32.取引
それから数日後のこと、わたしは翠玉宮を訪れていた。
「ミーナ様、私にお話とは?」
エスメラルダ様は優雅に微笑み、そっと首を傾げている。
二人きりで話したいことがあると言って、わざわざ時間を作ってもらったのだ。
「エスメラルダ様に折り入ってお願い事がございます」
「何かしら?」と目を細めるエスメラルダ様に、わたしはゆっくりと頭を下げた。
「わたしはアーネスト様の妃に――皇后に相応しい女性になりたいと思っています」
言えば、エスメラルダ様は静かに息を呑む。余程驚かせてしまったのだろう。罪悪感が胸を過った。
「おこがましいことは重々承知しています。この間まで平民だったわたしが皇后になりたいだなんて、ものすごく分不相応だって。エスメラルダ様への侮辱と受け取られてしまうのではないか……そう考えたりもしました。だけどわたしは、アーネスト様の想いに応えたいんです」
心臓がドキドキと鳴り響き、緊張で体が小刻みに震える。
アーネスト様はわたしを手放さないと――今後、新たな妃を迎えることはないと仰った。
それは、わたしにとっては堪らなく嬉しいことだ。けれど、世間はそうは思わない。
クォンツに限らず、自分の娘を後宮に上げることのできない有力貴族たちは間違いなく反発するだろうし、平民出身の妃に対して国民がどう感じているかもわからない。
(今はまだ、お世継ぎへの期待があるからいい)
けれど一年後、五年後、十年後――もしもわたしに子どもができなかったら?
エスメラルダ様やベラ様にも子ができなくて、アーネスト様が馬鹿な女に入れあげたせいだとそしりを受けるようなことがあったら――そうなったら、わたしは自分を許せない。
おそらく、アーネスト様は批判を一身に引き受ける覚悟があるのだと思う。『ミーナは気にする必要ない』って笑って許してくれるとも思う。
だけど、アーネスト様はその覚悟と同じかそれ以上に、わたしに期待を寄せてくれているのだと思う。人々の批判を吹き飛ばせるぐらい――アーネスト様の決断が正しかったと皆が認めるぐらい、わたしが立派な后になれるって信じてくれている。
そんなアーネスト様の期待に応えたい。そう思ったら、じっとなんてしていられなかった。
「こんなこと、同じ妃であるエスメラルダ様にお願いするのは筋違いだと思います。けれどわたしは、もっともっと、妃としての自分を磨きたい。そのために、エスメラルダ様――あなたの力を貸していただきたいのです」
毎日、ほんの少しずつでもいい。前に向かって歩んでいきたい。
そのために、誰よりも美しく誇り高いエスメラルダ様に、その道を指し示していただきたいって、そう思ったのだ。
「頭を上げてください、ミーナ様」
エスメラルダ様はそう仰った。緊張で指先が凍える。
恐る恐る表情を窺えば、エスメラルダ様はとても穏やかに微笑んでいた。
「そう……ミーナ様は陛下の隣に立つ覚悟をなさったのですね」
窓の外をぼんやりと見つめながら、エスメラルダ様が小さく息をつく。憂いを帯びた瞳が、ほのかに揺れ動いていた。
それは呆れているのとも、怒っているのとも違っている。俄かには読み取れない、複雑な表情だ。
(どうなさったんだろう?)
想像していた反応と違っているため、どうすればいいかがわからない。
しばらくの間、沈黙が続いた。
やがてエスメラルダ様は意を決したように、徐に口を開いた。
「ミーナ様。私からもミーナ様に折り入ってお話したいことがございます」
いつも凛としたエスメラルダ様の声が、今日は少しだけ震えている。
「どうか誰にも――決して口外しないとお約束ください。ミーナ様と私、それから陛下だけの秘密にしていただきたいのです」
エスメラルダ様はそう言うと、真剣な面持ちでわたしを見つめる。
「わかりました。お約束いたします」
エスメラルダ様がなにを話そうとしているのかはわからない。けれど、こんなにも不安気なエスメラルダ様を見るのははじめてだった。
(そんな秘密を、どうしてわたしに?)
疑問を抱きつつ、エスメラルダ様をじっと見つめる。エスメラルダ様はなにかを躊躇う様にそっと目を伏せ、それから大きく深呼吸をした。
「はじめて陛下が翠玉宮にいらっしゃった夜――私は陛下にとある取引を持ち掛けられました」
「……取引、ですか?」
思わぬすべり出しに、わたしは小さく首を傾げる。エスメラルダ様は頷くと、こちらを真っ直ぐに見つめた。
「私にはずっと……片思いをしている男性がいるのです。元々身分違いで、叶わぬ恋であることはわかっていました。入内が決まり、いよいよ彼を諦めなければならない――忘れなければならないと、そう思いました。
けれど、できなかった。彼は私の一部で、どうしてもなくてはならない存在で……なんだかんだと理由付けをして後宮へ連れてきてしまう程、私は彼に恋焦がれていたのです。この恋が実らずとも、せめて側にいてほしいと――」
その瞬間、わたしは大きく目を見開いた。
(コルウス様だ)
エスメラルダ様は――ううん、エスメラルダ様もコルウス様のことを想っていた。二人は両想いだったのだ。
「入内をした以上、妃としての務めを果たさねばなりません。陛下の子を産まなければならない……けれど、私はそれが嫌だった。コルウス以外の人に触れられることが、どうしても受け入れられなかったのです。
そんな私の気持ちを見抜いていたのでしょうか――はじめて翠玉宮にいらっしゃった夜、陛下はこう仰いました。
『取引をしよう、エスメラルダ――理想的な妃として振る舞うこと――それさえしてくれれば、俺は君には他になにも求めない。周りの目を欺くために翠玉宮へ通っている振りはするけど、俺は君に一切触れない。そう約束する』
と」
エスメラルダ様の言葉に、わたしは静かに息を呑んだ。
(え……? 一体、どういうこと?)
エスメラルダ様は、神妙な面持ちでわたしをじっと見つめている。わたしがどんな反応をするのか怯えているらしい。体が小刻みに震えているし、顔が青白くなっている。
「あの、一度も――約束は破られていないのですか?」
俄かには信じがたい話だった。
だって、エスメラルダ様はわたしとは違って、知的で家柄もいい、本当に理想的なお妃様だ。金剛宮以外でアーネスト様が通われるのは、翠玉宮――エスメラルダ様のところだけだって、そう聞いていたっていうのに。
「ミーナ様の仰る通りです。陛下は一度だって約束を違えることはありませんでした。嬉しかった――それと同時に、私は大きな罪悪感を抱えていたのです」
エスメラルダ様の声が大きく震える。こちらまで胸が締め付けられるような、そんな声音だった。
「本来なら、私は陛下の子を産んで、次の皇帝を育てることを期待されています。もしも後宮がなく、妃を一人に限らなければならなかったなら、選ばれていたのは私かソフィア様のどちらかだったでしょうから……。
それなのに、私は妃としての務めを放棄し、己の私利私欲に走りました。妃を辞そうと思ったことも、一度や二度ではございません。務めを果たせない己がたまらなく情けなく、恥ずかしかったのです。
けれど陛下が『ここを出てもコルウスとは結ばれない。他の貴族と結婚させられ、離れ離れになるぐらいなら、後宮にいた方がいいのではないか』と仰ってくださって」
いつも凛としているエスメラルダ様が、ポロポロと止め処なく涙を流している。
(そうか……そうだったんだ)
契約妃はわたしだけじゃなかった――エスメラルダ様もまた、アーネスト様の契約妃だったのだ。
アーネスト様の言うとおり、契約はきっと、彼女の恋心を守る唯一の方法だったのだと思う。
身分の違うエスメラルダ様とコルウス様が結ばれることはない。しかも、貴族は未婚を貫くことができないといって聞くし、エスメラルダ様の想いを尊重して、白い結婚を貫いてくれる男性なんて存在しないだろう。
けれど、責任感の強いエスメラルダ様にとって、アーネスト様との契約は諸刃の剣だったのだ。
恋心を守れることを喜んだものの、それと同じだけ、務めを果たせぬ自分に傷ついていた。エスメラルダ様はその傷を、ずっとずっと一人で隠して生きてきたんだ。
きっと、すごく辛かっただろう。苦しかっただろう。そんなエスメラルダ様の胸の内が、わたしにはよくわかる。
「――ですから先程、ミーナ様が私に力を貸してほしいと言ってくださって……私は嬉しかった。ここにいてもいい理由ができたような、そんな気がしたのです」
エスメラルダ様はそう言って、わたしの手を優しく握った。
「陛下はきっと、こんな日が来ることを見越して、私をここに留められたのだと思います。私がミーナ様の矛と盾になれるように――そんな風に願って。
ですからミーナ様、どうか申し訳ないなどと思わないで。私は本当に、嬉しいのです。これは妃として、私が陛下のためにできる唯一のことだと思います。私のすべてをもって、あなたに皇后への道を示すことをお約束いたします」
「エスメラルダ様……」
それは紛うことなき、エスメラルダ様の本心だった。わたしにはわかる。だって、わたしもずっと『ここにいてもいい理由』を探していたから。
「改めて、よろしくお願いいたします」
そう言ってわたしたちは微笑み合った。晴れ晴れとしたエスメラルダ様の表情を見ていると、心がほんのりと温かくなる。
(いつか、エスメラルダ様にも打ち明けられる日が来るだろうか)
わたしがアーネスト様の契約妃だったこと。お話できる日が来たらいいなって思いつつ、わたしは一人目を瞑る。
「失礼いたします、ミーナ様!」
けれどその時、カミラの慌てた声が聞こえてきた。
「どうしたの、カミラ?」
今はエスメラルダ様と二人きり。余程のことがない限り、声を掛けないようにと伝えてある。
それに、いつも卒のないカミラがこんなに慌てるなんて珍しい。エスメラルダ様と目配せを交わしたあと、わたしはカミラに入室を促した。
「お話の最中に申し訳ございません。至急、ミーナ様のお耳に入れたい件がございまして」
カミラの顔はひどく青ざめている。ダラダラと汗を掻いているし、尋常じゃない様子だ。
「落ち着いてカミラ、一体どうしたの?」
「ミーナ様……ロキ様が…………ロキ様がっ!」
その時、わたしは自分の耳を疑った。
「ロキ? ロキがどうかしたの?」
思わず身を乗り出したら、カミラはわたしをゆっくりと見上げた。絶望的な表情。心臓がギュッと軋む中、わたしはゴクリと唾を呑む。
「ロキ様が暴徒に襲われ、崖から転落したと――」
その瞬間、目の前が真っ暗になる心地がした。




