037.帝国の挑戦(五)
帝国軍遠征隊は現在第十一階層の終盤に差し掛かっていた。
第三小隊の隊長エルクック・ムンバ少佐は絶え間ない緊張の中、僅かに違和感を感じていた。
下層に入ってからまだ一度も魔物に遭遇していなかったのだ。
底層では各階層毎に二回ないし三回は魔物との戦闘があったので、下層でも同じ頻度かもう少し多くなると想定していたため、この平穏さは却って不気味なのだった。
ムンバ少佐は先行している第一小隊や第二小隊が自分たちの通る前に魔物を討伐してくれたものと信じる事で平静を保っていたが、内心では先へ進む毎に僅かずつ不安が増大していくのを抑えられずにいた。
「もう少し進んだら休憩にするよ」
第三小隊の案内人を担当しているこのヤンという少年は見たところまだ十代前半のようだが、中級冒険者以上推奨とされているこの下層でも全く臆する事なく見事に自分の役割を果たしていたので、ムンバ少佐は感心していた。
一緒に行動し始めた当初は気になっていた口調も、いつしか好ましくすら感じるようになってきていた。
そんなムンバ少佐にとって、魔物が出現しない事と合わせてもう一つ気になっている事があった。
割と早い段階から前を行く第二小隊の最後尾が見えなくなってしまっている事だった。
追いつかなくていいのかとヤンに尋ねたのだが、迷宮内ではグループ同士は適度に距離を置くのが慣習になっているとの事で、そう言えば底層でも本来は小隊同士の間隔はあけておく予定だったなぁと思い出し一度は納得した。
しかし、まだ時間が経つにつれて隊が孤立している感覚がぶり返して来てムンバ少佐のメンタルを削ってくるのだった。
「右手の川には近づかないでね。万が一落ちたらほぼ助からないよ」
危険を知らせる内容なのだが殊の外陽気に話すヤン。
川の周辺の岩は苔生しているのと濡れているのとで非常に滑りやすくなっていた。
「ほぼ助からないとはどういう意味なんだい?」
「流れが急なのとこの先で岩盤の下に入っちゃうから……」
ヤンが指す先を見ると確かに川の流れが岩の壁の下に潜り込んでいた。
あれでは一度岩の下に潜り込んだら二度と出てくることは出来ないだろうと思われた。
「死体も上がらないよ」
ヤンがこれまた陽気に付け加えるのを聞いてさすがに苦笑いするムンバ少佐。
「マッコル軍曹! 今の話は聞いたか?」
「はい少佐ッ!」
ムンバ少佐はすぐ後ろの兵に声をかけると、その兵は大きく頷いて返事をした。
「よし。ではみんなに伝えるんだ」
「サー、イエッサー」
ピート・マッコル軍曹はすっと歩を緩めると流れるような動きで二列縦隊の横をスライドするように後退しながら次々と兵士たちに情報を伝えていった。
マッコル軍曹は最後尾まで到達するとすぐ駆け足になり、あっという間にムンバ少佐の後ろに戻って来た。
第三小隊はムンバ少佐を含めたった十人の編成であり隊列も、ヤン、ムンバ少佐、マッコル軍曹と続いた後は二人ずつ四列あるだけなので先頭から最後尾までが約十m程度とコンパクトで非常に見通しが良かった。
「この先が休憩場所のキャンプ11-4だよ」
ヤンがそう言ってからすぐ、道なりに左に曲がった先に第二小隊が休憩している姿が確認出来たのでムンバ少佐は心の底からほっとした。
「よぉヤン。遅かったじゃないか」
キャンプの手前にラノックがわざわざ迎えに立っていた。
「遅くないよ。予定通りだよ。おじさんたちこそちょっとゆっくりし過ぎなんじゃない?}
ヤンとラノックが立ち話をしている後ろをムンバ少佐たち第三小隊が通り過ぎて行く。
「いやそれがな、オレたちがここに着いた時、ちょうど前の隊が魔物と戦ってる最中でな」
「え、キャンプで魔物と戦ってたの?」
「そうなんだ。ここに出たのかここまで移動してきたのかは知らねぇが、とにかくここで戦ってたんだ」
「魔物の種類は?」
「聞いて驚け、レッドベアだ。信じられるか、ここは下層の十一階層だぞ」
「まぁ今は波だからね」
「おい、少しは驚けよヤン。オレが馬鹿みてぇじゃねえか」
「それよりレッドベアには勝てたの?」
「勝ったには勝ったが、半分近くやられてたな」
「え!? 死んだの?」
さすがのヤンも少し驚いた表情で尋ねる。
「いや、死んだヤツはいない。重傷者もいなかったはずだ。でも立てなくなったヤツらが十数人はいたな」
「ふぅん。じゃあそれをおじさんたちの回復士も一緒に治療したから時間かかったんだ」
「まぁそういう事だ……っておい! オレの話を横取りするな」
「ほら、呼ばれてるよおじさん」
ヤンが指差す先で、ノックホルト中佐の横に立つレツが手招きしている。
第二小隊はいつの間にか整列済で出発の準備を完了していた。
入れ替わりにキャンプのスペースは第三小隊がゆったりと使い始めていた。
「じゃあな、ヤン。あんま無茶するなよ」
言いながら駆けていくラノックを手を振りながら見送るヤン。
ラノックたちと第二小隊が無事出発するのを見送ったヤンは、パンと両頬を手で叩いてから気合充分な顔付きで第三小隊の方へ歩いて行った。
* * * * *
第三小隊はちょうど十人で円になるように座って休憩していた。
ヤンはムンバ少佐の斜め後ろで岩に腰掛けていたので、円から一人だけはみ出ている位置。
今回の第三小隊は小隊長のムンバ少佐を除けば、九人全員が十六歳から二十二歳の間という年齢の近い若者たちだった。
そしてその若さにも関わらず、過酷な遠征に選ばれただけの実力と素質を兼ね備えた九人であった。
元々の所属で言うとほぼバラバラの部隊から集まっていた上、オグリムまでの行程とスタルツまでの行程とでそれぞれ異なる編成だった事もあって、お互いよく知らない状態でここまで四時間あまり行軍してきたのが、ようやくここで少しコミュニケーションが取れる時間が出来たのだった。
「水分とエネルギーを補給しておいた方がいいよ。甘いモノとかある?」
ヤンがムンバ少佐の後ろからアドバイスを送る。
「ああ、そうだな。みんな、きび餅をひとつずつ食べるんだ。あと水も」
ムンバ少佐は兵たちに声をかけると自分の革袋から一口水を飲むと、装備から包みを取り出して中から板状になった茶色い餅をひとつ掴んで口に持っていく。
そのまま口に入れるのかと思ったら歯でパキッと噛んで小さく割って口に含んだ。
他の兵たちも同じように水を飲んでから餅を割って口に含むと、そのままもぐもぐとやっている。
「ねぇ、それなぁに?」
ヤンが興味津々で尋ねるとムンバ少佐はもぐもぐを中断して答える。
「これかい? これはきび餅って言って帝国の南の方にある町の特産品なんだ。帝国軍で正式に採用された携行食なんだけど、とにかく硬くって口の中で唾と一緒に温めて柔らかくしてからようやく食べられるようになるんだ」
きび餅が口の中にまだある状態でしゃべっているのでだいぶ怪しい発音だったが、ギリなんとか聞き取れた。
「へぇ~。少しもらってもいい? 代わりにこれひとつあげるから」
ヤンは腰のカバンから迷宮だんごをひとつ取り出してムンバ少佐に差し出す。
「(じゅるっ)……これは?」
きび餅を柔らかくするために唾液たっぷりの口の端から涎が垂れかけるのを慌てて拭ってからムンバ少佐が尋ねる。
帝都を出発してからというもの、まともな甘味などにはとんとお目にかかっていないのだ。
ムンバ少佐は自然とそのだんごをガン見していた。
「迷宮だんごっていう迷宮の名物だよ。食べると元気が出るんだ」
「いいのかい?」
「うん。その代わりそのきび餅ってやつちょっと分けてよ」
ムンバ少佐の表情から答えは誰の目にも明らかだった。
「う、うん。じゃあこれ……」
ムンバ少佐が装備の中から新しいきび餅の包みを取り出そうとした所で、ヤンがそれを遮る。
「ボク、これでいいよ」
ヤンはムンバ少佐の手に迷宮だんごをポンと置くと、ムンバ少佐が一旦横に置いた包みの上にあったきび餅の食べかけをひょいとつまむとそのまま口に放り込んだ。
「あっ、それは……」
ムンバ少佐が目を丸くしてヤンがもぐもぐするのを眺めている。
そのムンバ少佐の手の上の迷宮だんごを他の兵たちがギラついた視線で凝視している。
「本当は水を口に含んでからの方がいいんだけど……」
ムンバ少佐は一言アドバイスするタイミングを逃して申し訳なさそうにしている。
きび餅は乾燥してパキパキに固まっているので、口の中がある程度潤っていないと残りわずかな水分を全部持っていかれて大惨事になる事もあるため、口にする前に水を飲むか少し口に含ませておくのが帝国人なら誰もが知っている常識なのだが当然ヤンはそんなことは知る由もなかった。
ヤンが大丈夫か気になって自分のもぐもぐを忘れて見つめるムンバ少佐。
「ほんほにははいんあえほえ(ほんとにかたいんだねこれ)」
全く問題なさそうだ。
ただヤンの口には少し大きすぎたのか、ほぼ何を言っているのかわからない。
ヤンの意味不明言語に笑いかけて我に戻ったムンバ少佐はここに至ってやっと他の兵たちの視線に気付くと、慌てて迷宮だんごを空になったきび餅の包みに隠したが時既に遅し。
相当遅し。
緊迫した空気の中、ムンバ少佐は包みを改めて装備の中に戻すともぐもぐ作業に集中する。
ヤンも一心不乱に口の中でもぐもぐ。
ムンバ少佐もややバツが悪そうにしつつもぐもぐ。
他の兵たちも諦めた者からもぐもぐに戻っていった。
「だんだん柔らかくなってきた。なんか甘いッ」
ヤンが驚いたように大声で言うと、帝国の兵たちは微笑みつつ何故か誇らしげな顔になる。
きび餅はきび砂糖をお餅(原料は米ではなく麦)に練り込んでいるので、柔らかくなってくるとほのかな甘みが口の中に広がる。
本物のお菓子や果物の甘さには遠く及ばないため平時であれば満足度は低いのだが、厳しい訓練や長期遠征などでは非常に重宝される必需品なのだった。
「ごちそうさま。ありがとうムンバ少佐」
きび餅を飲み込んだヤンが満足して礼を言う。
「どういたしまして。あ、俺のことはエルでいいよ」
「えっ……」
ヤンが驚いたような声の後で俯いて黙り込んでしまった。
「俺の名前、エルクック・ムンバっていうんだけど仲間はみんなエルって呼ぶからさ」
説明が足りなかったものだと思ったムンバ少佐が続けるが、依然ヤンは俯いたまま。
「ヤン君、どうかしたのか? もしかしてさっきのきび餅が合わなかったとか」
心配そうにのぞき込むムンバ少佐。
「ごめん、大丈夫。なんでもないよ」
ヤンがようやく顔をあげて笑顔を見せるが、どことなくぎこちない。
「そうか。ならいいんだけど……」
ムンバ少佐もやや腑に落ちない顔をしつつ、大人の配慮でそっとしておく。
「ねぇ、みんな自己紹介しようよ。まだお互いよく知らない人も多いんでしょ」
ヤンが兵たちの方を見渡しながら明るく提案する。
「そうだな、これから先一緒なんだし」
「むしろ必要だよな」
「やろう、自己紹介」
「賛成!」
「賛成!」
「同じく」
あちこちから声が上がると、嬉しそうにムンバ少佐がそれを制して立ち上がる。
「わかった。ヤン君ありがとう。それじゃ早速俺から。第四師団……はみんな一緒か。じゃあ第一大隊第一中隊長のエルクック・ムンバ少佐だ。港町ハーシェルの出身で今年二十八歳になった。十八で士官学校を卒業してノックホルト中佐、当時は中尉だったけど……の部隊に配属されて現在に至る。まだ指揮官としては未熟者だがこの遠征を通してみんなと一緒に成長していきたいと思っているので、どうかよろしく頼む」
おお、と声が上がってみんな拍手。
なかなか見事な自己紹介だった。
ヤンも感心したような表情で拍手をしている。
まだ次がどちら周りと決まっていないにも関わらず、ムンバ少佐の右隣がすかさず立ち上がる。
「同じく第一中隊第三小隊所属のピート・マッコル軍曹であります。ヘザール出身二十一歳であります。十七歳で正式に軍に配属された時の小隊長がムンバ少佐でした。あ、当時はもちろん少尉でありました。軍に入る前は実家の店を手伝っておりました。田舎生まれですが一日中近くの森で遊んで育ったので上部な体と運動能力には自信があります。以上であります」
「第三中隊第一小隊のマーカス・グランツ伍長です。バラドム出身の十九歳で趣味は歴史の本を読むことです。入隊三年目の自分が今回の遠征に選ばれたのを心から嬉しく光栄に思っています。全身全霊で任務の達成に向けて努力する所存ですので皆さまどうかご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします!」
「第一中隊第四小隊から来ましたキッズ・ホランド伍長、十九歳です。北城都市のエルドラン出身です。ノックホルト中佐に憧れて軍に入ったので今回の遠征に選ばれて正直夢が叶った気分ですが、戦果をあげて帰るまで気を抜かず集中します。槍術と氷魔法が得意です。みなさんどうぞよろしくお願いします」
「ここにいるみなさんは第一大隊の方が割と多いようですが自分は第二大隊から来ました。同第二中隊第二小隊所属のウィリアム・ホーネック一等兵です。フェルマーレ出身で、まだ入隊して二年目の十八歳です。 正直自分のような若輩者がどうして選ばれたのか全く想像もつかないのですが、選ばれたからには精一杯頑張ります。得意な魔法は風属性と氷属性です。よろしくお願いします」
「ホーネック一等兵と同じく自分も第二大隊から来ました。第二中隊第一小隊所属のマーヴィン・プレスキー一等兵、十九歳です。ホーネック一等兵とは同郷で一緒に帝都にのぼって軍に志願しました。得意魔法は土属性と氷属性です。どうぞよろしくお願いします」
「鎧騎士団青騎士所属のテオスカー・ウリゲル少尉だ。バラドム出身の二十二歳。よろしく頼む」
「鎧騎士団白騎士所属のオルガ・エリンコヴィッチ准尉、二十一歳。テオと同じバラドム出身だ。子供の頃からずっと憧れていた鎧騎士団に入れて喜んでいたところへこの遠征に呼ばれた。正直騎士団本隊から離れているのが残念でならないが、同じく遠征に選ばれながら下の残留組になってしまった仲間のためにも今回の任務は全力でやり遂げる。よろしく頼む」
「みなさんお疲れ様です。ハンス・ワルベルク上等兵、十七歳です。自分の故郷は交易都市として有名なラオザールになります。今回自分は斥候及びみなさんのお世話係として同行させていただいております。所属の方は第一中隊第一小隊になります。何かご不便なことやご要望等ありましたら自分の方へお声がけください。何卒よろしくお願いいたします」
「あ、あの、私は第四大隊の第三中隊から来ました回復士のペク・ジュノ軍曹です。えと、まだ十六、です」
ここで一同、大きくざわついたが無理もない。
「あ、すみません。私は養成所出身なのですが色々あって十四の時に入隊しています」
再び大きくざわつく。
それもその筈、帝国軍の入隊基準では年齢十六歳以上となっているのだ。
軍では一般公募とは別に、士官学校及び養成所から入隊する場合でも原則的には年齢下限は同じ基準が適用されているのでジュノ軍曹の場合は何かしら上層部ないし権力筋からの働きかけがあって特例措置が適用されたのだろうと推測されたのだった。
それにしても十六歳で軍曹というのもここにいる誰も聞いたことがない話であった。
「えと、すみません。私はイルザーレという村の出身で、あの、おそらく誰もご存じないような田舎なのですが、場所はザールではないのですが一応ザール地方の南西の外れの方になります。回復術の他には火と水と雷の魔法が使えます。あと格闘術も少々、これは幼い頃から祖父に教わっていたので自分でも一番自信があるのですが、はい。だから回復士ですけど、守っていただく必要はありません。どうかよろしくお願いします」
短い間だが誰もが口を開けず、また頭の中も混乱したままの時間が続く。
隊員のプロフィールをある程度把握しているムンバ少佐と、鑑定レベル3で予め情報を取得していたヤンだけが正常な思考回路を保持していたが、それでも未知の情報が自己紹介の中に含まれていたのでそれなりの驚きとインパクトはあった。
ジュノ軍曹は自分の後にだけ拍手がないのを気にしてきょろきょろしていたが、それに気付いたムンバ少佐とヤンが慌てて拍手をするとようやく他の兵たちも我に返って拍手をし始めた。
「ヤン君、最後は君だ」
ムンバ少佐がヤンの方へ手を向けて促す。
「え、ボクも?」
熱い眼差しをジュノ軍曹に送っていたヤンが意表を突かれる。
「そうだ。頼むよ」
しょーがないなーといいながら立ち上がるヤン。
「えーっと、朝の挨拶は無視されちゃったけど、バルベル迷宮ギルドでC級案内人をしているヤンです。十二歳です」
初っ端のジャブでみんなが苦笑いをするが、年齢を聞いてそれが驚きの表情に変わる。
「一応史上最年少のC級案内人らしいです。みんな今回は軍のお仕事で迷宮に来たと思うけど、次は是非仕事じゃなくて自分のために来てください。その時は事前に連絡くれたらボクがまた案内するよ。あ、でもその前に今回無事に帰るのが絶対条件になるけど、たぶんそれは無理だと思うから次の機会はないって事になっちゃうなぁ。残念」
またどでかい爆弾をブチ込んできましたよこの子は。
「ヤン君、今のはどういう意味だい」
さすがにムンバ少佐からツッコミが入る。
他の兵たちもある者は口を尖らせ、ある者は顔を真っ赤にし、ある者は燃える目でヤンを睨みつけている。
「帝国軍の、一番前の第一小隊の人たちが上層の階層主に挑戦しに行くんでしょ。絶対無理だよ。今のままじゃ階層主まで辿り着けるかどうかも怪しいよ」
途端に場が沸騰する。
「おい貴様ッ!」
「どういう意味だッ!」
「お前なんかに何がわかるッ!」
「ふざけるなッ!」
「帝国軍を侮辱するのかッ!」
「ガキは黙ってろッ!」
「戯言をッ」
ありとあらゆる罵声がヤンに浴びせられた、
ムンバも兵たちを制することはせず、厳しい視線をヤンに向けているのみ。
「さっき聞いた話だと、この場所で第一小隊がレッドベアと戦ったんだって。レッドベアっていうのは本来もっと上の中層にいる魔物でそこそこ強い魔物なんだけど、うーんそうだなぁ強さ判定でいうと6.5点くらいの強さ、って言ってもわからないか。えーっとそれじゃ、確か九階層でデカマと戦ったって聞いたからそのデカマが3点くらいの強さだって言ったらわかるかな」
「あの! その強さ判定ではジャイアントボアは何点になるんだ?」
グランツ伍長が手を挙げてヤンに尋ねる。
「ああ、キバウリならちょうど2点くらいかな」
大きくどよめきが起こる。
「そのレッドベアは結局第一小隊の将校さんたちで倒したみたいなんだけど、その時に十人以上の人が動けないほど負傷したらしいよ」
再び大きなどよめき。
さっきのものよりも大きく、悲壮感に満ちた響き。
第一小隊にいるのは今回の遠征の幹部たち、つまり最も強い将校たちであり、他の兵たちも三百名の中から選りすぐりの精鋭たちで構成されていたのだから、それが十人以上やられたというのはショック以外のなにものでもなかった。
「でもその負傷した人たちは第一小隊と第二小隊の回復士の人たちが総出で治療したから、何事もなく復帰できたみたいだよ」
それを聞いて十人全員が安心した顔になる。
「つまりさ、もうわかってると思うけど将校さんたち以外はもう戦力外なんだよ。数だけいても邪魔。しかもその将校さんたちも中層辺りが限界じゃないかな。今ちょうど波だし」
「ヤン君、その波というのは?」
ムンバ少佐が尋ねるとヤンは目をまん丸に見開く。
「えっ!? それも知らないでここに来たの? 遠征先の情報って事前に調べておくんでしょ」
あー、だからそういう事言うとまた雰囲気が……案の定またしても殺伐としてきましたよ。
「それはもちろんある程度は調べてあるんだが、その波というものについての情報はなかったように思う」
「じゃあ高潮は?」
「ああ、それなら知っている。確か魔物の討伐頻度が下ったエリアで発生する現象だったかな」
「そうだけど、どうして高潮は知ってるのに波は知らないの」
「ヤン君、申し訳ないがその波について簡単でいいから教えてくれないか」
「波っていうのは迷宮全体が高潮になるような状態なんだけど、高潮みたいにエリア単位で鎮めることが出来なくて、影響も被害も比べものにならないくらい大きいんだ。だから波の間は階層主と戦うなんて無謀だし、そもそも上層に入ること自体、自殺行為らしいよ」
「ではこの波は一体いつまで続くんだい?」
「わかんない。波の強さもその時々で違うみたいで、継続する期間もそれによって変わるんだって」
ムンバ少佐を含め第三小隊の全員が軽く絶望感に囚われる。
「ヤン君たちギルドの人間でもどうにもならない事なのかい」
最初から答えがわかっているとでもいうように、力なく尋ねるムンバ少佐。
「無理かどうかはやってみないとわからないけど、どっちみちすぐに波を鎮めるのは難しいと思うよ」
「では我々は……今回の遠征の目的達成は不可能だと言うのか……」
すっかり意気消沈のムンバ少佐。
他の兵たちも当然同じく沈鬱な気分に打ちひしがれていた。
「今のままだとそうだね」
ヤンが何の忖度もせずいつもの明るい調子で話す。
一言もない帝国兵たち。
「どうする? 諦めちゃう? 帰る?」
ヤンに畳みかけるように言われる度、体がピクリと反応するムンバ少佐。
「我が帝国軍に戦わずして撤退などありえないッ! どんなに不利な状況であろうと一戦交えて一太刀でも傷を負わせるくらいはしてみせるッ!」
エリンコヴィッチ准尉がほとんど逆ギレに近い絶叫を放つと、そうだそうだと数人が声を上げる。
「そんなに言うなら次出てくる魔物を倒してみせてよ。下層の魔物程度余裕で倒せなきゃ上層なんて夢のまた夢だよ」
一瞬の躊躇があったものの、そこは若き兵士たち。
次々とやってやるという声が沸き起こり、途端に士気が爆上がり。
「みんなこう言ってるみたいだけど、ムンバ少佐」
苦渋の表情のムンバ少佐に決断を迫るヤン。
「わかった。やろう」
オオオオオッ!!!!
ムンバ少佐が立ち上がって伝えると兵たちも全員立ち上がって声を上げる。
ヤンはそれを眺めて一人ほくそ笑んでいた。





