感、そして、白銀雪の言葉が、裕太が発見した「繰り返す」現象と奇妙に符合すること、それらが、自分の中に渦巻く不安を、さらに増幅させていることを伝えた。
「永遠回帰か……」
裕太は、考え込むように眉間を寄せた。
「ニーチェは、『永劫回帰』という思想を説いた。この世界は、全く同じように、無限に繰り返される。もし、そうだとしたら、人は絶望するのか? それとも、歓喜するのか?」
裕太の言葉に、詩織は、あの時の白銀雪の鋭い視線を思い出した。彼女は生徒たちの反応を、まるで観察者のように見つめていた。それは、教師としての優しい眼差しではなく、研究者が実験結果を分析するような、冷徹な視線だった。
「裕太、白銀先生って、一体……」
詩織が言葉に詰まると、裕太はノートパソコンの画面を彼女に向けた。
「調べてみたんだが、白銀先生の専門は、哲学だけじゃない。彼女は、大学時代、認知科学や人工知能の研究にも携わっていたらしい」
「認知科学、人工知能……」
詩織は、その言葉に、言い知れぬ恐怖を感じた。それは、彼女の心の奥底に眠る、幼い頃の記憶と、奇妙に共鳴する言葉だった。
「詩織、もしかして、何か思い出したのか?」
裕太の鋭い視線に、詩織は思わず顔をそらした。
「ううん、別に……」
しかし、彼女の心は、激しく動揺していた。
あの日、詩織が五歳の時。両親と一緒に出かけたテーマパークで、彼女は、迷子になってしまった。人混みの中、必死に両親の姿を探し回るうちに、彼女は、白い壁に囲まれた、不思議な部屋に迷い込んでしまったのだ。
部屋の中には、巨大なコンピューターのような機械が設置され、モニター画面には、意味不明な図形や数字が映し出されていた。そして、部屋の奥には、白衣を着た人々が忙しそうに動き回っていた。
幼い詩織は、恐怖で泣き叫びながら、部屋から出ようとした。その時、一人の女性が、優しく詩織に声をかけてきた。白いブラウスに、黒いスカート。穏やかな笑顔と、優しい声。その女性は、まるで天使のように見えた。
「迷子になったの? 大丈夫よ、私が助けてあげる」
その女性の言葉に、詩織は、安堵感と、言い知れぬ恐怖を感じながら、彼女の手を取った。
「あなた、特別な力を持っているのね」
女性は、詩織の首に光る紫色のペンダントを見て、そう呟いた。彼女の言葉の意味は、幼い詩織には理解できなかった。その言葉は、詩織の心の奥深くに刻み込まれた。
記憶のフラッシュバック。次の瞬間、詩織の意識は、闇の中に沈んでいった。
「詩織、しっかりしろ!」
裕太の強い声が、詩織を現実へと引き戻した。詩織は、ハッと息を呑み、裕太の顔を見つめた。
「ごめん、ちょっと……」
「何か、思い出したのか?」
裕太は、心配そうに詩織の目を覗き込む。詩織は、迷った末、裕太に、幼い頃の記憶を打ち明けることにした。
裕太は、詩織の話を真剣な表情で聞いていた。
「白い部屋、巨大な機械、白衣を着た人々……まるで、SF映画みたいだな」
「でも、あれは、ただの夢じゃない。現実だったんだと思う」
「そうか……」
裕太は、再び考え込むように沈黙した。
その時、裕太のスマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、見慣れない番号だった。裕太は、詩織に視線を向けた後、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
受話器から、聞き覚えのある、しかし、どこか冷たい声が聞こえてきた。
「田中裕太君ですね? あなたと葉月詩織さんに、お話があります。明日の放課後、霧ヶ峰神社の境内にある、古い井戸の前までお越しください」
その声は、まるで機械音声のように、感情が感じられない。不気味な静寂の後、相手は一方的に通話を切った。
「誰だったの?」
詩織が尋ねると、裕太はスマートフォンをポケットにしまい、表情を硬くした。
「白銀雪先生だ」
夕暮れの光が、二人の影を長く地面に伸ばしていた。その影は、まるで、これから彼らを待ち受ける運命を暗示するかのように、不気味に揺らいでいた。