6.身の程知らず
翠玉宮は蒼玉宮とはまた違った雰囲気の宮殿だった。
格式高く、荘厳なのは間違いないけど、どこか温かみがあってホッとする。宮殿の主人の気性がそう思わせるのかもしれない――そんな風に思った。
「どうか楽になさってくださいね、ミーナ様。同じ妃同士、仲良くしていただけると嬉しいですわ」
昨日も全く同じセリフを聞いたばかりだというのに、受ける印象は真逆だ。ほっこりと心が温かくなり、わたしは穏やかに微笑み返す。
翠玉宮の主――公爵令嬢エスメラルダ様。
輝くばかりの金髪に、新緑を思わせる美しい翠の瞳。愛らしく人懐っこい、優し気な笑み。それでいて気高く、上品でいらっしゃる。理想の貴族令嬢の姿がそこにはあった。
(なによ……アーネスト様ったら、こんなに素晴らしいお妃様がいらっしゃるんじゃない!)
他のお二人はさておき、エスメラルダ様なら、一緒にいても変な気疲れはしないだろう。寧ろ癒されるのではないだろうか。
(金剛宮じゃなくって翠玉宮にお通いになればいいのに)
――そんな風に思っていたら、ふと前方から鋭い視線を感じた。
見ればそこには、漆黒の騎士装束に身を包んだ若い男性が佇んでいる。値踏みをするような鋭い視線に少しだけ体が竦んだ。
「コルウス!」
エスメラルダ様は男性のことをそう呼び、険しい表情を浮かべる。コルウス様は小さくため息をつきつつ、わたしからそっと視線を逸らした。
「ごめんなさいね。彼は私の騎士、コルウスよ。昔からすごく過保護なの」
「いえ、とんでもございません」
こたえながら、わたしはコルウス様のことをそっと覗き見る。エキゾチックな切れ長の瞳。表情からは彼が今、なにを考えているのかよく分からない。けれど、そういうミステリアスなところが、かえって女性を惹きつけそうな気がする。きっと、宮女や侍女の間で密かにファンがいるタイプだろう。
「ねえ、ご存じ? 東方のとある国では、後宮に出入りする男性は皆、『生物学的に男性じゃなく』してしまうんですって。宦官っていうんだそうよ」
「へ? ……は、はぁ」
エスメラルダ様はまるで悪戯を報告する幼子のような表情で、わたしにそう耳打ちする。彼女の意図することがよく分からぬまま曖昧に頷けば、エスメラルダ様はそっと瞳を細めた。
「まぁ、それは極端な例だけれど、後宮っていうのはどこも、基本的には男子禁制なのだそうよ? だって、そうしないと『皇帝以外の子』が皇族として育てられる……なんてことが起こりかねないですもの。我が国の後宮が寛大で良かったわねぇ、コルウス」
そう言ってエスメラルダ様はクスクスと楽しそうに笑う。コルウス様は眉間に皺を寄せながら、エスメラルダ様のことを見つめていた。
「――本当はね、後宮入りに連れてくる騎士は女性と相場が決まっているのよ? 私だってコルウスを連れてくる気はなかったの。お父様にも止められたし。当然よね……後宮は陛下のための花園だもの。だけど」
エスメラルダ様はティーカップを手に、ゆっくりと大きく息をつく。
「俺は、死ぬまであなたの側近くでお仕えすると誓いました」
すると、それまで黙っていたコルウス様がキッパリとそう口にした。力強い瞳。この件について、彼は一歩も引く気がない――傍から見ても、そう一瞬でわかった。
「――そうだったわね。だから、私は後宮入りを辞退しようと思っていたの。けれど、陛下が『コルウスを連れてきても構わない』と、そう仰ってくださって」
そう言ってエスメラルダ様は、どこか遠い目をする。コルウス様は感情の読み取れない憮然とした表情のまま、やがて徐に口を開いた。
「エスメラルダ様。先程、陛下が今夜、この翠玉宮にお渡りになると――そうお聞きしました」
コルウス様の言葉にエスメラルダ様が目を見開く。そのまま無言で彼を見つめたかと思うと、ややしてそっと視線を逸らした。
「そう……コルウスも聞いたのね。――そろそろ支度をしなければ」
そう言ってエスメラルダ様は、美しいお顔を曇らせる。とても切なげな表情だった。見ているこちらの胸が疼いてしまうほどに。
どうしてそんな顔をするのだろう。思わずそう尋ねたくなるような、魅惑的な表情だった。
「お忙しい時にお邪魔して、申し訳ございませんでした」
立ち上がってエスメラルダ様に向かってゆっくり頭を下げる。エスメラルダ様は「とんでもない」と口にしつつ、躊躇いがちにわたしの耳元へと唇を寄せた。
「――ミーナ様は、平気ですの?」
「…………え?」
エスメラルダ様は『何が』とは言わず、気づかわし気な表情でわたしを見つめている。何となくそのまま見ていられなくて、わたしはクルリと踵を返した。わけもわからず、心臓がドキドキと鳴り響いている。
「ミーナ様、どうか、またいらっしゃってください」
エスメラルダ様の声が優しく響く。最後まで彼女の顔を見ることができないまま、わたしはゆっくりと頭を下げた。
***
(夜だ……)
自室のベッドに横たわりながら、そんなことを考える。静かな夜だった。理由は明白。今夜はアーネスト様がいらっしゃらないからだ。
考えながら、心がずーーんと沈み込む。
アーネスト様は今夜、エスメラルダ様のいる翠玉宮にお渡りになられる。死に戻って以来はじめて、わたし以外の妃の元に通うのだ。
『一度目の人生で彼を殺した真犯人を見つける』ためだけに妃として存在しているわたしと違って、他の妃たちはちゃんとしたアーネスト様のお妃様だ。
つまり、アーネスト様が彼女達の元に通われるということは――夜伽をなさるということ。
(アーネスト様は、『今は子を作るつもりはない』と仰っていたけど)
今や皇族は彼一人きり。そんな中、貴族や民に『子作りをする気がない』と思わせるわけにはいかない。そのために、わたしの宮殿にも足繁く通っているのだし、他の妃たちにもそうと悟られるわけにはいけないのだろう。
だからこそ、頻度はさておき、金剛宮以外の宮殿にも通う必要がある。それはわかっているのだけど。
(どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう)
一度目の人生では、こんな風に感じることはなかった。そもそも、アーネスト様をお見掛けすること自体がなかったし、今夜は誰の元に通ったとか、そういう事情を知ることも全然なかった。
――ううん、知っていたとしても、なんとも思わなかったと思う。
(だって、それが当たり前だもの)
アーネスト様は皇帝だから。わたしとは違う世界に住んでる御方だから。お妃様と仲睦まじくするのを悲しく思うなんて馬鹿げている。だから、全然平気だった。
(今だって、全然状況は変わっていないのに)
アーネスト様が優しくしてくださるから――すぐ手の届く場所にいらっしゃるから、愚かにも勘違いをしてしまったんだ。
アーネスト様はカモフラージュのために金剛宮にいらっしゃっているだけ。ただそれだけなのに――まるでわたしに会いに来てくれていたかのように感じていたんだと思う。
(エスメラルダ様はきっと、このことを仰っていたんだ)
わたしが愚かにも『自分がアーネスト様の特別』だと、そう思い上がっていたから。アーネスト様がエスメラルダ様の元に通って『平気』なのかって――。
(平気もクソもないわ)
わたしはただの契約妃。それ以上でも以下でもない。身の程知らずにもほどがある。
自分がいかに、実体の伴わない『妃』という身分に浮かれているのか――そのことを思い知った気がした。
そんなわたしを戒めるかのように、その夜から一週間、アーネスト様が金剛宮を訪れることはなかった。