37.新たな契約
「ミーナと一緒に行きたいところがあるんだ」
アーネスト様からそう言われたのは、麗らかな春のある日のことだった。
アーネスト様が用意してくださった純白の美しいドレスを着て、誘われるがまま後に続く。そこには一台の馬車が停まっていた。
「乗って、ミーナ」
アーネスト様の手を取り、わたしは馬車へと乗り込んだ。
「一体、どこへ行くのですか?」
尋ねると、アーネスト様は人差し指をそっと立てて微笑む。内緒、ということらしい。聞いても教えてくれそうにないので、わたしは入内以来初めての外出を楽しむことにした。
「もしかしてこれ、お忍びってやつですか?」
皇帝が乗るにしては随分質素な馬車だし、お供はほんの数人だけ。精鋭揃いではあるけど、公式なお出掛けにしては警備が軽すぎる。
「そうだよ」
「いいんですか? こんな風に城を抜け出して」
こたえのかわりに、アーネスト様はわたしの頬に優しく口づけた。
別に、明確なこたえを求めていたわけじゃないんだけど、なんだか色々と誤魔化されている感じがする。そう伝えたら、アーネスト様は声を上げて笑った。
二時間程馬車に揺られて辿り着いたのは、小さな街の中にある、小さな小さな教会だった。とても古い建物で、所々壁のペンキが剥がれ落ちているものの、敷地内には草花が綺麗に咲き誇っている。
アーネスト様は躊躇うことなく教会の扉を開けた。中は比較的綺麗に整備されていて、ステンドグラスから色とりどりの光が射し込んでいる。
(あれ……?)
何でだろう? わたしはこの光景に見覚えがある。
首を傾げて眺めていると、アーネスト様がわたしの手をギュッと握った。アーネスト様は穏やかに目を細めつつ、わたしのことをじっと見つめる。
「ミーナ、俺たちがはじめて出会った場所だよ」
わたしは驚きに目を見開いた。
(そっか……)
ここはわたしが生まれ育った街だ。
幼い頃、食べ物が何も見つからないときに、わたしはこの教会を訪れていた。運がよければ司祭様に食べ物を分けてもらえる。
だけど、碌に整備されていない古い教会だし、街には困っている人が溢れていた。だから、毎回食べ物が貰えるというわけではない。
アーネスト様にはじめて会ったあの日、わたしは極限までお腹を空かせていた。そんなわたしを、アーネスト様が救い出してくれたんだ。
「アーネスト様は……わたしのことを覚えていて下さったんですね」
そう言いながら、涙が滲む。
死に戻り、初めて会話を交わしたときに、アーネスト様はわたしに名前を尋ねた。だから、アーネスト様はきっとわたしを覚えていないのだろうって、そう思っていたのだけど。
「絶対に忘れないでねってお願いしたのは、俺の方だよ?」
そう言ってアーネスト様はわたしのことを抱き締める。その途端、胸に熱い感情が込み上げてきた。
毒にうなされながら見た、アーネスト様と交わした約束の光景。あれは正真正銘、わたし自身の記憶だったんだ。
「だけど、どうして? 覚えていたなら、どうして再会したあのとき、名前をお尋ねになったんですか?」
そう尋ねると、アーネスト様は少しだけバツの悪い表情を浮かべた。
「ミーナが俺がつけた名前を今でも大事にしてくれているといいなぁと思って」
「――そんなの、当然じゃありませんか! わたしは……アーネスト様がつけてくださったこの名前は! ずっとわたしの心の拠り所だったんですから」
アーネスト様とわたしを繋ぐ、確かなもの。それは、彼がつけてくれた『ミーナ』という名前だった。
どんなに離れていても、自分の名前を口にするだけで、アーネスト様の存在を感じられる。「頑張れ」って言っていただいことを思い出して、ここまで生きてこれたのだ。
(どうしよう……)
嬉しすぎて涙が出てくる。こんなことがあっていいのだろうか――アーネスト様と再会してからずっと、わたしはそんなことを思っている気がする。
アーネスト様のために働けるだけで、幸せだと思っていた。顔を見られずとも、それで構わないって思っていた。
それなのに、気が付けばアーネスト様は、こんなにもわたしの近くにいる。
「約束だよ、ミーナ」
そう言ってアーネスト様は目を細めて笑い、夜会の夜と同じ金剛石のティアラをわたしの頭の上にのせた。
真っ白なドレスと金剛石が、ステンドグラスに照らされて、キラキラと美しい輝きを放っている。
アーネスト様は跪いて、わたしのことをまじまじと見上げた。息が止まってしまいそうな程、心臓がドキドキと鳴り響いている。繋がれた手のひらがとても熱い。触れたところから、眼差しから、アーネスト様の想いが伝わってくるような心地がする。
「ミーナ……俺のお嫁さんになってくれる?」
アーネスト様はそう言って、満面の笑みを浮かべた。
「わっ――わたしは既に、アーネスト様の妃なんですよ?」
わたしたちを縛る契約は既になくなった。
アーネスト様は無事で、命を狙われる心配はなくなったし、妃の元に通っているフリをする必要だってもうない。
けれどわたしは、これから先も妃として、アーネスト様の側にいる。そう自分に誓ったし、アーネスト様もそれを認めてくださった。正式な妃だって胸を張って言えるのに。
(こんな風に求めていただけるだなんて、思ってなかった)
幸せで――幸せ過ぎて、涙と笑みが零れる。
アーネスト様は穏やかに微笑むと、わたしの両手をしっかり握った。
「今の俺たちは皇帝でも妃でもないよ。一人の男として、俺は今ここにいる。俺はミーナと結婚したい。ミーナを幸せにしたいんだ」
真剣な眼差しがわたしを見つめる。
妃というのは役職だ。皇帝にとっての配偶者ではあるけれど、それはアーネスト様にとっての『お嫁さん』の定義とは違うのだろう。
(だからアーネスト様は、わたしを城から連れ出してくれたんだ)
本当の意味でわたしをアーネスト様のお嫁さんにするために――そう思うと、心が喜びに打ち震える。
「お嫁さんは――アーネスト様とずっと一緒にいられるんですよね?」
あの日アーネスト様から聞いた『お嫁さん』の定義を、わたしは改めて言葉にして確認する。
「うん。ずっとずっと、一緒だよ」
アーネスト様はそう言って、泣きそうな表情で笑った。
わたしは跪いたままのアーネスト様の胸に飛び込み、力いっぱい彼のことを抱き締める。アーネスト様はそんなわたしを、しっかりと受け止めてくれた。
春の風が草花の香りをそっと運ぶ。とても温かな香りだった。世界中の幸せを凝縮したような、そんな感覚がわたしを包み込んでくれる。
承諾の意を以て交わされた口付け――それは、わたしたちが結んだ、新たな契約の証だ。
「愛してるよ、ミーナ」
アーネスト様が笑う。その表情は、本当にビックリするぐらい幸せそうで。
わたしも、アーネスト様にこたえるべく、満面の笑みを浮かべたのだった。




