ごめん
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女房が死んだ。まだ二十五だった。調子が悪い悪いとしきりに言っていたのけれど、まさか死ぬとは思わなかった。髄膜炎なる病だったらしい。ヒトってこんなにも簡単に死ぬんだな。そんな思いで喪主を務めていて、だから葬式の最中も他人事みたいだった。実際、もとをたどれば他人だ。だから女房が死んだところで、べつにいいやと考えた。ただ一つ、面倒なことがあった。四つになったばかりらしい娘を置き去りにして逝っちまったことが、もうなんだか最低だ。俺が娘の面倒を見なくちゃいけないのか? ガキの面倒は女房に任せきりだった。どう育てたらいいのか、もっと言うと、どう接したらいいのかすらわからない。
葬儀のとき、俺は先々のことと現状とがことのほかめんどくさくなって、抱えていた女房の遺影を地面に叩きつけた。周囲のアホどもが唖然とするなか、俺は「うぜーんだよ!!」と叫んだ。それが悪いことだなんて微塵も感じなかったし、とっとと勝手に死んじまった女房を恨んだし、女房が大嫌いになった。ガキは女房んちのばばあに抱き止められた。俺のことが怖いのはわかる。実際、俺は最低の父親だし、それ以前に最悪の男だ。
だけどどうしたって考えたのは、すべてのしがらみを取り払って、自由に生きたいということだけだった。
うぜーんだよ、みんな、全員、年寄りも若い奴も、みんなみんな。俺の生き方にいちゃもんをつけるような奴はさっさと死んじまえばいい。
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安アパートで娘との二人暮らしが始まった。俺は長距離トラックの運転手だから、そうそう家にはいられない。娘を一人残して仕事に時間を費やすことになる。レンジでチンすりゃ食える白飯と、湯をそそぐだけで食べられるカップ焼きそばとカップ麺を買い置きして、「それを食え」と言いつけた。「野菜が食いたきゃ自分で買え」と言って、そのために、金を置いた。雀の涙ほどの金額だ。もやしくらいしか買えないだろう。
娘はぷくぷく太っていた。でも、見る見るうちに細くなった。栄養が足りていないことは明らかで、だからといって、なにか施しを与えてやろうとは思わなかった。
死んじまえくらいに思っていた。
俺にとって娘という生き物の価値は、その程度でしかなかった。
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俺が家に戻ると、ガキは犬か猫みたいに飛んでくる。「パパ、お帰り!」などと快活にほざくのだ。もう六つになったのか――それくらいだろう。俺は娘の誕生日を知らない。
パパなんていう上等な呼び方をされる上等なニンゲンじゃねーよ。
そんなふうに思いながら、風呂に入って、居間で缶ビールを飲む。「パパ、ごはん、食べる? 食べるよね?」と聞こえてきた。刹那、思った。女房の声に似ている。だからこそ、なんだかむかついた。顔をしかめ、俺は大きな声で、「おまえなんて死んじまえ、バーカ!」と言った。
ガキが泣きだした。自分の部屋に飛び込み、戸をばたんと閉めた。そのうるささとけたたましさと生意気さに腹が立って、俺はガキの部屋に乗り込んだ。安っぽいベッドのうえで、クマだろう、茶色いゆるキャラ的なぬいぐるみを抱いて、ベッドの隅で――怖い顔、あるいは怯えた顔をしている。震えているのかもしれない。とはいえ、ガキはガキだ。俺はガキが嫌いだ。ほんとうに嫌いだ。大嫌いだ。だからだ。ガキからクマのぬいぐるみを取り上げ、力任せに首を引きちぎり、頭を床に叩きつけ、それをガンガン踏みにじってやった。ガキが泣き叫ぶ。わんわんわんわん泣き叫ぶ。そんなことは気に留めず、ガンガンガンガン踏んでやった。
やっぱり俺は最低なのか? 間違いなく、そうなのだろう。ぬいぐるみの首を引きちぎってやって、それを踏みにじることに快楽を感じている。ぬいぐるみはおろか、ガキすら死ねばいいと思う。女房は無責任だ。このガキを育てる義務があったってのに。俺に任せんなよ、俺に押しつけんなよ、俺になすりつけんなよ。
女房は死に際、言った。
「仲良く暮らしてね? 暮らしてあげてね? 優しくしてあげてね?」
ふざけんな、バーカ。
おまえがそう言ったところで、俺は約束なんてしてねーっつの。
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俺がどれだけひどいことを言っても、ひどいことをしても、ガキはめげなかった。どうしてだろう。その姿勢に胸を打たれた? それとももっと単純に自分のなかでなにかが変わった? そのへんはわからないし、どうでもいいんだけど、とにかく俺は、家を空けるときには、少なくても千円札を置いて出るようになった。千円札を見たとき、ガキは「えー、いいの? こんなにたくさん!」と声を弾ませた。「好きなもん食えよ」と言えるようになったあたり――俺のなかで、なにが変化したのだろう。それって成長とも呼べるのだろうか。
ある日、家に帰ると、その現場に出くわした。七つやそこらのガキが、踏み台を足掛かりに、キャベツやらイカやらタコやらを切っていたのだ。うんせ、うんせといった感じで、たいへんそうに映る。
そんなことより――。
俺は慌ててガキから包丁を取り上げ、「馬鹿野郎」と叱った。
「ホント、やめろ、馬鹿。まだちっちぇのに包丁なんて使ったら、ケガすんだろうが」
するとガキは目をぱちくりさせ――それからにこやかに笑み、「だいじょうぶだよ。いつもやってることだもん」と言い、ころころ笑った。
厳密に言うとガキのことを心配して言ったことではないのかもしれないけれど、なんだか俺の心は、不機嫌かつ不愉快な思いにさらされた。
「もうこんな真似はすんなよ。一人のときに包丁は使うな」
「あれ? パパ、ほんとうにどうしたの?」
「なにがだよ」
「だから、とっても優しいんだもん」
俺は後頭部を右手で掻き、その問いには答えなかった。
「晩飯はなんなんだ?」
「お好み焼き! ママ直伝なの!」
「そういえば、散々、食わされた記憶があんなぁ」
「ほら、パパ、すごく優しい」
「気のせいだ。つーか、パパって言うなよ。気持ちわりーんだよ、おまえ」
「それでも私のパパだもん」
どこからどう見えても虐げているのに、どうしても寄ってくる――どうして距離を詰めてくるのだろう。
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ガキが十になった。ガキの誕生日くらい把握するようになっていた。俺はずいぶんと年をとったように思う。トラックに荷の積み込みをするときも、ずいぶんと疲労を覚えるようになった。全然老け込む年じゃない。それでもそんなふうになった原因は、たぶん、女房がいなくなってしまったということを、身近に感じるようになったからだろう。なにかもっとべつな、やりがいのある仕事を見つけたいところだけど、あいにく俺には学がない。トラックを運転するくらいしかできない。それが悪いことだとは考えない。だけど、なんだろう、この先、ガキをクソガキを、満足がいく年齢にまで育てていける自信がなくて――。
久しぶりの休日。俺は居間にある古ぼけたクリーム色のソファで横になっていた。そのまま眠ってしまったらしい。ガキの名前を呼んだ。返事がないものだから、少々、そわそわした。夜に出歩かれると心配になる。まさか恋人? いやいや、まだまだ十のガキだぞ。そんなことあるわけないし、ありえるわけが――。
だけどやっぱりなんだかそわそわして、俺は缶ビールに口をつけていた。ずいぶんと苦く感じられる。普段ならもっとうまいものだ。心配している。俺はガキがちゃんと帰ってくるのだろうかと気を揉んでいる。なにせ酒に弱い俺だから、眠くなり、眠ってしまった。だけど、玄関の戸――重苦しい鉄製の扉が開いたところで、目が覚めた。どうやら帰ってきたらしい。安堵する。
俺はソファのうえで身体を起こし、ガキに目をやった。ヨーヨーすくいをしたのだろう。口のはたについているのはチョコバナナを頬張った痕だろうか。大きなわたあめの袋も持っている。
「楽しかったか?」
もはや俺は、そんな口が利けるようになっていた。
「とぉぉっても楽しかった!」
ガキはそう言って。
「どこかに行くときは、俺に言ってから行けよ。ちょっと、まあ、なんだ……」
パパも素直になればいいのに。
ガキはそう言って、にこにこ笑った。
「パパ、覚えてる?」
いきなりそう言われたところで、なにも思い浮かばない。
「私の部屋に来て?」
ガキに手を引かれ、その場所を訪れた。
真っ暗な部屋。ガキの背は尊いように感じられ。紫色の浴衣、桃色のあさがおの柄。ガキはこちらを振り向き、ベッドから両手でなにやら持ち上げた。はっとなった。あの日、俺が首を引きちぎってやったゆるキャラ――クマのぬいぐるみだったからだ。
「今日ね? くじびきを引いたの。そしたら、このクマちゃんの大きなのが当たったの。でも、友だちにあげちゃった」
「おまえ、そのクマ、好きなんじゃねーのかよ。だったら、おっきなヤツがあったほうが――」
「私はいいの。このぬいぐるみがあるから、いいの」
「俺が首をちぎってやったんだ。もう上等なもんじゃねーだろ?」
「上等なものじゃなくたっていいの」
ガキが――娘が近づいてきた。「はい」と言って、そのぬいぐるみを手渡してきた。首と胴体は不格好に縫いつけられていて……だからとても悪いことをしてしまったように思えた。
ガキが――娘が――杏子のことが、とても不憫に感じられるとともに、杏子に対して、俺はなんてむごいことをしてきたのだろうと感じた。できることなら父親なんてやめたいと、ずっと思っていた。杏子のことが面倒だったから。でも、俺がどれだけ嫌な奴であっても、杏子は俺に懐いている、ついてこようとしてくれている。
涙が止まらなかった。
俺はぬいぐるみを抱き締め、膝から崩れ落ちた。
ごめん、ごめん、ごめん。
そうとだけ、くり返した。
なにが間違いだったとは言わない。
ただ、俺は間違っていた。
杏子が抱きついてきた。
「私はパパが大好きだよ?」
やっぱり「ごめん」としか言えなかった。