第一話 ループする影
五月の午後。陽光が、教室の窓ガラスを白く染めていた。葉月詩織は、教科書の文字を追うふりをしながら、窓の外に広がる景色を眺めていた。
霧ヶ峰高校のグラウンドでは、野球部員たちが白球を追いかけ、その歓声が風に乗って教室まで届く。遠くの山並みは、霞んだ空に溶け込むように淡く青く、その稜線がぼんやりと揺らいでいた。
一見、ごく普通の高校の、ごく普通の日常風景。
しかし、詩織の胸には、言い知れぬ違和感が澱のように沈んでいた。それは、グラウンドを走る野球部員の動きが、どこかぎこちなく見えるからでもない。窓の外に広がる景色が、既視感のある絵画のように感じられるからでもない。
もっと根源的な、存在の芯を揺さぶられるような、奇妙な感覚。
詩織は、無意識のうちに首元に触れた。指先に、冷たく滑らかな感触が伝わる。それは、母の形見である紫色のペンダント。水晶のように透き通った石が、光を受けて淡く輝いていた。
このペンダントに触れると、いつも心が落ち着くはずなのに。今日は、逆に不安をかき立てられるような気がするのは、何故だろう。
「おい、詩織。また窓の外を見てぼーっとしてるのか?」
隣の席から、親しみを込めた声が聞こえた。詩織は、慌てて視線を教科書に戻す。
「ごめん、裕太。ちょっと、疲れてて」
詩織は、作り笑いを浮かべながら答えた。田中裕太は、詩織の幼馴染であり、唯一心を許せる存在だ。クラスメイトの誰もが認める秀才だが、彼には、コンピュータやネットワークの世界に異様なまでの情熱を傾ける、もう一つの顔があった。
「疲れてる? 最近、ちょっと顔色が悪いぞ。無理するなよ」
裕太は、心配そうに詩織を見つめた。彼の瞳は、いつも冷静で鋭い光を湛えている。しかし、詩織には、その奥底に、何かを探るような、不安げな影が見え隠れするように感じられた。
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
詩織は、そう言って話題を逸らそうとした。しかし、裕太は、容易に引き下がるような男ではなかった。
「なぁ、詩織。最近、何か変だと思わないか?」
彼の言葉は、静かだが、鋭く詩織の心に突き刺さった。
「変って……?」
詩織は、意識的に言葉を濁した。裕太も、あの奇妙な感覚に気づいているのだろうか。
「うーん、うまく説明できないんだけど……」
裕太は、いつものようにノートパソコンを取り出すと、何やら操作を始めた。
「例えば、これとか」
画面に映し出されたのは、学校のホームページだった。そこには、生徒会からのお知らせとして、来月の文化祭に関する案内が掲載されている。
「これの何が変なの?」
詩織は、首を傾げた。裕太は、画面をスクロールしながら、説明を始めた。
「この文章、去年の文化祭の案内と、ほぼ同じなんだ。日付と担当者名が違うだけで、あとはコピペだ」
「そんな、まさか……」
詩織は、画面を食い入るように見つめた。裕太の言うとおり、文章の構成、言い回し、内容まで、去年のものと酷似していた。
「他にも、最近、似たようなことがよく起こるんだ。生徒会の議事録、図書館の新着図書リスト、それに、先生の授業内容まで、去年のものと全く同じだったりする」
裕太の声は、静かだが、重みがあった。詩織は、彼が指摘するまで、その異変に気づかなかった自分を責めるような気持ちになった。
「もしかして、私たち……」
詩織は、言葉を詰まらせた。裕太は、彼女の言葉を遮るように言った。
「ああ、俺もそう思ってる。バカバカしいと思ってたけど、俺たちは何かのループに閉じ込められているのかもしれない」
その瞬間、教室のドアが開き、担任の白銀雪先生が入ってきた。彼女は、いつものように白いブラウスに黒いスカートという服装で、穏やかな笑みを浮かべている。しかし、その笑顔が、詩織には、どこか不自然なものに感じられた。
「皆さん、こんにちは。今日は、少し哲学的な話をしましょう」
雪先生は、黒板に「永遠回帰」という言葉を書き出すと、生徒たちに向き直った。
「ニーチェは、『永遠回帰』という概念を提唱しました。それは、この世界は、全く同じように、無限に繰り返されるという考え方です。もし、あなたの人生が、全く同じように、何度も何度も繰り返されるとしたら、あなたはどう感じますか?」
雪先生の言葉が、詩織の胸に重く響く。ループ、永遠回帰。それらの言葉が、彼女の中に渦巻く違和感を、より一層強めていく。
詩織は、首元のペンダントを握りしめた。その冷たさが、彼女を現実へと引き戻す。しかし、彼女の心は、すでに深い闇の中に足を踏み入れていた。